守ってみせる
訪れる客をソーシャルワーカー扱いする邸宅……そういう家が、俺は何より嫌いだった。
当然のように俺はロビーの生体認証セキュリティを通過し、専用エレベーターの先にあるドアは、俺が近づくとぱっと開いた。
彼女は俺の到着のタイミングを、舞台のきっかけのように把握していた。
藤城琴音。
ご存じのとおり、琴音さんと俺はこの一年で、ずいぶんと関係を深めてきた。
琴音には、アイドルとしての天賦の才があった。今日も、その姿にはいつも息をのまされる。オーバーサイズのシャツに、木の床を踏む素足。髪は無造作なお団子にまとめられ、鉛筆が一本突き刺さっている。メイクはほとんどせず、演技もなく、俺の知る中で誰よりも小生意気なくせに、無垢な素の表情をしていた。
俺がいちばん息をのまされたのは、素の美しさではない。いや、本当だ、誓って。芯の強さだった。内側で傷ついているのが、俺にはわかった。
泣き腫らした大きな目が、俺をじろりと見た。「遅い」
「時間どおりだ」俺は淡々と答えた。「一分の狂いもなく」
「一般人の時間ならね」ぴょんと横に飛びのいて、俺を通す。「あたしのお腹、二倍速なんだけど!」
「ほかの依頼人のところにいたんだ。あそこの使用人たちは几帳面でね」
「当ててあげよっか。高い食材でお詫びされた?」
「されかけた」
「ふーん」キッチンの入口で踵を軸にくるりと回り、ちらりと見ていた俺の視線を捕まえる。「持ってこなかったの?」
「持ってこなかった」
「よかった。ちなみにママは出かけてる。どっかで、自分の指輪にキスしなかったって、うちより金持ちの誰かに怒鳴り散らしてるとこ」
藤城家のキッチンは壮麗で、芝居がかったほどに見事だった。大理石の天板、艶のある木製の戸棚、高価な家電。邸宅のほかの部分と同じく、上辺だけの重要さを持つショールームとして扱われていた。
冷蔵庫は、前もって注文されていたものでいっぱいだった。ただし、でたらめに。
俺はアイランドキッチンにケースをかちりと静かに置き、考えるより先に動きはじめた。刃のカバーを外し、包丁を広げ、偽りの静けさを絆創膏のように剥がしていく。ここは俺のゾーンだ。俺の領域だ。すべてが心落ち着く精密さで、あるべき場所に収まっていった。
だがそれも、ゴミ箱の中の皿に気づくまでだった。細いひびの入った皿が、何枚か。もしそこにワインの染みでもかすかに飛んでいたら、たとえ琴音の準備ができていなくても、俺は解決のために取り返しのつかないことをしていただろう。
「なあ。ひびの入った皿でも、手を切るぞ。……キャンセルしなかったんだな。あんな話をしたあとでも」
琴音は肩をすくめ、背の高いスツールのひとつによじ登った。
「食べなきゃいけないのは確かだけど。でも……先輩がいると、夕飯なんてどうでもよくなっちゃう。あーあ、ねえ先輩、照れないでよ。あんなに支配的なオーラ全開で料理してるんだから、こういうこと言われる覚悟くらいしとかなきゃ」
「先輩をお皿に広げて盛りつけられたらよかったのにね?」
さつまいも、ショウガ、ニンニク、ターメリック、レモン、玉ねぎ、葉物野菜、鶏肉、そのほかの食材を並べた。抗炎症作用のあるホールフード。医師免許もなしに「君の体の健康を気にかけている」と伝えるには、これが精いっぱいだった。
琴音は俺の料理をじっと見つめていた。観察されているのは俺のほう、とでもいうように。
「まだ? いつ食べれる?」
「まったく。俺のチャンネルのコメント欄みたいだな」
さつまいもを蒸し器にかけ、フライパンを火にのせた。ニンニクが落ち、小さくじゅっと鳴った。ショウガが続く。その香りが、淀んだ空気を押し返しはじめた。今夜の一品は、黄金色のターメリックとショウガのスイートポテト・ピュレだ。
琴音はいつになく静かだった。胸が痛んだ。誰も積極的に壊れてもいないし、壊れていないふりもしていない――そんな、まれな中立の間だった。
しばらくして、落ち着いた声がぽつりと落ちた。「今回は、あの人やりすぎた」
誰のことかは尋ねなかった。この富の霊廟に「あの人」はひとりしかいない。
「自分で決めたルールを破ったの」静かな声だった。「そのうちのひとつを、あたしの肋骨に巻きつけてった」
フライパンの柄を握る俺の拳が白くなった。「先週のが最後だって、言っていただろう」
「ヨーロッパに行くんだって。あの男と。『全神経を注ぐ必要のある、長期の出張』だってさ。あの人が帰ってくる頃には、あたしはこの家を出て、学園の寮に住める年になってる。距離ができれば、なんとかなるよ」
「距離が、あざを消してくれるとは限らない」
