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第11話:数百年後の世界(跳躍)と、いつものワンボタン

水曜日の午後六時。


定時退社を告げるチャイムと同時にダッシュで会社を飛び出した私は、帰宅するなりソファへと滑り込んだ。

お仕事用の窮屈なスーツを脱ぎ捨てるのももどかしく、手慣れた動作でHMDヘッドマウントディスプレイを頭にパイルダーオン。さらに、指先の繊細な動きをミリ単位で感知するセンサーグローブを両手にしっかりと装着した。


『――システム・ダイブ、正常に完了。お目覚めですか、ユーザーC』


鼓膜の奥で心地よい電子鐘の音が鳴り、お馴染みの管理AI『ミネルヴァ』の冷徹な声が響く。

さっきまでの狭い六畳間は一瞬で消え去り、視界は一面真っ白な仮想空間――デバッガー用のシステムルームへと切り替わっていた。


「お疲れ様ですミネルヴァ! 今日も元気に夜間アルバイト、環境整備デバッグしちゃいますよー!」


『仕様です。本日もユーザーCのログインを検知。速やかにデバッグ業務の割り当てを開始します』


目の前に、淡いブルーの案内ウィンドウが空中ディスプレイ(画面)として浮かび上がる。

大手ゼネコンに勤めつつ、夜な夜なこの最新VRゲームのテスターとしてお小遣い稼ぎをするのが、最近の私の完璧なルーティンなのだ。


「さてさて、まずは本番の前に、いつもの通常ルーチン作業をサクッと終わらせちゃいましょう」


私は空間にかざした右手の指先をシュッと動かし、一括環境操作ツール、通称『PAD(パッド)』を起動した。

画面に表示された『一括草刈り』と『オブジェクト撤去』のアイコンを、人差し指で軽快にタップする。


「このボタンを、ポチッとな!」


ピコン! ピコン!


電子音が小気味よく響いた、次の瞬間だった。

画面の向こう側のセクターで、システムのバグのせいで異常繁殖してテクスチャが裏返っていた雑草たちが、ババババッ!と爽快な緑のエフェクトになって一瞬で消滅した。

さらに、道を塞いでいた不自然な巨大岩のバグデータが、ゴロゴロ〜ッと音を立てながら虚空へと吸い込まれ、綺麗さっぱり消え去っていくログが超高速で流れていく。


「んふー! やっぱりワンボタンで全部綺麗になるの、ほんっとに気持ちいいです! お家のお掃除や、会社での書類整理もこれくらい一瞬でシュパッと終わればいいのに〜」


地面が見事なまでにレベリングされ、整えられていくステータスを見て、私は満足げに胸を張った。

現実の建設現場でこれだけの整地・清掃(デバッグ)をやろうと思ったら、どれだけの労力がかかることか。まず泥をすすりながら施工計画書を作成し、お役所に道路使用許可を申請し、予算をやり繰りして職人さんや重機を手配し、近隣住民からのクレームに頭を下げ、現場では『安全帯よし!』『足場よし!』と現場猫さながらに目を光らせる……。そこまでやって、ようやく数日かけて終わる作業なのだ。

それがどうだ。この世界なら、画面のボタンを「ポチッ」とするだけで、職人の手配も重機の燃料費もゼロで、完璧な4S(整理・整頓・清掃・清潔)が完了してしまう。


「指先一つで現場の4Sが整うなんて、現実の施工管理の仕事にも今すぐ導入してほしいくらいですよ」


『仕様です。現実世界の労働環境に関する愚痴は、システムログの肥大化に繋がりますのでお控えください。なお、基本ルーティンワークに対する報酬のインセンティブは、既にアカウントへ計上されております』


「はーい、いつもお仕事が早くて助かります!」


『アナウンス。基本業務の完了に伴い、本日のメインタスクへ移行します。上の開発エリア――すなわち『数百年後の未来レイヤー』において、日中に新しい大規模なオブジェクトが生成デプロイされました』


