こぼれたショコラの惨事
昔は「人の噂も七十五日」と言ったものだが、今どきネット上を情報が飛び交う速さを先人たちに見せたら、その見込み期間をきっとばっさり削るだろう。メディアはおそらく二週間もすれば俺たちのことなど忘れる。だが、その二週間が貴重なのだ。こっちは時間制限つきなんだぞ!
俺は家に――うちの店に戻っていた。ビデオカメラを追い払うため、いつもと違う時間にシャッターを下ろしている。このネックレスと身近な人たちは、俺に告げていた。「今すぐ逃げれば、生き延びられる」と。だがセンセーショナリズムが世界を回している以上、その主張ははっきりとこう言っていた。「お前はもう手遅れだ」と。
評判へのダメージは取り返しがつかなかった。壊滅的だった。
気が滅入るほどはっきりしてきた。家族の遺産と、俺が気安く結びつくことなど、もうできないのだと。俺という人間の「篠原」の部分は、炎を噴き上げて燃えていた。
一方で、秘密のMidnightChefとしての俺は、無傷だった。
たとえMidnightChefが篠原の名の灰から不死鳥のように蘇ったとしても、俺が舞い上がるときに残るのは、まさにそれだ。愛する人たちの灰だ。
望んでいても、俺は自分で築いたブランドと関わることを禁じられたままだった。自由の行使というより、動画で顔を隠すことが今や必須になった。追加の依頼を受けるのもやめるつもりだった。もっとも、この拙速な決断を下すことには、まだ迷いがあった。理由はこうだ。リピートを求めて連絡してくる今の依頼人の数は、しばらくのあいだ間違いなく減る。彼らが署名したNDAが、俺の命綱だった。
俺は晒されようのない存在だった。それでいて、契約で結ばれていない相手には、自分を晒すことを禁じられていた。
「大丈夫か、お前?」兄が俺の横を慌ただしく通り過ぎた。
「本格的なアイデンティティ・クライシスの真っ最中だ」俺はソファのクッションに顔を埋めてうめいた。
「わかるよ。話はあとでな。アイデンティティ・クライシスはカウンターの裏でやってくれ。店は閉めてるけど、急がないといけない。荷物を取りに行ってくる」兄は鍵をじゃらつかせて出ていった。うちの店は破産寸前だった。立て直せるのは金だけだ。
俺は手を動かした。こういうときは体を動かして頭をすっきりさせたほうがいい。そうすれば、解決策だけに集中できる。
プライベートシェフとしての稼ぎは、ここのショコラよりもずっと多かった。それでも学園に入学したとき、俺は自分の代表に家業を選んだ。当時、俺のMidnightChefチャンネルの登録者数は、十万人をようやく超えたところだった。
世間的には、俺の見た目も、学生としての俺の存在そのものも、家の名前と歴史を背負っていた。MidnightChefとしての正体からは、切り離されたまま。
学園を転校すれば、当然もっと詮索を招く。逆に、在籍し続けられれば、それは称賛されるだろう。問題は、投資家も客も、沈みかけたブランドとの関わりを避けるということだった。
ゴールデンウィークまでに残された十五日の登校日を、二つの収入源にどう割り振るか見極めなければならなかった。崩れかけている今の状態でも、家の店を救うことに全力を注ぐのか? それとも、プライベートシェフになることに心も魂もすべて注ぎ込むと決めるのか?
考えれば考えるほど、こう思えてきた。不名誉を負った店が売上を回復できないままなら、最も合理的な選択は、いったん転校し、二学期にネットでの影響力を携えて戻ってくることだ。大局的に見れば、たとえ家の店を救うことになるとしても、MidnightChefの匿名性を守ることのほうが、とくに評判と収益の面で、得られるかもしれない利益を上回っていた。
では、自分の稼ぎで家族を支えるのか? この店を継ぐことになっている兄はどうなる? 両親は? スポンサーからの莫大な寄付もなしに、この苦しい時期をどうやって家族で乗り切ればいい? それに、特定班なら、そのスポンサーが俺だと突き止める手段をきっと持っている。俺がMidnightChefだと暴かれてしまう。あるいは特定班はきっと、スポンサーを別の同級生だと特定して、その人に詮索の目を向けるだろう。
頭に浮かぶどの選択肢も難しかった。だが、どれも間違ってはいなかった。
スマホが鳴りっぱなしだった。結衣と琴音から不在着信があり、メッセージもずらりと並んでいた。
誰に電話しようか決めかねていると、画面に亜紀の名前が表示された。
俺はしぶしぶ応答した。
亜紀が嫌いだからではない。亜紀のことは高く買っている。それどころか、俺の前では完全にプロでいられない彼女のことを、なかなか可愛らしいと思っていた。俺のためらいは、未来から来ていた。過去も、現在も、あらゆるものの未来も貪欲に食らい尽くす少女と、俺がつながってしまう未来から。
和佳美の助言が、俺の頭に子守唄を歌った。
