琴音の覚悟と野心
俺が着いたとき、琴音はもうそこにいた。自販機のそばの低い塀に、午後のすべてを所有しているような顔で腰かけ、爪でスマホをこつこつと叩いている。
俺を見ると、その顔に自然な笑みが浮かんだ。
「おそーい。遅刻料金取る寸前だったんだけど」
「時間どおりだ」そう答えようとしたが、喉がひりひりと擦りむけたような感じがした。
琴音は、人をつついて楽しむいたずらっぽさを全開にしていた。俺の様子にちゃんと気づくまでは。
「……うわ」琴音の目が俺の顔をなぞり、ほんの一瞬で、俺の無表情の仮面を剥ぎ取った。「なにそのお葬式オーラ。えぐ」
「大丈夫だ」
「嘘つき」即座に言い返して、塀からぴょんと飛び降りる。そばまで来たが、押しつけがましくはなく、それでも、いつも琴音につきまとっている淡いキャンディの香りがわかるくらいには近かった。「出た、誰にも話させないために大丈夫なふりするやつ」
「俺、そんなことしてるか?」
「うん。前とかしょっちゅうやってたし! で? なんかあった?」
「人を傷つけた」
「虎先輩の取り巻き系? それとも……失恋系のダメージ?」
「後者だ」
「うわ。それはしんどい味だわ」
「大切な人だったんだ」
琴音はもう一拍、俺をじっと見つめた。それから腹を決めて、俺の人生のこの先五分間の責任はもう引き受けた、という顔で、近くのベンチを指し示した。
「座って」
頼みではなかった。俺は導かれるまま動いた。琴音は自分の家のリビングのソファみたいにベンチにぽんと腰を下ろし、同じ気軽な威厳で隣の席をぽんぽんと叩いた。
「よし。口に出せるところから話して」
「告白されたんだ」
「告白。え、少女漫画の世界線じゃん」
「そんな感じはしなかった」
琴音の笑みが細くなり、思慮深いものに変わった。「だよね……本物の告白って、受け止めるの全然かわいくないもん」身を乗り出してくる。「で、どうしたの?」
「本当のことを言った」
「それって?」
「結衣の気持ちには応えられない、と。少なくとも、俺が心から楽しめるようなかたちでは」
「そっか」ゆっくりと頷いて、話を受け止める。「で、泣かれちゃった。先輩が『悪い男』だからっていうより、痛みが招かれもしないのにパーティーに乱入してきたって感じだね。それはキツいわ。二人にとって」
こんなに冗談抜きでまっすぐな姿には、慣れていなかった。そのせいで、この瞬間がいっそう誠実なものに感じられた。琴音が自分の脚で、俺の脚を小突いた。「ねえ。こっち見て」
俺はその目を見た。
「それでも、来たんだね。てことは、ほんとにあたしに会いたかったか……」言葉を切って、俺のダメージを査定するように、目を俺の顔の上に走らせる。「……忙しくして、自分を罰してるか、だね」
俺はすぐには答えられなかった。
「んー、やっぱね。その子のこと、好き?」
「大切に思っている」
「それだけ? シェフ坊や」
「気持ちは、あった」俺は認めた。
「そっか」琴音が頷いた。予想どおり、という顔だった。もうそれを前提に、計画を組み立てていたのかもしれない。「……で、そのあとすぐ、あたしのところに来たの? あたしは、先輩の唇に最初に浮かんだ名前? それとも、歯の裏に引っかかってただけの名前?」
俺はその目から視線を逸らせなかった。「それって、大事なことか?」
「あたしが、先輩にほかの子を断らせちゃう女かどうか。そこ、めっちゃ大事なの。……あー、やっぱね。先輩、あたしのことセクシーって思ってる? それとも、メンタルやられてるから、先輩のスイッチの入れ方知ってる最初の女、利用してるだけ?」
「君を大切に思っている」俺は認めた。だが、胸の奥でせり上がってくる熱に比べれば、あまりにも頼りない言葉だった。
「まだ質問に答えてなーい、先輩」琴音は歌うように言った。「先輩があたしのとこ来たのって、あたしが完璧とか求めないからっしょ。ぐちゃぐちゃな先輩なんて、もう見ちゃってるし。心ん中がバラバラになりそうなときってさ、あたしたち、火傷するくらい近くまでお互いを入れちゃうじゃん」