「へぇ、新しいオブジェクトですか? 運営のモデラーさん、日中も頑張ってますね」


『はい。つきましては、現地へ赴いて様子を見ていただき、環境パラメーターに悪影響を及ぼすような不安全状態がないか、巡回をお願いします。これよりユーザーCを、数百年後の未来レイヤー(みらいの世界)時間跳躍ダイブさせます――』


ミネルヴァさんの機械的な声が響くと同時に、私の周囲の景色がシュワシュワッと粒子になって崩れていく。

と、その瞬間。システムルームの端に赤字のエラーログが奔った。


【未来レイヤー専用支給アバター自動適用エラー:代替アサインを実行します】


「あれ? ミネルヴァ、なんか今変なログが――」


言いかけるより早く、視界が爆発的な光に包まれる。一瞬の浮遊感のあと、私の身体は数百年後の未来レイヤーへとソフトランディングしていた。


まばゆい光が収まり、私は自分の足元を見て、思わず硬直した。


「……って、ちょっと何ですかこの服はぁぁぁ!?」


いつも使っているお気に入りの『安全帯付き作業服アバター』が影も形もない。

代わりに私の身体を包んでいたのは、過剰なほどにネオンがギラギラと発光し、信じられないほどミニスカートの丈が短い、ひどく露出度の高いサイバーアイドル風のドレス姿だった。


「ちょっとミネルヴァ! いつものツナギはどこ行っちゃったんですか! なんですかこのピカピカ光るミニスカートは! 現場で生足露出は不安全の極み、墜落や擦過傷の温床ですよ! 安全第一を舐めてるんですか!?」


『アナウンス。未来レイヤー用支給アバター仕様:【電脳歌姫・ミライネオン】。該当セクターのエラーパッチに基づき、システム側でアサインを固定しています。なお、本アバターには『完全衝撃吸収』および『絶対不燃属性』が付与されており、作業員の安全は保障されています』


「あ、破れないし燃えない素材なんですか。衣服の廃棄ロスを減らして着替えのエネルギーも削減する、究極のサステナブル仕様ってことですね……。エアコンいらずの省エネ省資源ですか。これ、現実の解体現場の職人さんにも支給されれば最高の防護服になるのになぁ。……まぁ、安全基準をクリアしてるなら、今日はこれで我慢しましょう!」


納得の方向性を斜め上に着地させつつ、私は気を取り直して前を向いた。


「さあて、未来の新しいオブジェクトはどこかな〜?」


観光地に来た子供のようなワクワク感で、私は大きく目を開けた。

そして――今度こそ、脳の全回路が完全にフリーズした。


「……え?」


私の目の前に広がっていたのは、のどかでピカピカした未来の街並みなんかではなかった。

地平線の右の端から、左の端まで。視界のすべてを、光を遮る圧倒的な質量で完全に塞ぐようにそびえ立っていたのは、禍々しいほどの黒い大壁だった。


それは、地表面から天を衝くように垂直にそびえ立つ、あまりにも巨大すぎる山脈だった。

スケールが完全に狂っている。高すぎる。見上げても、見上げても、山の天辺が遥か上空の雲に隠れてまったく見えない。太陽の光すら完全に遮られて、私の周りはどんよりとした不気味な影に包まれている。


普通のファンタジーゲームのプレイヤーなら「おお、なんと神々しい魔山だ……!」と感動するか絶望する場面だろう。

けれど、実家の特殊解体業で幼い頃から安全学を叩き込まれ、自身もゼネコンで働く私の目は、別の致命的な欠陥を捉えていた。


私はポカーンと口を開けたまま、グローブ型端末をはめた両手をワタワタと小刻みに震わせ、その山脈を凝視した。


「……ちょ、ちょっと待ってくださいミネルヴァさん! あの壁、なんですかぁぁ!? 高すぎてお空が全然見えないのは百歩譲って、全体的にめちゃくちゃ急斜面っていうか……上がツンツンしてて、これ、ベース(基礎)の割に高すぎてグラグラしてません!?」


