もう一度話すことを教えてくれた人
琴音の家の玄関で、俺は硬い誇りを保ったまま、わずかに頭を下げた。玉座から降りてひざまずく王のような礼。その優雅さの中にさえ、危うさを宿して。「深夜のご依頼、承りました。どうぞ何なりとお申し付けください」
「なんで――なんでそんなビジュ強いの? そのスーツどっから出てきたの!?」
「格別のおもてなしでお仕えするのが、私の務めです。藤城様、震えていらっしゃいますね」
「ち、違っ――」
「私が完璧すぎるようでしたら、下がるようお命じください」頼むからそうしてくれ。俺はかろうじて平静を保っているだけだった。
彼女は俺のネクタイをさらに強く握った。
「やだ」と彼女は言い張った。「入って」
「では、きちんとお世話させていただきます」
「わざとやってるっしょ」
「ありがとうございます」
去年、彼女の邸宅で初めてプライベートシェフとして働きはじめたとき、俺は後輩の藤城琴音に感謝を伝えた。
本心だった。
当時の俺は、彼女が使用人たちをキッチンとダイニングから追い出して二人きりにしてくれたのを、優しさだと思っていた。のちになって知ったのだ。彼女の家の使用人たちは寡黙な人種で、仕事について口を閉ざし、この高層マンションの扉の向こうで起きている家庭内暴力についても、口を閉ざしているのだと。
感謝を口にしたとき、俺は手をすすいでいた。自分のゾーンに入りながら、残っていた緊張を洗い流して。
「大人数は苦手なんだ」
藤城さんはスマホから顔を上げもしなかった。片手でスクロールしながら、もう片方の手で人の人格を解体できるタイプの女の子だった。
「は?」と彼女は言った。「なにそれ……悲しかわよ」
「友達グループというものに馴染みがない。いつだって一対一のほうがいい。それが普通だとは思わないが、俺はそういうふうにできている。そもそも、何をもって普通とするんだ?」
「こわ。いや、マジでこわいんだけど!」琴音が声を上げた。「『普通ってそもそも何だ』とか言っちゃう? それ、普通に全然普通じゃないから、篠原先輩。もう一対一のチャットボットにガチ恋する世捨て人おじさんの一歩手前じゃん」
「そこまで落ちぶれてはいない。少なくとも、水面から顔は出しておきたいと思っている。俺なりのやり方で社会に貢献しているんだ……たぶん」
「親密だけど、ぼっち、か……」琴音の爪がオーク材のテーブルをかちかちと鳴らした。彼女は俺を新しい流行か何かのように観察し、雑誌の撮影で衣装を品定めするのと同じ目で値踏みしていた。「そういう人、初めて見たかも」
「そこなんだ。俺は親密じゃない」
「あ、じゃあ完全にバグってる先輩ってことね」
「賞味期限切れの野菜みたいなラベルを貼らないでもらえると助かる、藤城さん」
「うえ、『藤城さん』とか無理。なんか……先生感えぐい」
「悪いな。依頼人はそう呼ぶ決まりなんだ」
「ふーん。先輩って学校だとほぼしゃべんないよね。思い返したら、あたしの前で最後に口開いたの、いじめの件だったし。すっごい真剣だったよね。感情に流されちゃってさ! 乙女かよ!」
「そこは『男らしい』だろう」
俺は、まるで人付き合いのレシピ本を読み上げるように、言葉尻をとらえた。当時の俺は、テンポの速い会話にまだ慣れ直している最中だった。
もしあのとき、彼女の言葉にひどく落ち込んだと打ち明けていたら――ほかの生徒の言葉を自分への挨拶だと勘違いしたら、相手がイヤホンをしていただけだったと気づいたときのように――彼女の邸宅で過ごす時間は、それで終わっていただろう。
その恨みがましい気持ちは、きっと最初の一皿で彼女に届いたはずだ。彼女の胃を落ち着かなくさせた、あの一皿で。
人生にやり直しはきかない。こんな馬鹿でちっぽけな仕返しでさえ、いずれは忘れられる。だから俺は、すべてにもっと味わいがあってほしかった。一度食べたら一生忘れられないデザートのように。そして互いに心を開いていくにつれて、決められたレシピを暗唱している感覚は消え、ようやく自分の感情から話しているのだと感じられるようになっていった。
琴音は俺の正反対だった。表面的な美しさでいえば、ファッショニスタらしい話しぶりは天性のもので、美の傑作そのものだった。彼女の魅力は否定しようがない。雑誌の表紙を飾り、世界中の女性が焦がれる肌と顔立ちを持っていた。
もっと深い意味で、俺はこの腐った藤城邸の美しさのことを言っていた。
彼女の母親は、服で隠せる場所を殴った。いつも布の下で、決して顔には手を出さない。世間が見ていたのは、立派な家の、機知に富んで育ちのいい娘だった。繊細な顔立ち、柔らかな髪、優秀な成績。あざは秘密の言語で、彼女と浴室の鏡だけが読める場所に書かれていた。
隠された美しさ。隠された傷。
彼女には自分の容姿を憎む権利が十分にあった。それは詮索を招くのだから。だが彼女は憎まなかった。そのことについては現実的だった。美しさは、母親に殴られることから彼女を救わなかった。かつて俺の後輩たちをいじめるのを止めもしなかった。結局のところ、美しさは衝撃が着地するためのもうひとつの表面にすぎなかった。
それでも、カウンターに座って俺の料理を食べているときの彼女は、ほかのどんなときよりも彼女らしく見えた。被害者という役も、令嬢という役も剥ぎ取られて、ただの琴音だった。その一瞬だけ、彼女の外側と内側と、口の中の味とが一列に並んだ。
一方の俺は、傷ひとつない肌と、慎重に管理された表情で歩き回っていた。うまくやっている人間の見本、せいぜい「忙しい」程度の人生を送っている人間。怪しい痕もない。目に見えるひびもない。ひどくでこぼこした内側の上に、なめらかな表面があるだけ。
あざがあっても彼女が美しいのなら、俺はその反対だ。あざひとつなく、肝心なところで醜い。
こんなことを考えながらも、自分が正当化しているだけだとわかっていた。何ひとつ直そうとせず、凝った比喩を組み立てているだけだと。
「大丈夫、俺の料理は正直だから」と言うとき、自分に嘘をついているのはわかっていた。それは、やり過ごすための哲学だった。
だが今は、その自己欺瞞こそが俺を立たせている足場だった。もし認めてしまったら――俺の料理なんてどうでもよくて、この静かな夕食は何の助けにもなっていなくて、丁寧にバランスを取った食事で人を養うことも、実体のない、ただのもうひとつの演技にすぎないのだと認めてしまったら――俺の内側のすべてが崩れ落ちてしまうだろう。
だから俺はしがみついた。食事は本物だという考えに。器の中のぬくもりは本物で、最初のひと口を食べたときの琴音の顔も本物だという考えに。たとえ俺の言葉がしくじっても、俺の存在が人を失望させても、料理だけは俺が本当に伝えたいことを語ってくれるのだと。
稲妻のように明るい、彼女の笑顔。
お返しにもらえるそういう表情こそが俺を救い、MidnightChefという自分を、俺にとってのすべてにしてくれたのだ。




