第14話 :システム負荷からの警告
――エラー。エラー。緊急警告。
――システム負荷が閾値を超過しました。環境維持データの強制消去まで、残り僅かです。
数百年後の未来レイヤー。
木曜日の十七時三十分、私が「今日の一時間シフトもサクッと終わらせるぞ〜」とのんきにログインした直後、視界のすべてが真っ赤な警告インジケータで埋め尽くされた。
いつもなら爽快な電子音とともに広がるはずの、美しく洗練された未来の仮想世界はどこにもない。
鼓膜を激しく突き刺すのは、現実の非常警報の何倍も耳障りな、ウーウーと地鳴りのように鳴り響く大音量のサイレン音だった。
「ちょっと待って、ログイン早々なんですかこの大炎上は!? 画面が真っ赤すぎて目がチカチカしますよ! これ、労働安全衛生法的に絶対にアウトな作業環境ですからね!? まるで深夜にサーバーが落ちて緊急呼び出しされたシステム部の人みたいじゃないですか!」
私が両耳を塞ぎながら怒鳴ると、空間に浮遊する半透明の球体――サポートAIのミネルヴァさんが、いつも通りピクリとも動じない淡々とした合成音声で、こちらに最悪の業務報告を告げてきた。
『緊急警告。第7セクター全体の環境パラメーター――具体的には、風環境および気圧バランサーの数値が危険閾値を超過しました。現在のデータ崩壊レートを算出した結果、本日のシステムダウン、およびエリアデータの強制フォーマットは不可避の情勢です』
「システムダウン!? データの強制フォーマット!? いや、世界の危機だかなんだか知りませんけど、それよりミネルヴァさん、これって私の環境維持バイトの評価に響きますか!?」
『肯定。テスター規約第十四条に基づき、担当エリアにおける環境崩壊が確定した場合、原因の如何を問わず、本日の労働報酬は【一律八〇%カット】となります』
「は、八〇%カットぉぉぉ!? ふざけないでください! 一律ってなんですか一律って! 前工程の人間がやらかしためちゃくちゃな突貫工事の尻拭いをしてあげてるのに、なんで私の給料が減らされるんですか! 典型的な労働搾取、悪質な下請けいじめですよこんなの!」
私は怒髪天を衝く勢いで拳を握りしめ、空中を飛び回るミネルヴァさんを睨みつけた。
世界の危機なんてどうでもいい。私の汗水たらした一時間の労働の対価が、他人の不手際のせいで二割に目減りするなんて、絶対に納得がいかなかった。
「ちょっと待ってくださいよ、そもそも普通に社会人として働いてたらこんな不条理なこと絶対にないでしょー! 万が一、現実の仕事でこんな杜撰な計画倒れのトラブルに巻き込まれて、まともな手続きもなしに給料を削られたら、速攻で労基に駆け込まれて一発でアウトですよ!? なんでそんな重大なコンプライアンス違反が、この最先端の開発環境では平然とまかり通ってるんですかーーー!?」
『回答。本システムにおける規約は絶対であり、テスターはすべての結果に対して連帯責任を負うものと定められています』
「連帯責任なんて悪質な免責条項、現代の労働法なら一発で無効ですからね! いいですか、私は定時で帰って、定時にお給料をもらうためにここにダイブしてるんです! こんな理不尽な減給、真面目な労働者として絶対に、万が一にも許せることじゃありません!」
私が怒りのネオンオーラを激しく燃え上がらせていると、空間のシステム負荷はさらに跳ね上がり、真っ赤な警告ログが滝のように視界を流れ落ちていった。
一方その頃、山の中腹の岩陰では、黄金の神鳥ガルーダがガタガタと全身の羽を震わせていた。
前日の夜、自身の全生命力と神威を賭した最大最強の最終奥義、あらゆる生命を灰燼に帰すはずの『終焉の劫雷』を放った彼は、目の前の電脳の小娘に「画面が見づらい派手な演出」として一蹴され、精神的ハングを起こして白目を剥いてフリーズしていた。
