藤城夫人は救われたかもしれなかった
藤城夫人は、俺がそこにいることを知っていた。沈む夕日が儀式のように俺たちのあいだに懸かり、その黄金のぬくもりが部屋の隅々に触れていた。
夫人は上階の階段から降りてきた。バッグを提げ、帯とデザイナーものの羽衣を腕に掛け、スマホを指のあいだに挟んで。光を捉えるイヤリングは、人を傷つけられそうなほど長かった。
「やっぱり本当だったのね」夫人は鼻を鳴らした。「まだわたしのキッチンでままごとをしているなんて。腕は上がったようね。雑草を放っておくと、こうなるのかしら」
「『薪の明かりで学ぶのは、最も富める者と最も卑しい者にだけ許された楽しみ。つまり、中途半端な中流ほど退屈なものはない』。まさに、藤城様ご自身のお言葉です。私はただ、サービスでご満足いただくためにここにおります。それだけです」
「あら、どれだけ頑張ったところで無理よ」
「お食事のご用意をしております、藤城様。おくつろぎいただけていますか? お食事の前にお腹が空かれましたら、必要なものを何なりとお申し付けください」
「琴音に用があって来たのよ」夫人は苛立たしげに言い放った。「ゴールデンウィーク・ツアーの仕事が急に入って、あの子が必要なの。それだけ。あの子を引きずり回すのは気分がいいし、何が起きているのか探り当てるのはまた別の快感だわ。琴音は契約下にあるの。わたしの契約よ。あの子はわたしが買ったものを食べて、わたしが言ったときに働く。自分は裏路地の求婚者だなんて、どんな妄想を育てているのか知らないけれど、それも今日で終わりよ」
それでも、俺は丁寧に料理を続けた。
「なるほどね」夫人は言った。「情が移ったのね。欲を出した使用人だわ。赤いネックレスがお似合いよ。卑屈になるほど貧しくて、夢を見るほど傲慢」
俺を見る夫人を、俺は見ていた。これは俺の話ではない。「料理を続けましょうか、それとも別のことに注意を向けましょうか?」
俺がへりくだると、夫人は微笑んだ。
「あのね」夫人はキッチンの向こうの姿見に向き直り、俺ではなく自分の姿にうっとりと見入りながら言った。「娘が同情を食い物にするヒルどもを引き寄せることは、ずっとわかっていたの。舞台裏で、この目で見てきたもの。野心のある美しい女の呪いね。弱い者たちは必死になって『助け』ようとする。わたしたちに、高潔な気分を味わわせてくれるのよ。あなたは凡庸。邪魔者よ。誰に雇われているのか、よく覚えておきなさい」
俺は黙っていた。向こうは、俺に戦わせたがっていたからだ。炎の嵐を巻き起こし、俺を火付け役に仕立て上げたがっていた。
俺はオーブンの火を落とした。「この場所が、私はとても好きなんです」
「あなたなんて潰せるのよ、わかってる? あなたも、あなたのお店も、あなたの家のちっぽけなチョコレートも。わたしがひとつ発表するだけで、あなたの未来は消えてなくなる。NDAなんて関係ない。『情緒不安定な令嬢を食い物にする、略奪的な料理男子高校生』……想像してごらんなさい。学園の赤ネックレスが、身の程知らずにも高嶺の令嬢を誑かしたスキャンダル――怖くないの?」夫人は憤然として詰め寄った。
「どうか声の大きさを力と取り違えないでください。落ち目の界隈ではよくある誤りです。品位をもってお話しになりたいのでしたら、私はここに残ります。そうでないなら、互いの時間を無駄にしないことをお勧めします」
「何をしているの?」
「お嬢さんに温かい食事を作っているんです。それだけです」
「つまり、臆病というわけね」
「いいえ。もっとずっと柔らかなものです。藤城様にこそ、わかっていただきたいものです」
