佐藤結衣は何でもないように俺を「くん」付けで呼び、愛しいものにシャッターを切
シノハラ・ショコラの照明は落とされ、外の通りは夜更けのざわめきで波打っていた。
俺はテーブルを拭いていた。カウンターの奥では、兄の葉太琉が在庫を数えていた。確率過程など持ち出さなくても、数字がうちの家族に及ぼす影響を重々承知している男の正確さで。
ベルは鳴らなかった。こんな時間に客は来ない。だから、どこか懐かしい調子の、いたずらっぽいノックが聞こえたときも、兄は顔も上げなかった。「また誰か財布忘れたか?」
「拾ってない」俺は反射的に答えた。「いや」言葉が途切れた。「あのノック……」ふきんを持つ手が途中で止まり、俺はドアを見つめた。視界をさえぎる「閉店」の札の向こうを。
兄は磁気タッチペンを置いて、動いた。
あの独特のノックを聞いたのは、中学に上がってすぐの頃以来だった。俺が心を閉ざして以来。佐藤結衣を待つのをやめて以来。彼女はもう二度と戻ってこないと、俺は自分に言い聞かせていた。彼女の不在の形を傷跡のように抱えたまま、もう何も感じずにいられるのだと。失恋は、人をその後一生狂わせることがある。だからこそ、心が壊れると書いて「ハートブレイク」と呼ぶのだ。それは傷跡なのだ。俺は何も感じたくなかった。心という名のレストランに、ひとつの決まりを設けた。近づきたくない。上っ面以外のものは、どれほどそれを嫌っていようと、論外だった。そうして俺は、自分の決まりを破らせてくれる客を待っていた。結衣はいつかこの店に戻ってくるのだろうかと、ずっと考えていた。
兄が内側の掛け金を外した。
フードを下ろし、目を輝かせて。彼女の笑顔は、まるで機内でずっと使うときを待っていたかのように、すでに広がりはじめていた。
「サプライズ」結衣が柔らかく告げた。
「なんだ、可愛い子だな……琳太郎、お前この子知って――」
心臓が深淵へと真っ逆さまに落ちていく感覚と、キューピッドの矢に射抜かれる感覚は、胸の真ん中に同じ衝撃をもたらした。俺の一部は、過去にとどまっていたかった。
「うっそだろ――佐藤ちゃん!?」すべての星が彼女のもとに揃ったかのように兄が叫び、俺は我に返った。これは奇跡以上の出来事だった。
結衣は一瞬びくりとし、それから肯定するように笑った。ドアが大きく開き、彼女はまるで一度も去ったことなどないかのように、するりと中へ入ってきた。
近くで見ると、彼女は大人びていた。劇的に、いい意味で。その目は、彼女のほうも同じように俺を観察していることを映していた。
「琳太郎……くん」彼女は吐息のように言った。一歩前に出て、俺が身構える前に、結衣は両腕で俺を抱きしめた。
ほんの二、三秒だった。もっと短かったかもしれない。それでも、俺の全身が普通の在り方を忘れてしまうには十分な長さだった。俺は硬直したまま立ち尽くし、手は宙に浮いていた。彼女も自分も傷つけずに、どこに置けばいいのかわからないとでもいうように。
彼女はぱっと身を離した。頬が赤く染まっていた。「ごめん! ごめんね――!」彼女は口走った。「その、アメリカの文化が染みついちゃってて、何も考えずに――」
「全然かまわない」俺は表情を注意深く平静に保ったまま、彼女の手を取った。「結衣さん」
結衣は信じられないという顔をした。まるで俺におでこを弾かれたかのように。「今さら『結衣さん』って呼ぶの? 冷たすぎ」
兄がわざとらしく咳払いをした。「ゴホン。よし。俺は退散する」
「兄さん――」
兄は芝居がかった仕草で奥を指さした。「緊急の棚卸しだ。ものすごく緊急の棚卸しだ!」結衣にさっと手を振ると、恋の気配に追い出されたかのように厨房へ消えていった。「おかえり、佐藤ちゃん」
兄がいなくなった瞬間、うちのショコラトリーはがらんとして、親密な空間になった。
結衣は前の店舗に比べて良くなったところを眺めていた。「匂いがまったく同じ」
「だろうな。母さんはミシュランの星を差し出されたって、手を抜かない」
「素敵」結衣はつぶやき、それからいつもの明るさにぱっと戻った。「あのね、琳太郎くんを待ち伏せするためだけに来たんじゃないの。受かったんだ」
頭が止まった。「受かった……?」
「学園。東京戦略リーダーシップ学園。三年生として」
口が言葉を形作ろうとした。すぐには何も出てこなかった。
「本気か?」ようやくそれだけ言えた。
結衣は力強く頷いた。「デジタル起業家条項。『節約系インフルエンサー』も、今じゃ立派なビジネスに数えられるんだって」
俺の顔の中で何かがひび割れた。誇らしさ。めったに見せる余裕のない温かさ。「それは……それは、すごいことだ」
