西園寺和佳美は何でも知っている天才だ。知らないことさえも
金の匂いがする場所というものがある。高級リゾートのロビーが清潔であるような、そういう清潔さ。磨かれた石と、濾過された空気と、散らかったものは何ひとつ居座らせないという取り決めから生まれる、汚れひとつない清らかさ。
そんな匂いを好きになれるなんて、思ってもみなかった。壊れていない邸宅の匂いを。
その違いを知ったのは、俺がシノハラ・ショコラの閉店作業を始めた、あの夜のことだった。
最後の客が、リボンをかけたトリュフの箱を手に帰っていった。ドアの上のベルが鳴り、通りの喧騒が染み込んでくる。スクーターの音、遠くの笑い声、湿った舗道を擦るタイヤの音。
「琳、レジ締めといて」母がそう声をかけた。もうシンクを漂白しはじめている。
俺はタブレットでPOSと業務用アプリを立ち上げた。
今日の集計はすぐに読み込まれた。売上、出荷、決済の内訳。ガラスケースの向こうに並ぶ完璧なショコラを表す、きれいなフォントのきれいな数字。だが、美しさだけでは家賃は払えない。払えるなら、生き残るのに必死な店の上の、二階と三階になど住んでいない。
日次レポートを出力した。今日の数字は悪くなかったが、学園の要求と比べれば見劣りした。この利益は、今の俺のネットでの収入と同じくらいだった。
スマホが震え、依頼人専用の秘匿回線からリマインダーが表示された。
依頼人:亜紀
到着:22:30
内容:デザート(1名分)
備考:食材はこちらで用意。他言無用のこと。
メニューの指定はない。その欠落は手抜かりではない。むしろ、言われなくても正しくこなせて当然だと考える、力のある家からの仕事の類いだった。提示された報酬が、それを証明していた。
母はカウンター越しに身を乗り出し、いつものように俺の顔を読んだ。「また?」と尋ねる。
「ああ」
「何時まで?」
「そんなに遅くはならない」本当らしく聞こえるだけの誠実さを込めて、俺は嘘をついた。
「『そんなに遅くない』は、いつだって遅くなるまでの話よ」母はつぶやき、まるで俺の人生にアイロンをかけて形を戻せるとでもいうように、ジャケットの袖をなでつけた。「あなたがやらなくてもいいのよ」
母はすべてのことを言っていた。仕事のことも、秘密のことも、うちの店がよろめいているあいだ見知らぬ人のために料理をして過ごす、俺の夜のことも。
「やらなきゃいけないんだ」
雨も降っていないのに、母は俺の手に傘を押しつけた。「雨はね、いちばん降ってほしくないときに降るの」と、母は念を押した。
俺はありがたく受け取った。
スクーターで高級住宅街へ入っていくと、東京の表情が変わった。騒がしい界隈が静まり返った界隈へと続き、私道には刈り込まれた木々が並び、春の花々が満月のために踊っていた。
住所のピンが示していたのは、格式ある洋館だった。俺にとっては初めてのことだ。豪華なタワーマンションには慣れていたが、一戸建てには慣れていない。ましてや屋敷など。
門のカメラが俺を追った。だがそれに映っていたのは、幽霊だった。俺の秘密は守られている。依頼人たちはNDAに署名しているのだから。
呼び鈴を押す前に、インターホンがかちりと鳴った。「お名前を」
「MidnightChefです」と俺は答えた。「プライベートシェフのご予――」
「通用口へお回りください。母屋には近づかないように」
俺はシェフケースを肩に担ぎ上げた。鞘に収めた包丁。まな板。温度計。手袋。ラベル。きっちり畳んだエプロン、ほかにもいろいろな道具。
ノックする前に扉が開いた。メイドが一人立っていた。姿勢は正確で、表情は平静、黒髪は一筋の乱れもなくまとめられている。
「こんばんは、ミッドナイトシェフ様」と彼女は挨拶した。飾り立てるべき苗字は口にせずに。「亜紀と申します」
俺は頭を下げた。「お招きいただき、ありがとうございます」
「どうぞ、こちらへ」
美しい照明だった。赤いカーテンが、流れ落ちるワインのように窓辺にたまっている。亜紀の案内は、その佇まいと同じくらい穏やかだった。
玄関を抜けてホールへ向かうと、どんな男よりも背の高い、そびえるような肖像画が俺を迎えた。油彩の画家は、描きとめた高貴な人物に、誇り高く厚い筆致を捧げていた。額縁の下の銘板には、東京の誰もがひと目でわかる家紋が刻まれていた。
俺の足取りが鈍った。
意匠の彫られた門の表札に、俺は気づいていなかった。翌週にやってくる赤いネックレスのことばかり考えながら来たせいで、上の空だった自分を心の中で呪った。