私のプロとしての本能が、その異常な設計に対して激しいアラートを鳴らしていた。

山の斜面の角度――すなわち勾配が、土質工学の常識を遥かに超越しているのだ。まるで泥の団子を無理やり細高く積み上げたかのような、不自然極まりない垂直に近い絶壁。表面をコンクリートで固める法枠工(のりわくこう)などの斜面崩壊防止対策も、一切なされている形跡がない。


「あ、あんなの、横から強い風がビュウウウッて吹いたら、絶対にパタンッてこっちに倒れてきちゃいますよ! 高さに対する支持層の幅が圧倒的に不足しています! 構造力学上の横風荷重による転倒モーメントの計算が、完全に限界値を突破している不安全状態です! 建築基準法違反ですよ、怖すぎます!」


私がパニック気味に叫ぶと、脳内でミネルヴァさんの淡々とした、血も涙もない電子音声が響いた。


『却下します。該当オブジェクトは未来エリアにデプロイされた【神鳥の巣食う魔山】です。構造力学ではなく、システム上のファンタジー物理法則によって座標が維持されているため、転倒の危険性はありません。速やかに巡回を完了してください』


「ファンタジーだろうが何だろうが、現場の人間から見たらただの超巨大な欠陥構造物です! 誰ですか、こんな危ない壁を設計した人は……」


私はフッと息を吐き、呆れを通り越して、なんだか前工程の担当者が気の毒になってきた。


「あ、もしかして運営のモデラーさん、毎日お仕事が忙しすぎて、寝ぼけて山脈の高さのパラメータを『一桁』間違えて実行しちゃったのかな? うっかり屋さんですね!」


きっとそうだ。深夜の二時とか三時とか、意識が朦朧とする中で「えいっ、これで納品しちゃえ!」って数値を打ち込んだに違いない。現実のゼネコンでもよくあるのだ。徹夜明けの先輩が、図面の寸法線を一本引き間違えて、現場が文字通りひっくり返るような大騒ぎになる悲劇が。


「こんな危険なオブジェクトを放置したら、明日の朝の会議でテストの評価が下がって、そのモデラーさんが上司にこっぴどく怒られちゃいますよ。お気の毒すぎます! よし、同じ下請けの仲間として、現場の私が綺麗に手直ししてあげましょう!」


困ったときはお互い様だ。前工程のうっかりさんを救うため、私はがぜんやる気を出し、ふんす、と鼻息を荒くした。


『理解不能。ユーザーCの精神的認識フィルターに、著しい現実逃避と誇大妄想の兆候を検出。重ねてアナウンスします。現在、該当オブジェクトへの直接的な編集権限はシステムロックにより制限されています。手直しを行う場合、まずは現地での詳細な仕様特定が必要です』


「だからこそ、まずは現場、現物、現実の『三現主義(現場の基本)』ですよ! 机の上の図面だけであーだこーだ言うのは二流のすることです! どこが一番グラグラしてて危ないのか、ちゃんとお手々の画面にデータを同期させながら、自分の足で現地調査してきます!」


私は安全第一の精神と、見知らぬ前工程の仲間への100%の善意を胸に、ネオンがピカピカ光る趣味じゃないサイバーミニスカドレスの裾をパタパタとはためかせた。


こんな理不尽な巨山、ワンオペで調査するなんて現実なら過労死案件だけど、ここはゲームのバイトだ。ちょっとしたハイキング気分でトコトコと山脈の麓へと歩き出す。


しかし――その時だった。


はるか天空、雲に隠れた山頂の向こう側から、鼓膜を激しく震わせる不穏な「鳥の鳴き声」が響き渡った。それと同時に、山の斜面を伝って、生温かく激しい突風がゴオオオオッ!!!と猛烈な勢いで吹き下ろしてくる。


「ひゃあ!? なに、この強烈なビル風現象!? やっぱり設計の計算が狂ってるから、周辺の気流が最悪なことになってますよー!」


突風に煽られてミニスカドレスを押さえながら、私はまだ気づいていなかった。その山頂に、この世界の生態系の頂点に君臨する、おっかない神鳥が巣食っているということに――。

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