結衣は、まさにその反応を待って息を詰めていたかのように、肩の力を抜いた。それからまたぱっと明るくなり、たちまち計画でいっぱいになった。「それでね、考えてたんだけど、このお店の節約系動画、私が撮れるかも!」
「やめてくれ」
「なんで?」
「うちは利幅が薄い。量販品のチョコは値段と日持ちで勝つ。保存料には太刀打ちできない」
「もう、ただの試食レビューだってば。それに、ここの値段にはちゃんと理由がある。このお店と同じくらい、琳太郎くんのお菓子も成長してるって信じたいな」
俺はごく自然な動作のように、滑らかにショーケースの前へ移った。「好きなものを選んでくれ」ガラスを示しながら、俺はその場を取り仕切った。「わざわざここまで来て、立っているだけじゃないだろう。座って。味わって」
結衣はその命令口調に驚き、同時に嬉しそうでもあった。この店では、デザートが言葉なのだ。
「新しい種類がいっぱい。琳太郎くんが選んでくれる?」
「ああ」振り返ったとき、彼女が財布に手を伸ばしているのが目に入った。
「いや」ケースを開けながら、俺は割って入った。「店のおごりだ。お祝いに」
「ずっと頑張ってきたんでしょ? 人に食べさせて、尽くして……お返しさせてよ。今の私、お金あるんだから」
「そんなに大物なのか?」
「安定してるの」それが名声よりも大事なことだというように、彼女はその言葉に重みを置いた。「最初は小さなことから始めたんだ」と打ち明ける。「コンビニご飯とか。節約購入品紹介とか。『この予算で一週間食べる方法』みたいな。恥ずかしかったな」
「恥ずかしいことには聞こえないが」
「恥ずかしかったよ。必死にやり過ごしてたの。でも、時間って本当に私たちを変えたね」結衣はデザートから目を離し、厨房のほうを見た。「葉太琉さんも背が伸びたし」
「卒業してから声が大きくなったんだ」俺は訂正した。
「全部聞こえてるぞーっ! 健全な会話にしとけよーっ!」兄が奥から叫んだ。
結衣が口元を押さえた。
俺も、思わず笑ってしまった。「どうぞ、お席へ」皿を置きながら、俺は促した。カカオケーキの小さなひと切れが二つ。脇には、オレンジピールの砂糖漬けを盛った小皿がちょこんと寄り添っている。結衣が小さかった頃の好物だったからだ。
「今もこうやって作ってくれるんだ。ありがとう。覚えててくれたんだね」
俺は二人のあいだの皿を見下ろした。「君は、いつだって忘れられない」
「何の騒ぎ?」奥のドアが勢いよく開き、母が現れた。こんな時間にと、すでに怪訝な顔をしている。「佐藤ちゃん!?」
結衣は立ち上がって頭を下げた。日本人としての純粋な反射が、ぱちりと嵌まった。「篠原さん! ずっとご無沙汰してしまって、すみません!」
母はすでに距離を詰めていた。夢ではないと確かめるために結衣の頬に触れたい、とでもいうように。「本当に何も知らせてくれないんだから!」叱るような、嬉しくてたまらないような調子で、母は声を上げた。「メッセージひとつなし、完全な秘密主義。とんでもないサプライズね……」
結衣は少し照れくさそうに微笑んだ。「家族と一緒に帰ってきたんです。円安だし、日本のコンテンツはネットで強いし。それに、ここがすごく恋しくて」
「それにしても、本当に思いがけないわ。最新の動画、見たわよ。学園、楽しみ?」
結衣の目がきらりと光った。「すごく。もう誰も私を無視できません。私のページ、卒業生の半分より注目を集めてますから」
「そう、そうなの」
結衣は和平の贈り物のように新しいスマホを取り出した。「番号が変わったんです。よかったら、篠原さんのも教えてもらえますか? っていうか、みんなのが欲しいです」
「もちろんよ。積もる話がたくさんあるものね。でも、今日は同級生に会いに来たんでしょう? 葉太琉、二人にしてあげましょ。帰りに、可愛い風呂敷に可愛いお菓子を包んで持たせてあげるから、あとで食べてね」
二人きりにされて、結衣と俺は同じテーブルについた。互いの目をまともに見られないまま。
「で」彼女は首をかしげた。「いったいいつから、そんなに筋肉ついたの?」
「なんだって?」
再び目が合うと、結衣は微笑んだ。「こっそり鍛えてた? それとも奥の部屋で悶々としてたとか? その腕、もはや犯罪だよ」
「働いているからな」と俺は答えた。「どんなにきつい要求にも応えられるよう、備えておかないといけない」
「チョコを持ち上げてるの?」
「それ以外にもいろいろ。昔、よく君に料理を作っていただろう? あれはずっと続いているんだ。最近は、特定の依頼人向けにフリーのプライベートシェフをしている。かなり相手を選ぶ仕事だ」