「……西園寺家、ですか」俺がそうつぶやくと、そのざらついた響きにカーテンが震えた。
亜紀は歩みを止めなかった。「はい」
いずれ同級生と出くわすことになると考えるのは、当然のことだった。
俺たちの学園には、金持ちの生徒がいて、その上に財閥の一族がいる。社会の構造そのものに属する名前。西園寺和佳美の家のように、陰で失敗しても表では勝ち続けられる一族だ。世界の存続が、彼らの遺産にかかっているのだから。
一族は商業帝国の跡取りに男子を望んでいたが、和佳美は誰にも手出しできない存在だった。同級生たちが口々に、天使のようだ、聡明だ、落ち着いている、すべてを呑み込む、怒れる、まさに神だ、と評するような生徒だった。
厨房の扉の前で俺は立ち止まった。「亜紀さん。私は住所も知らず、どんな食材が用意されるのかも知らないまま、この仕事を引き受けました」
「それは意図したことでございます」彼女は滑らかに答えた。
「ひとつ、お願いがあるのですが」俺は打ち明けた。
彼女の注意が、冷たく張りつめた精密さへと研ぎ澄まされた。予期せぬ変数をすべて潜在的な脅威として扱うよう訓練された者の目だった。
「西園寺様には」壊れやすいものを盛りつけるように言葉を選びながら、俺は続けた。「私の姿をお見せしないほうがいいかと」
亜紀は探るように、まっすぐ俺の視線を受け止めていた。だが彼女には物語のすべては見えていなかった。見えるはずがない。翌週に俺を待ち受けているネックレスのことなど、彼女は知らない。誰も知らないのだ。
それでも、俺が学園の生徒だということは知っていた。それだけで、二人のあいだの空気が形を変えた。
学園はただの学校ではない。刃のように研ぎ澄まされた階層構造で動いている。生徒たちは才能で競わなければ、情報と、富と、評判で競う。
そしてシノハラ・ショコラを代表事業とする俺は、その世界の最底辺にいた。
ここで俺の姿を見られても、俺は痛くもかゆくもない。奪われるものはもう何も残っていないのだから。だが、西園寺様にとっては?
俺のような人間と彼女のような人間を結びつける噂ひとつで、彼女の順位に染みがつき、名前がねじ曲げられ、完璧以外は認めない一族に影が落ちかねない。
俺が隠れるのは自分のためではない。彼女のためだ。誰も理解しないのはそこだった。最底辺の男にだって、誰を守るかを選ぶことはできる。
亜紀の表情が変わった。理解のような、敬意のようなものが浮かんだ。
「承知いたしました」と彼女は平静に言った。その声が、ほんのわずかに和らいだ。「ご配慮、痛み入ります」
認めてもらう必要などなかった。俺はただ、仕事を完璧にこなせばいい。そして、上にいる人たちを守ればいい。本人たちが気づいていようがいまいが。
「お嬢様は個室でお食事をなさいます。直接給仕していただく必要はございません。ですが、誰が作ったかはお嬢様にはおわかりになるものと、お考えください」
「ええ。秘密は守ります。西園寺様に『知らない』ことなどない、ですからね」
亜紀は微笑んだ。そこが恐ろしいところだった。それが法則だと同意するかのように、彼女は微笑み続けていた。
付け回されていたわけではないが、間違いなく正体は見抜かれていた。篠原琳太郎イコールMidnightChef。俺はNDAを結んでおいた自分を心の中で褒めた。まさに、俺たちだけの小さな秘密というわけだ。
亜紀が扉を開けると、飢えの記憶さえ消し去られたかのように徹底的に殺菌された厨房が現れた。食材は完璧な、ほとんど軍隊式の几帳面さで並べられている。それでも、崇拝者ではなく料理人として、俺は三秒以内に最初の誤りを見つけた。
人間が切り盛りする、完璧な家。その矛盾が、この場所が本物だと感じさせた。ほかの多くの依頼人たちの邸宅とは違う、本当の意味での本物だと。
亜紀が念を押した。「ご依頼はデザートでございます」
「お好みは?」
「お嬢様は、お好みについては何もおっしゃいません。結果をご評価なさいます」
だろうな。彼女のようなエリートは「チョコが食べたいの、選んでくれない? かわい子ちゃん」などとは言わない。「あなたの実力を見せてごらんなさい、庶民」と言うのだ。
上等だ。
俺はスフレを選んだ。彼女の胃を――いや、いっそ全身を、もっと欲しいと鳴らせてやる。
カカオの香りが、ハチドリのように宙へ舞い上がった。
