1-1 雨の街道
―― 人は死ぬと、名前を落とす。
雨のように降り、泥に埋まり、石畳に貼り付く死者の残滓。
人々は、知らない誰かの人生を踏みつけながら生きている。
これは、行き場を失った『名前』を故郷へ還す旅人と、世界の秘密の物語。
冷たい雨粒が、絶え間なく石畳を叩いていた。
降り始めてから、もうどれほど経ったのか。街道全体が灰色の雨に沈み、湿った土の匂いが風に混じって漂っている。道脇の草木は吹きつける風に揺れ、そのたび濡れた葉同士が擦れ合う微かな音を立てていた。
遠くに見える山々は深い霧に呑まれ、輪郭すら曖昧になっている。空は低く重く、まるで鉛の蓋でも被せられているような圧迫感があった。
人の姿はない。荷馬車も通らない。ただ雨音だけが、静かに街道へ積もり続けていた。
その雨の中を、一人の青年が歩いている。
石畳を踏むたび、濡れた革靴が水を含んだ鈍い音を返した。肩から提げた細長い木箱が歩調に合わせて小さく軋み、黒い外套の裾は雨を吸って重たげに揺れている。
年は二十代半ばほどだろうか。整った顔立ちをしていたが、その表情には感情の色がほとんど浮かんでいない。濡れた前髪が頬へ張りついても気にする様子はなく、青年――サクは、ただ静かに足元へ視線を落としていた。
――名前が落ちている。
石畳の隙間、水たまりの縁、泥に沈みかけた草の根元。黒い文字が、雨に滲みながら地面へ貼りついていた。
『ミナ』
『宗一』
『カネ』
『ハル』
『タケル』
どれも人の名前だった。だが、普通の人間には見えない。死者だけがこの世に落としていく、存在の残滓。
サクは足を止め、ゆっくりとしゃがみ込んだ。濡れた石畳の冷気が膝の奥まで染み込み、口から漏れた吐息が白く揺れる。雨に湿った空気は肌へまとわりつくように冷たかった。
人差し指と中指を揃えて伸ばし、石畳へ貼りついた文字へ触れる。
――じゅ、と濡れた紙を火へ押し当てたような音が鳴った。
黒い文字が煙のように揺らめき、指先へ絡みつくように吸い込まれていく。その、他人の人生の端切れが皮膚に溶ける奇妙な感触に、サクはわずかに目を細めた。
その瞬間だった。くすっ、と、どこか背後で女の笑う声がした。
サクの動きが、ほんのわずかに止まる。しかし振り返ることはせず、濡れた指先で腰の革袋から何も書かれていない白い紙札を引き抜いた。そのまま、肩から提げていた細長い木箱へ手を伸ばす。
黒ずんだ木箱は雨を吸い、古い棺のように鈍く湿っていた。
留め具を外す。かちり、と小さな音が響き、蓋が開く。
箱の内側には、同じような紙札が隙間なく並べられていた。白い札にはそれぞれ名前が浮かび上がり、薄暗い奥底で黒い文字だけが微かに滲んでいる。どこまで積み重なっているのか分からないほど、その数は異様だった。
サクは、先ほど吸い上げた『ミナ』の文字が浮かび上がる札を、静かにその隙間へと差し込む。蓋を閉じかけた、そのときだった。
「……さむい」
かすかな声が漏れた。
サクの指先が止まる。箱の奥からだった。幼い子どもの声にも聞こえる。雨音へ紛れそうなほど弱々しい声だったが、不思議と耳の奥へまとわりついて離れない。
サクはゆっくりと目を伏せた。
「少し待て。まだ、お前の帰る場所が決まってない」
そう呟き、静かに蓋を閉じる。かちり、と留め具が鳴った。
木箱を肩へ掛け直し、再び雨の街道を歩き出す。濡れた革靴が石畳を踏むたび、鈍い水音が静かに広がっていった。
街道の先には、山あいの村がぼんやりと浮かんでいた。雨に滲んだその輪郭は曖昧で、まるで暗い水の底へ沈んでいるようにも見える。今夜はあそこへ泊まることになるだろう――そう思った、そのときだった。
...ぐしゃり。
柔らかいものを踏み潰したような、嫌な音が響いた。
サクの足が止まる。同時に、それまで絶え間なく耳を打っていた雨音が、不自然なほど遠のいた。
石畳へ貼りついていた名前のひとつが、誰かに踏まれている。黒い文字が泥のように潰れ、雨水へじわりと滲んでいた。
そこに立っていたのは、裸足の女だった。ぼろぼろの白装束を纏い、長い黒髪が顔を覆っている。
だが、異様なのはその姿ではない。激しい雨の中にいるはずなのに、その女だけが、まったく濡れていなかった。降り注ぐ雨粒が、彼女の肌へ触れる寸前で不自然に逸れていく。
女は俯いたまま、足元で滲む名前をじっと見つめていた。サクの指が、木箱の紐を無意識に握り締める。
冷たい風が吹き抜けた。
その瞬間、踏み潰された名前がゆっくりと蠢き始める。黒い文字が泥のように溶け、石畳の隙間へと染み込んでいく。ぞわり、と、街道へ落ちていた他の名前までもが、一斉に小さく震え始めた。サクの視線が鋭く細くなる。
「……返名師」
掠れた声だった。だが、その声だけが妙に鼓膜へはっきりと届く。
「久しいな」
サクが低く応じる。
女はゆっくりと顔を上げた。その動きは、人間のものとは思えないほど不自然にぎこちない。濡れていない黒髪の隙間から、青白い肌が覗く。
あ、と――サクの呼吸が、一瞬止まった。
女には、目がなかった。ぽっかりと穴の空いた眼窩の奥で、無数の文字が蠢いている。
『タスケテ』『サムイ』『カエリタイ』『ワタシノナマエ』
濁った文字たちが、小さな虫のように眼窩の奥で蠢動していた。石畳の隙間から、黒い泥のような文字がじわじわと滲み出してくる。それは雨水へ溶けながら、生き物のように地面を這い始めた。
サクは小さく息を吐き出す。
「……また、『喰名』か」
その呟きと同時に、女の首が、ごきり、と嫌な音を立てて傾いた。
「返して」
声が重なる。一人ではない。何十、何百もの人間の声が、女の口から同時に溢れ出ていた。
「わたしたちの名前を」
黒い泥となった文字たちが、一斉に街道を這い始める。石畳を、水たまりを、雨水を掻き分けるようにして、サクの足元へ迫る。
サクは静かに木箱へと手を伸ばした。冷え切った指先へ、じっとりと脂汗が滲んでいく。
かちり、と留め具が外れた。
その瞬間、箱の奥で数え切れないほどの名前たちが、ざわりと激しく揺れた。
初めまして、ご覧いただきありがとうございます。
本日から新連載として『返名師へんめいし』を立ち上げました。
「人が死ぬと名前が残る世界」という、少し奇妙で静かなダークファンタジーの空気感を楽しんでいただければ幸いです。サクが背負う木箱の重みや、降り続く雨の冷たさを、皆様のすぐ近くに感じてもらえるような描写を心がけて執筆してまいります。
街道で立ち塞がった不気味な怪異『喰名くちな』。
サクは手元にある札を使って立ち向かおうとしていますが、返名師の戦いとは一体どのようなものなのか……。