「へえ、そういうことだったんだ。琳太郎くんっていつも、私のことすごく大事にしてくれたもんね。いつだって、周りの人を支えてる。真面目な顔してエプロンに包まれてるくせに、顔赤くして偉そうにしてるとこ見ちゃったら――」
「やめてくれ」
「もう忘れられないもん。帰ってきてよかった」
「見ればわかる」俺は乾いた口調を保った。心臓はアイドリングどころではなかったが。
そうだ。照れる理由なんてない。
君は輝いて帰ってきた、と言いたかった。見てもらいたくて帰ってきたんだろう。注目されたかったのか? そうはっきり言う気にはなれなかった。えっと、連絡先を……
彼女はケーキをもうひと口、ほとんどお祝いのように頬張ると、ゆったりと伸びをした。「ん……腕、磨いたね。すっごく美味しい。永久保存しなきゃ」
彼女がスマホを持ち上げ、慎重に角度を決めて、タップするのを俺は見ていた。
シャッター音が鳴った。彼女は写真を確認した。「相変わらず背徳的。フィルターなんていらない」
もちろんいらないだろう。彼女にはこういうことを見る目がある。父親が映像カメラマンで、彼女は借り物のカメラに囲まれて育った。指示なんて一度も必要としなかった。本能でフレームを決めるのだ。もしあの頃、半分壊れかけた図書館のパソコンじゃなく、家でネットが使えていたら、彼女はもっとずっと早く成功していただろう。
結衣はレンズをペストリーから外して膝へと下ろし、何かをねだるような表情を俺に向けた。
「写真か?」と俺は尋ねた。
「あ、えっと……あ。うん。琳太郎くんの、連絡先の画像用に」
何が起きたのか思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。
思考が暴走していた。ねじれ、曲がり、そして完全に止まった。
今この瞬間、中学以来初めて、俺の内側は、外側の無反応と同じくらいぐちゃぐちゃだった。
今の俺がここにいる理由は、琴音と同じくらい、結衣だった。
「ほかのじゃ他人行儀な感じがするの」彼女のスマホはもう差し出されていて、親指がいつものことのようにカメラのアイコンの上で待ち構えていた。「それとも、今さら照れてる?」と付け加える。「自撮りして、あとで送るほうがいい? 他人同士みたいに」
俺は少し姿勢を正し、肩を引いた。急に自分のことが気になってしかたなくなった。まくり上げた袖、つけたままのエプロン、少し乱れた髪。「……一枚だけだ」と俺はつぶやいた。
彼女の口の端が持ち上がった。静かで、満足げな笑み。彼女はスマホを構えた。カシャ。
「まだ公にはしないでくれ」
「琳太郎くん、私そこまで意地悪じゃないよ」彼女はまた皿に戻った。「水曜日から、同じクラスだね」
「本当か!?」
「学園が同じクラスにしてくれたの。知らなかった?」
「見ていなかった」
「見なきゃ」
ひとしきり分け合ったあと、結衣は慣れた様子で椅子を引いて立ち上がり、スカートを整えた。その指先が、母が持たせてくれた風呂敷包みに触れた。
「ありがとう」と彼女は感謝を込めて言った。「私の好きな味、覚えててくれて」
俺は答えなかった。答えられなかった。
「水曜日にね、琳太郎くん」
彼女が出ていくと、ドアの上のベルが鳴った。
俺は長いあいだ、じっと立ち尽くしていた。奥から戻ってきた母が、鋭い目で俺を見た。「話したの?」と尋ねる。
「あとで話す」
母はため息をついた。「『あとで』っていうのはね、怖がってる人の言うことよ」
「あいつは元気にやってる。それで十分だ」
母は、俺が口にしなかった言葉をすべて暗唱できるかのように俺を見つめた。「外で会って話すこともできるでしょう。あとで後悔するわよ」
「その後悔は引き受ける。今は、誰にも言いにくいんだ」
「距離っていうのはね、心にこたえるものよ。葉太琉が大学で家を出たときだって――」
「こたえてねーし!」兄が叫んだ。
「あなたの意見は聞いてません!」母が叱った。
「母さんが、俺の代わりに学園の順位のことを結衣さんに話してくれてもよかったのに」
「それをあなたから取り上げるつもりはないわ。でも、そうね。あの笑顔を前にしたら、言い出しにくかったでしょうね」
結衣が手を振った窓のほうを、俺は見やった。彼女の笑顔は、水曜日の朝には消えてしまうだろう。
それでも……
もう少しだけ、続いてほしかった。
初恋の相手が、今は俺の個人番号を持っている。
なぜ、こんなにも嫌悪感がこみ上げるんだ? この自己嫌悪は何なんだ?