泡立て、さっくりと混ぜ、型に分ける。どの工程も、ひとふりの粉さえも、執事が幼子をベッドに寝かしつけるように優しく扱った。スフレは膨らみ、命を宿して震えた。崩れそうになりながら、持ちこたえた。それは称賛を乞い、俺は絶対の自信をもって、それをそこに在らしめた。
亜紀が戻ってきた。鼻に導かれた先を、目が追っていた。「お見事です」亜紀は簡潔に評した。「お嬢様はすぐにお召し上がりになります」
「スフレは急を要しますから」と俺は答えた。
亜紀は頷き、トレイを持ち上げたところで、ふと動きを止めた。「篠原様」
「はい?」
「学園で、お嬢様とお話しになったことは?」
「どういう意味です?」俺はしらを切った。「そういう経験はありませんが、それが何か?」
「さようでございますか。まだ見知らぬ者同士のうちは、お嬢様の視界の端に潜んでおかれるのが賢明かと存じます。この屋敷の主は、誤りにお気づきになるのです」と彼女は説明した。「人が誤りだと気づきもしない誤りにさえ」
俺はゆっくりと手を拭った。自分の仕上げに隠れた欠陥があったのではないかと恐れながら。そんなことはありえないのに。
「私もです」と俺は言った。「建設的な批評。それが私のブランドですから」
「料理においては、めったにございません。人においてです。お嬢様は、あなた様にご興味をお持ちのようです」
「……承知しました。知っておけてよかった」不安を丁寧に隠しながら、俺は答えた。「さて」思いきってかすかな笑みをのぞかせて、俺は促した。「お仕事が待っているのでは?」
「お声が。よく通るお声ですね。それだけでございます」亜紀は会話を短く切り上げたが、頬骨の上をうっすらと染める赤みを、俺は見逃さなかった。「デザートをお運びするあいだ、こちらでお待ちください」
「それなら、もっと早く言ってくだされば」遠ざかる彼女の背中に向けて、俺はプロの作法にかなった、低く響く声音でつぶやいた。「耳元でささやいて差し上げたのに」
俺はまるで自分が最初から存在しなかったかのように厨房を片づけた。それがここでの契約だからだ。最高のものを届け、痕跡は残さない。
庇の下に出ると、空気はさっきより冷たかった。母がくれた傘を、俺はぱちんと静かに開いた。
亜紀が見送りに出てきた。
「もうひとつ」亜紀は戸口に佇んでいた。大理石の床に、その影が長く伸びている。
俺は振り返った。
「なぜお嬢様がわたくしを介してお話しになるのか、不思議に思っておいでかもしれません」
「プライバシーのためだと思っていました。上客の方々には、よくあることです」
「プライバシーは二の次でございます」亜紀はかすかに首を横に振って、はっきりと言った。「距離なのです」
「何からの?」
「情からでございます。感情を売りに来る者たち、下心を抱いてやって来る者たちからの」
「私の料理の狙いが、ただ西園寺様を魅了することだけだというのは、ご存じのはずでは?」
「不正確でございます。お嬢様は、あなた様にはそれ以上のことができるとお考えです。だからこそ、用心なさっているのです」
「では、なぜそもそも門の内に招き入れたんです? 完全には信用していない相手に、なぜ料理を頼むんです?」
「さあ、どうしてでございましょう。お嬢様は好奇心がお強く、わたくしなどには到底及ばないほど先を見通しておられます。あなた様にまたお越しいただくおつもりのようです。ですので、よろしければ、こちらをお受け取りください」
それは、西園寺家の紋が入った、ネクタイ用のスティックピンだった。
俺は頭を下げた。「ありがとうございます。いずれにせよ、今夜はほかにも予定がありますので」
亜紀も頭を下げた。「ご配慮に感謝いたします」
もう少しここに居られたらと、正直思った。西園寺邸は、まともな家のひとつだった。少なくとも、ひと目見た限りではそう思えた。
かっこいい。いや、亜紀さんの言ったことは辛辣だったけど、まったく上っ面じゃなかった。
だが、今夜は和佳美に会わないほうがいい。
この手の展開がどう転ぶかは、映画を山ほど観てきたから知っている。
「きゃああっ! な、な、何事ですの!? どうしてわたくしの聖域に……殿方が!?」
「ああっ!? は、はあっ!? わ、わ、和佳美さん!? 雇われたんです! 本当です、料理しに来いって言われて!」
とはいえ、和佳美がそんな悲鳴を上げるところは想像しにくかった。今夜、彼女について知ったことを思えばなおさらだ。いや、俺だってあんな反応はしないぞ!
それに。今夜の依頼人は、和佳美だけではなかった。




