1-2 文字の這う路(みち)
木箱の留め具が外れ、中の名前たちが一斉に鳴動したその瞬間、街道を支配する空気が一段と冷たく張り詰めた。
サクの視線の先で、裸足の女は微動だにしない。
不自然に傾げられた首の、そのぽっかりと穴の空いた眼窩の奥で、無数の濁った文字たちが生き物のように蠢き続けている。
『タスケテ』『サムイ』『カエリタイ』『ワタシノナマエ』
それらは鼓膜に届く声ではない。怪異の底で咀嚼され、泥のようになった名前たちが放つ――怨嗟の残滓だった。見る者の脳裏に直接、冷たい澱みとなって染み込んでくる不快な音の波。サクは感情の失せた目でそれを見つめながら、わずかに開いた木箱の隙間へと、躊躇いなく指先を滑らせていく。
女の足元からは、黒い泥のような文字がさらに勢いを増して溢れ出していた。
石畳の隙間をのたうち回るように侵食し、叩きつける激しい雨水へと混じりながら、明確な捕食の意志を持ってサクの足元へ絡みつこうと迫る。
路を埋め尽くしていくのは、死者たちの無念のインクだ。
水たまりは瞬く間に濁った黒水へと変わり、歪んだ文字の形を保ったまま、まるで無数の小さな蛇が蠢くように地面を這っている。
だが、サクは避けない。
じりじりと己の爪先にまで迫る文字の泥を、ただ静かに、冷徹な眼差しで見下ろしていた。
黒い粘液の先端が、サクの濡れた革靴の靴底に触れる。
その瞬間、じり、と肌を刺すような寒気が足元から一気に駆け上がってきた。他人の人生の、それも死の間際に放たれた強烈な後悔の念が、皮膚を通じて精神をじわじわと侵食していく感覚。
普通の人間の精神であれば、この冷気に一瞬でも触れれば、知らない誰かの恐怖の記憶に狂わされ、己の輪郭を見失ってしまうだろう。しかし、サクはただ短く息を吐き出し、胸の奥で渦巻く不快感を無表情に押さえつけた。
視線を上げると、白装束の女がゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かって一歩を踏み出そうとしていた。
激しい雨の中にいるはずなのに、その女の身体だけはやはりまったく濡れていない。降り注ぐ雨粒が彼女の肌へ触れる寸前で不自然に逸れていくその光景は、薄暗い街道の中で異様なほど際立って見えた。
文字の泥は、すでにサクの足首の高さまで、確実に這い上がろうとしている。
退路を断つように、街道の左右の草むらからも黒い染みが滲み出し、雨水を吸って重たく膨れ上がっていく。
世界が静かに、しかし致命的に怪異の色彩へと塗り替えられていく。
激しい雨の音さえも、文字の泥が石畳をじっとりと侵食していく微かな不気味さに掻き消され、遠のいていくようだった。
サクは木箱の中に差し入れた指先を、ある一枚の白い札の輪郭へと滑らせる。
数多の死者の名が眠る棺のなかで、今、サクの爪先に触れているその一枚だけが、目の前の怪異を前にして、ひときわ激しく身震いしていた。