「最も合理的な戦略は、お店を新しい経営のもとに置くことよ。MidnightChefとしてのあなたのサービスを、NDA付きで含めた事務所の傘下にね。そうすれば収益は非公開のまま、学園と、税務上の目的でだけ共有されるわ」
「冗談はやめてくれ。それは、学園に登録したときの代表事業を変えるってことだ。いったん転校して、二学期に再出願しなきゃならない」
「その頃には、ご実家のお店の評判へのダメージは、もう決定的になっているかもしれない。そうでしょう? 確かに、そうなると新しい経営に統合するという妙案の価値も薄れるわね。どうしてわたくしに電話したの? どうしてわたくしを無視して亜紀の電話に出たの? どうして通話を切らずにいるの? わたくしのことが好きなの? 本当に、わたくしが完璧な解決策をくれるとでも思った? あなたがもがくところが見たいのよ、ミッドナイトシェフさん。いっそ家名なんて、深淵に放り捨ててしまったら?」
「そんなことはできない」
「できるわ。あなたはそういう人だもの。……答えなし? なんて堂々巡り。まあいいわ。現実に真正面から向き合っているときのあなたのほうが、やっぱり好きよ。今回は鼻先に突きつけられる羽目になったのが残念だけれど。もっと差し迫った問題があるんじゃなくて? そちらに向き合えば、もっと答えが開けるかもしれなくてよ」
「わかってる」
「わかっているのはわかっているわ。それなら、動き出したら? 走り出したら? ああ、今度は自分自身から逃げるんじゃなくてね」
性格悪すぎだろ。
「それじゃあ、亜紀の電話には出ないで、あの子たちにかけてあげたらどうかしら?」
和佳美を心底嫌いだとは言えなかった。結局のところ、彼女は正しいのだ。
「和佳美さん、頭がおかしいな」
「世界について知りすぎると、こうなるのよ。デザート、待っているわね!」
俺は重いため息とともに通話を切った。
何を選べばいいのかわからなかった。今はただ、痛みしか感じられなかった。家の名前を捨てたくなかった。大切な人たちのために、全力を尽くしたかった。
「先輩、ニュース出まくりじゃん!」折り返し電話すると、琴音が叫んだ。「枠、全部先輩に持ってかれてるんだけど。ホテルのお披露目用に撮ったあたしの新作、ビジュ最強なのに誰にも見てもらえないじゃん! アルゴリズム、先輩んちのお涙ちょうだい話に全振りなんだけど!」
「連絡くれてありがとう。今夜は予定どおりか?」
「うっわ。『話題かっさらってごめんね、琴音さん』もなし? 罪悪感まじりのちょいあざとムーブすらなし? てか、お店の手伝いしてなきゃじゃないの?」
「してるさ。これが俺なりの手伝い方だ。それに、入学式の前に君が言っていたことを考えていたんだ。俺も副会長と同じくらい、好奇心が湧いてきた」
琴音の笑い声が、蜂蜜が滴り落ちるように甘く喉を鳴らした。「へえ、ちゃんと聞いてたんだ。先輩って、追い詰められるとほんとに危ないよね。そういうとこ好き。普通に」
「じゃあ、本当なんだな。電話を切るな。今から行く」
「来ないで」彼女は早口で言った。「バレたらどうするの?」
「あの人が何と言おうと構わない」
「構いなよ」彼女は苦々しく言い返した。「先輩のいちばんのお客さんなんだから。あれは最初から、あたしのお金なんかじゃない。ママのアイドル事務所のお金なの」
「どこにいるのか教えてくれ」
「先輩、大丈夫だから、ほんとに。約束の時間に来てくれればいいの。お願い」
「琴音――」
「彼女がちょっと『いたいいたい』しただけで東京中を全力疾走する、暴走彼氏みたいになっちゃうよ」
「この状況で、本気で冗談を言っているのか?」
「本気だよ。あたしはただ夕食が食べたいの。先輩が約束してくれたご飯が食べたい。それまでにまた綺麗になっておくから、先輩はあたしを憐れまなくて済む。早く来ないで。時間が必要なの……ちゃんと立て直すための。お願い」
「わかった。必要なだけ待つ。君の準備ができたら、俺もいつでも行ける。憐れんだりはしない。行きたい気持ちは変わらないが、君の頼みを尊重する」
通話を終えると、俺は結衣からの着信とメッセージを長いあいだ見つめ、さんざん迷った末に、かけることにした。
「琳太郎くん!」結衣の声が、降り注ぐ陽光のようにスピーカーから弾けた。「大丈夫? 全部聞いたよ。もっとメッセージ送ったほうがいいのか、それとも鬱陶しいだけなのか、それとも琳太郎くんが――」
「忙しかったんだ」思っていた以上にぶっきらぼうに、俺は遮った。「話はあとにしよう。学校で」
「……うん」さっきより柔らかい声で、彼女は言った。「メロンパン持ってくね。琳太郎くん、メロンパン食べるといつも元気出るもんね」
「それと、その」俺は馬鹿みたいに口ごもった。「ありがとう」
「うん」揺るがない笑顔が、声越しに伝わってきた。「お礼なんていいよ。もっといろいろしてあげたいの。またね、琳太郎くん」