それから一晩が経過し、システム的な自動再起動を経て、ようやく奇跡的に意識を取り戻したガルーダだったが――彼を待っていたのは、昨日以上の絶望だった。
世界を血の海のごとく赤く染め上げる滅亡のアラート。
天を震わせ、大地を揺るがす恐怖の咆哮。
shadow(世界の崩壊を告げるサイレン)。
そして何より、昨日の一撃を完全に『消去』した因果の破壊者が、さらなる怒りのオーラを纏ってそこに再臨していたのだ。
『(ガタガタと羽を鳴らしながら)あ、あの電脳の魔王がまた現れた……! なんという凄まじい業執の波動だ。世界が血に染まり、天が悲鳴を上げている……! 我が全力を尽くした神雷すら、奴にとってはただの露払いに過ぎなかったというのか。一晩の猶予を経て、ついにこの世界を根絶やしにする『終焉の数刻』を始められたのだ……!』
ガルーダは完全に戦意を喪失していた。
私が放っているのは、ただの「不当な減給に対する純粋な労働者の怒り」なのだが、古代の神獣たるガルーダの認知フィルターを通すと、それは「世界そのものを無に帰そうとする絶対的な破壊衝動」にしか見えなかった。
『見よ、あの怒りに満ちた形相を。神界の法すらも不服として、上位存在にすら牙を剥いている……! あの魔王の前では、世界の理などただの紙切れに過ぎんのだ。逆らえば、我が存在ごとデータの塵にされる……!』
かつて空の覇者と恐れられた神鳥は、世界の終わりを確信し、岩陰の隅っこで一本の哀れな焼き鳥のように小さく丸くなって震えることしかできなかった。
「はぁ、はぁ……。怒ったらお腹が空いてきました。いや、そんなことよりまずは現状把握です。ミネルヴァさん、サイレンの音量をちょっと下げてください。思考が遮られます」
『拒否。本アラートはシステム重要度「災害級」に設定されているため、音量の変更は不可能です』
「融通の利かないシステムですね、本当……。仕方ありません、まずは自分の目で周囲を観察しますよ」
私は構造解析を始める前に、まずは一歩踏み出して、この大炎上しているエリアの周囲を見渡してみた。
昨日、前工程の担当者が作ったあのツンツンと尖った悪趣味な突貫山脈は、相変わらず目の前にそびえ立っている。
だけど、周りの雰囲気は昨日とは明らかに違っていた。
なんだか、世紀末をテーマにした治安の悪いアミューズメントパークみたいになっている。
空が全部赤くて、紫色の変なモヤモヤした雲がものすごいスピードでぐるぐる回っているのだ。景観デザイン的にも、センスが最悪と言わざるを得ない。
さらに、肉体に伝わってくる感覚も冗談抜きで酷いものだった。
ゴォォォォ、と地鳴りのような音を立てて吹き荒れる風が、私の短い髪をめちゃくちゃに乱していく。
この風、ただの強風ではない。風の向きが完全に支離滅裂だ。
右から吹いてきたと思ったら、次の瞬間には地面から巻き上げるような突風になって、周囲を荒れ狂っている。もしこれが現実の建築現場だったら、安全ネットも足場も一発で吹き飛んで作業中止になるレベルの悪質な暴風だ。
ひゅうひゅうと鳴る風の音に混じって、ピキピキと空間がひび割れるような奇妙な音まで聞こえてくる。
見上げれば、あの突貫山脈の山頂付近で、空気そのものがねじ切れるような激しいデータの渦が、まるで黒い巨大な竜巻のように成長しつつあった。
あんな危険な状態のオブジェクトを放置するなんて、安全管理責任者は一体どこで油断しているのだろうか。速やかに立ち入り禁止区域に設定しないと、いつ大事故が起きてもおかしくない。
周囲の木々は激しくしなり、葉っぱがちぎれ飛んでデータの塵へと変わっていく。
地面の岩肌も、強烈な風圧のせいでガリガリと削られ、ポリゴンが剥き出しになっていた。
まさに、環境そのものが自身の重さと構造の歪みに耐えかねて自壊を始めているような、破滅的な光景だった。