夫人はあざけった。「思いやりなんかに意味があると思う? あの子は決してわたしに逆らわない。決して。この世界で生きるように、一生ものの訓練を受けてきたのよ。あなたのちっぽけな口説き文句や入れ知恵なんて、すぐに卒業するわ」
「琴音さんが何者かを決めるのは、あなたじゃない」
「哀れね」夫人は怒りにまかせて、廊下へと足を踏み鳴らした。たとえ俺を解雇しても、家庭内暴力の秘密は俺の手のひらの中にある。夫人はそれをわかっていた。それに、どのみち俺の料理を崇めてもいた。
夫人は足を止めた。「いいこと、何ひとつ怖いものがないというのは、世間知らずの証拠よ。あの子は二度と仕事ができなくなる」琴音の母親は拳を振るう必要もなかった。これは、その残酷さの延長にすぎない。夢を飢えさせる、別の過激な手段に訴えることもできるのだ。「業界から締め出してやるわ。あの子が歌うことを夢見ているドームを、ひとつ残らず閉ざしてやる。あなたが身の程をわきまえなかったせいでね、取るに足らない雑種犬」
玄関のドアが乱暴に閉まる音がした。
ニンニクがフライパンに落ちるまで、俺は息をすることを自分に許さなかった。香りが立ちのぼって反撃し、夫人の吸血鬼じみた宣告を寄せつけなかった。そのとき初めて、柔らかな足音が聞こえた。
琴音がアイドルの衣装のまま立っていた。髪は少し湿っていて、片手を手すりに押し当てている。すべてを聞いていたのだ。二人とも、それをわかっていた。
琴音の母親に取るに足らない人間だと思われようと、どうでもよかった。そこにいて、「できる、できる、できる」と唱えることを人に思い出させるような、取るに足らないことでさえ、重大な結果を生むことがある。それを宣言する力が自分にはあるのだと、思い出させるだけのことでも。それに比べて、琴音の輝きははるかに遠くまで届いていた。心を閉ざした俺の中に、「そうしたい」という、枯れることなく咲き続ける宣言を植えつけてくれたのも、琴音だった。
「夕食はもうすぐだ」俺はウインクした。「もうすぐできるよ、琴音さん」
もうすぐだ。今夜じゃない。琴音が自分のために戦うその瞬間に、俺はここにいるつもりだった。
救世主? よしてくれ、侮辱しないでくれ。何より、彼女を侮辱しないでくれ。俺は琴音の証人だ。その時も、もうすぐやってくる。「あたしはもう安全。事態は終わった。あたしが解決したの」と、内側から歌う時が。
俺は自分にそう言い聞かせた。
「取るに足らない雑種犬」
前言撤回だ。思いきり侮辱してやれ。「自分のものじゃない言葉を、オウム返しにするもんじゃない、琴音さん。とくに、君がどれだけ成長したかを恐れている人間の口から出た言葉なら、なおさらだ」
「気高くて、優しくて、あーもう、謙虚でさ。先輩、あたしのこと好きすぎじゃん」
いつもの調子で笑ってみせる。けれど、手すりを握る指は、まだ白いままだった。
「これ、ママが選んだ衣装なんだよね。ゴールデンウィーク・ツアー用の新作。一ミリの妥協もなし。着るたびに、契約書を体に巻きつけてる気分になる」
琴音はスパンコールをひとつつまんで、ぴんと弾いた。
「一ステージ終わる頃には、まっすぐ歩くのも無理なんだから。……てか、いい匂い。ママ、これ食べずに出てったんだ。もったいな」
「調子はどうだ?」
「よくなった。体はびくともしないけど、心がいっぱいいっぱい。先輩は?」
「よくなった」
「ほんとに? ガチのガチで? だってあの人のいつもの流れ、完全にぶっ壊したって聞いたし。才能えぐくない?」
「食事の前にお腹が空いたら、必要なものを言ってくれ」
「ご飯はとっといて」いつもより派手さを抑えた声だった。ある種の覚悟が全身を流れているのか、もう俺を挑発してはこない。「やらなきゃいけないことがあるから」
「奇遇だな。俺も同じことを提案しようと思っていた」