「そうかもな」
「『そうかも』? それだけしかくれないの、ねえ? ……おけ。じゃあ、こうしよ。先輩はもう、このことから逃げない。あと、気を紛らわせるためにあたしを利用すんのもナシ。あたしが欲しい? なら、ちゃんと認めて。じゃなきゃ、あたし帰るから」
「欲しい」俺は言い切った。結衣に見せた炎が一点に絞られ、今度は白く灼けつくような熱となって、まっすぐ琴音に向けられていた。俺は、自分が何を望んでいるかを正確にわかっている男の、重く危険な静けさへと沈んでいった。
「んんーっ。それそれ、それが聞きたかったの。じゃあこれからは、あたしのことガチで相手してくれる? 臆病者やめてさ、うちのアイランドキッチンにあたしを押しつけるとこ、何回夢に見たか、ちゃんと白状してくれる?」
「数えきれないほど」
「口にして」
「君が欲しい」
「もー、先輩って大げさすぎ。もっかい言って。……あたしも、何回も夢に見たし」
「それは残念だな。気を紛らわせるために君を利用するつもりは、なかったんだが」
「えーっ、ありえなーい!」琴音は心外だとばかりに息を呑んだ。
「もう結構。その質問攻めは、はなはだ不適切だと思う。だが、理解はできる。俺のような男を前にすれば、誰しも必死になるものだからな」
「罪悪感の逃げ道に、あたしのこと使ったりしないっしょ」琴音はぶっきらぼうに言った。
「そのつもりはない。俺は何事も、本気で、きちんとやる」
「それと、その子の告白を、首に巻く新しい鎖にするのもナシ。先輩はもう十分背負ってるんだから。存在しない神様に認めてもらおうとしてるみたいにさ」
「今日は意外と賢いな」
琴音の表情がゆるんだ。それから、優しさを見せてしまったこと自体に腹を立てたように、ふんと鼻を鳴らして立ち直った。「言いふらさないでよ。あたしのキャラ崩壊するから」立ち上がってスカートの埃を払い、手を差し出す。一歩ずつ前に進もうという、申し出であり、誘いだった。「ほら。歩こ。話せるだけ話してくれればいいよ。話せないなら、ただここにいればいい」
俺はその手を取った。迷いのない手だった。世界でいちばん自然なことのように、琴音が俺を引っぱり上げる。俺は手を放さなかった。指を絡め、琴音が思っていたよりもほんの少しだけ、そばへ引き寄せた。
「よしっ」琴音が俺の手をぎゅっと握った。その目は、勝ち誇った色と、隠そうともしない飢えが入り混じって輝いていた。「じゃ、一つ目の議題。先輩はあたしに飲み物おごること。あと、『一晩タダ券』一枚ちょうだい」
「脅迫か?」
「感情労働はタダじゃないの」
俺は鼻で笑ったが、思ったよりも柔らかい音になった。
「二つ目の議題」手をつないだまま自販機へ歩いていく俺を横目で見ながら、琴音が付け加えた。「痛がっていいのは自分だけ、みたいな顔して抱え込むのはやめること。結衣っちは、先輩が想像するよりずっと早く立ち直るよ。怖いくらいにね」
「俺より結衣のことがわかるのか?」
「女の子としてね」にやりと笑う。「それくらいはわかるよ」
俺は冷たい炭酸を手渡した。
「それとさ……準備、できたよ」覚悟の滲む声だった。
「今夜か?」
「ゴールデンウィーク前の記者会見が明日なの。裏で立ち上げはじめた事務所は順調。たとえあたしが切られても、ツアーは中止にならない」
「事を大きくしすぎるな。空気がおかしくなったら、その場を離れろ」
「命令口調」
「俺はスクーターで待っている。出口のすぐ外で。探さなくていい」
「最高。早めに着くっていうのがどういうことか、見せてあげる!」
最新話までお読みいただきありがとうございます!
琴⾳の会⾒がどうなるかは、続きで書きます。次回は12時ごろ更新予定です。
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