これを放っておいたら私の労働実績が真っ赤に染まるだけじゃなくて、このエリア全体が使い物にならなくなってしまう。前工程のやらかしの規模が、一晩寝かせたせいで発酵して何倍にも膨れ上がっているのだ。まったく、後始末をする身にもなってほしい。
「ああもう、これ以上見てるだけ時間の無駄です! さっさと原因を特定して、物理的に叩き潰しますよ! 起動――CADモード!」
私が右手を鋭くかざすと、視界に鮮やかなブルーのグリッド線が走り、目の前の巨大な突貫山脈が透過された。
世界が青く輝く『|構造三次元ワイヤーフレーム《CADデータ》』へと変貌し、複雑なベクトル矢印が空間を埋め尽くす。
一晩放置された山脈の周りの気流データをスキャンした瞬間、私はあまりの惨状に本気で頭痛を覚えた。
「やっぱり! 私の見立て通り、一ミリの狂いもなく完全に見事な設計ミスです! あの欠陥山脈が巨大な壁になって、風の逃げ道が完全にゼロになってるじゃないですか! 逃げ場を失ってスタックした周囲の気流データが、押し出されるように暴走して、セクター全体の換気空調を窒息させてるんですよ!」
『報告。気流の滞留による圧力ロスが限界値に達しました。当該エリアの風速、および気圧ログが異常値を更新し続けています』
「現実の街中なら、近隣住民から『ビル風のせいで看板が飛んできた』って苦情が殺到して、大問題になるレベルの悪質な設計瑕疵ですよ、これは! 周辺環境への配慮を怠って、自分たちの見栄えだけでこんなツンツンした突貫山脈を作るから、こんな大規模な公害が発生するんです!」
画面を流れる真っ赤なエラーログの滝を睨みつけながら、私は腕時計型のインジケータを確認した。
その瞬間に表示されたデジタル数字を見て、私は文字通り血の気が引いた。
「じゅう、十七時三十分にダイブして、今日の私のシフト終了は、十八時三十分……。現在の時刻は、十七時四十五分……。えっ、あと四十五分、一時間もないじゃないですか……!?」
私はガバッと両手で頭を抱え、本日一番の絶望の悲鳴をあげた。
「嘘でしょ!? あと四十五分でこの大炎上エラーを根本から消し去らないと、私のシフト実績に致命的な傷がついて、今月の貴重なお給料が根こそぎ持っていかれる……!?」
それだけではない。
私の脳裏に、さらに恐ろしい、最悪のシナリオが浮かび上がってきた。
「待って……もし、このバグが時間内に片付かなかったらどうなるの? システムダウンを阻止するために、強制的に残業させられる……? この私が、たった一時間のサクッとバイトのつもりだったのに、サービス残業の泥沼に引きずり込まれるっていうんですか……!礼儀正しく定時で帰るのが私のモットーなのに!」
そんなことは、私のプライドが、あるいは私の胃袋が絶対に拒絶する。
「そんなの絶対に嫌です! もし残業なんてことになったら……今日の私の晩御飯を食べる時間が、めちゃくちゃ遅くなっちゃうじゃないですか!!!」
美味しいご飯を、定時に、健康的に食べてこその人間らしい労働だ。
お腹が空いてイライラしている時に、他人のやらかしたお粗末な設計ミスに付き合わされるなど、言語道断。
不当な減給の危機。
岩陰で完全に怯えきって焼き鳥寸前になっている哀れな神鳥。
そして、定時退社を脅かす「晩御飯遅延」という、プライベートにおける最大級の危機。
それらの脅威に挟まれながら、私は絶対に、何が何でも十八時三十分ぴったりにログアウトを勝ち取るという強い執念を燃やした。
「見てなさいよ欠陥山脈! 私の定時と、美味しい晩御飯のために、そのツンツンした頭を根元から綺麗に更地にしてあげますからね!」
真っ赤に燃える空中ディスプレイをキッと睨みつける私の瞳には、世界を滅ぼす魔王をも凌駕する、絶対的な『定時退社』への執念が宿っていた。