琴音がスツールの上で身じろぎした。止める間もなく、両手がシャツの裾の下に滑り込む。
「そんなことしなくても――」
腹から下の肋骨にかけて、一面に影が咲いていた。黄色が緑へ、緑が紫へ、紫が怒ったような赤へと移ろっていく。
「なんだよ、これ――」その傷を見つめたまま、言葉が喉の奥で死んだ。
「ひどい?」
「いや。見た目の話なら、ひどくなんかない。……悪い。そういうことじゃないよな」
俺だって、スクーターで転んだときに、これよりひどいあざを作ったことがある。アスファルトに思いきり叩きつけられたときだ。――つまり琴音は、それくらいの力で殴られたということだ。
「でも、これは――耐えられない。通報すべきだ」
「これが最後だったの」
「どうして言い切れる?」
「言い切れないよ。でも、なんていうか、信じなきゃやってらんないの」
蒸し上がったさつまいもを潰してフライパンに移し、ピュレがこぼれそうになるほど、俺は強くかき混ぜた。
「琴音さん」俺はぐっとこらえて言った。「何があっても、こんなことは正当化されない」
「あーあ、先輩」偽りの甘さをまた立ちのぼらせて、歌うように言う。「その結論、遅すぎ。あたしなんて十二歳のときにはわかってたよ」
ターメリックとレモンを加えると、金色がかった湯気が渦を巻いて立ちのぼった。味を見て、調整し、塩を少し足して、残りのフルコースを仕上げた。料理を容器に詰めていると、ネクタイのあたりで小さな銀色のきらめきが光を捉えた。
「それって……!」
俺は視線を落とした。西園寺家の紋章のスティックピンを外し忘れていた。亜紀はささやかな記念品として渡してくれたが、富裕層の世界では、これはまったくささやかなものではない。琴音が俺のネクタイを掴み、引き綱のようにぐいと引き寄せた。「これ、西園寺家の紋章じゃん?」
「ああ。外すのを忘れていた」
「だから遅かったんだ。結衣っちが戻ってきたからじゃなかったんじゃん!」ぱっと手が離れた。「浮気じゃん。だからずっと黙ってたんでしょ!!」
「君を裏切るなんて、ありえない、琴音さん」俺は決然とした音を立てて、皿を琴音のほうへ滑らせた。「とはいえ、恐ろしい偶然だった。同級生の依頼なんて、引き受けるのもためらうところだ。ましてや料金を取るなんて」
「じゃあ、あたしからも取んないでよ。てか、そこまで偶然でもなくない? 先輩」と指摘してくる。
「それにしても、よりによって西園寺和佳美とはな」
「あのね、あたしあの人のこと尊敬してるんだ。副会長の人生最大の幸運は、IQが高く生まれたことでも、お金持ちに生まれたことでもない。たぶん、欠点の少ない家に生まれたことなんだよ」
「俺より君のほうが、西園寺さんのことをよく知っているみたいだな」
「まあね……」あざのある脇腹を示す。「去年度の終わり頃、和佳美っちに見つかっちゃったの」
蓋に手を伸ばしかけて、俺は止まった。「見つかった?」
「あたしが打ち明けたの」琴音さんは言い直した。「和佳美っちを神秘的に持ち上げすぎないでよね! 前に嘘発見器とか言っちゃったけど、副会長は読心術師じゃないんだから。あの人はただ、人がつい打ち明けたくなるくらい上手に話して、上手に聞くだけ。何かおかしいって気づいたから、あたしが教えたの」
「じゃあ、和佳美さんはこの家のことを知っているのか。君の母親のことも。それで、何を提案されたんだ?」
琴音の口元が持ち上がった。「ん? 興味あるんだ? めっちゃ冷静ぶってると思ってたのに」ささやくような声だった。
「そう訓練されてきたからな。でも、君には感情抜きで仕えるのが難しい。この惨状がどこまで深いのか、知りたいんだ」
「あたしの過去だったら、自分は違うやり方をしただろうって言われた。先輩は通報すべきって言うでしょ。あの人は、あたしがもっとママに心を開くべきだったって」
「『もっと心を開く』って、つまり何だ、感情的な対決か? お茶を飲みながら腹を割って話せと?」
「攻撃的に向かっていくんじゃなくて、もっと弱さを見せるってこと。和佳美っちは、話し合うことで、今がもっといい方向に変わってたかもしれない、そういう世界線もあるって考えてるの」
「俺には、あまり筋が通っているとは思えない」
「あたしも最初はそう思った。でも、いっぱい考えたんだ」
「虐待する人間は、こっちが気持ちを説明したからってやめたりしない」俺はそう推し量った。「そういうものじゃない」
琴音は決まり悪そうに肩をすくめた。「なんで先輩にわかるの? 先輩だって昔は、聖人ってわけじゃなかったじゃん」
俺はにらんだ。
「あっ!」大げさに息をのむ。「てか先輩、大げさすぎ。思い出させないでよ。……でも、実はね。ときどき考えちゃうんだ。もしあの頃、誰かがママに届いてたら。説教とか罰じゃなくて……話してたら。そして聞いてたら。本当に、ちゃんと聞いてたら」
「俺の料理は、君に話しかけたか? どうだった?」
「最高だった。先輩がお行儀よくしようって必死なの、味でバレバレ」
「そんなにわかりやすいか?」
「別にいいって。和佳美っちは上品だし、頭もいいし。カリグラフィーペンでラブレター書いて、押し花挟みたくなるタイプじゃん。結衣っちもね」
「じゃあ、なぜ俺はあっちじゃなくて、ここにいると思う?」
「でも、あたしは? あたしはあったかい子。先輩を中に入れてあげる子。あの人は何してくれるの、ねえ? 罪悪感なんて持たなくていいよ。眠れない夜にあの人のこと考えたって、あたしは気にしない。ただ、本当は誰のために来たのか、それだけ覚えといて。一番最初に思い浮かぶ人じゃなくていい。最後に思い浮かぶ人でいられれば、それでいいの」
「それで、君はどうなんだ?」
「ちっ。遅っ」いたずらな男子生徒を叱るように、指を振ってみせる。「デザートのあとにそれ聞くの、ナシでしょ。そういうのはお腹いっぱいにする前に聞かなきゃ。最近は、まあまあかな。悪いことは減ったし」その目は、俺が来たときより澄んでいた。「人がそばにいてくれるから、なんとかやれてる」
俺はケースを肩に担ぎ上げた。
「そうか」
琴音が玄関まで見送ってくれた。満たされたお腹と幸せそうな顔のおかげで、部屋の重苦しさがほんの少しだけ和らいだ気がした。
「ほかにもお客さんがいるのはわかってるけど、あたしのところでも働き続けてよね、先輩」
「もちろんだ。俺が断るとでも思ったか?」
琴音は満面の笑みを輝かせた。ここ最近の夜には、めったに見られない笑顔だった。
「約束? 大事な大事な和佳美さーんのためだけじゃなくて?」
「約束する」
「忘れないからね」
廊下の手前で、俺はきっぱりと足を止めた。「なあ」半分だけ振り返って、俺は言った。「覚えておいてくれ。俺の前で、ちゃんとしなきゃなんて思う必要は一度もなかった。泣くことは恥ずかしいことじゃない」
「一回も泣いたとこ見たことない人に言われてもなー。一回も」
「俺は泣かない。それでも、泣くことは恥ずかしいことじゃない」
「先輩って、ほんと人を救うのが好きだよね」
「俺はヒーローなんかじゃない。話し方さえ忘れてしまった」
「先輩って、自分のことあんまり見てなくない? あたしを見つめる時間を減らして、自分が誰なのか見る時間を増やしてみたら?」
「そうすべきか?」俺は鼻で笑った。「俺はただの、スクーターに乗った男だ。シェフケースと、口に出すには多すぎる考えを抱えた。でも、ひとつだけ言っておく、琴音さん。俺の涙はめったに出ない。それは強さのせいというより……俺のほうが、君よりきつく封をされているからだ。それでも、俺だって感じる。とくに、君のことになると。だからこの家は、俺のはらわたをえぐる。だから君のあざを見ると、拳が固くなる。だから君が『まあまあ』と言うのを聞くと、平手打ちを食らったような気がする。君の痛みが、俺の受け止められる量を超えているみたいに。だから、どうか自分を大事にしてくれ。純粋に、君自身のために」
「え、待って? あたしのクールで無口な先輩どこ行ったの? メイクしたばっかなのに、泣かせる気……?」
「それと……ありがとう」
「何が?」強がりがとうとう崩れて、かろうじて聞こえるくらいのささやきになっていた。「うう、ガチでムカつく。いったいどこの誰がそんなこと言うのよ!?」
「俺のために強くいてくれることに。そうあろうと、君が選んでくれることに。君といると、もっといい人間になりたいと思える。情けない、恋煩いの愛玩犬にされることもなく。だから、君の言うとおりだ。俺は君に借りがある。すべてを直すことはできない。でも、君をひとりにしないことはできる。メッセージをくれれば、行く。どんなに馬鹿みたいに遅い時間でも。ひと言でいい。残りは俺が汲み取る」
「先輩、やめて」琴音は顔を覆ったが、耳まで真っ赤に染まっていくのが見えた。「キモいくらい好きになっちゃうじゃん」
「もうなっていると思っていたが」
「出てって!」玄関のほうへ、ぐいぐい押しやられる。その笑い声は、明るく潤んだ旋律だった。「これ以上カッコいいセリフが出てきて、一晩中引き止めなきゃいけなくなる前に」
「水曜日に会おう。学園で」
「うん……あ――待って! ネックレス!」
「ああ、これか? 今夜はもう十分助けてもらった。心配が必要になったら、俺のほうから頼りに来る。おやすみ」
「おやすみ、先輩」




