1-3 濡れない女
激しさを増していく雨の音が、不自然なほど遠くへ退いていく。
開いた木箱の奥底に指を滑り込ませたまま、サクの視線の先で、白装束の女は相変わらず俯いたまま佇んでいた。
頭上からは容赦なく鉛色の雨が降り注ぎ、石畳を激しく叩きつけている。水たまりは文字の泥を吸ってどす黒く波打ち、サクの足首を包み込もうとじわじわと水位を上げていた。
それなのに、その女の周囲だけは、まるで切り取られた別世界のように乾いていた。
叩きつける雨粒は、彼女の衣服や髪に触れる寸前で、目に見えない何かに弾かれるようにして不自然に外側へと逸れていく。ぼろぼろの白装束の裾も、長く伸びた黒髪も、湿り気ひとつ帯びていない。雨水を吸って重たく震える街道の草木の中で、彼女の存在だけが、生々しいほど白く浮き上がって見えた。
雨に濡れないのではない。世界が彼女を濡らすことを拒絶しているかのような、圧倒的な異質さ。
その異常な境界線こそが、彼女がすでに人の理を外れ、無数の死者の未練を我が物とした怪異であることの何よりの証拠だった。
女が、ぎちり、と硬い音を立てて、さらに一歩を踏み出す。
彼女の足が動くたび、その足元から滲み出す死者たちの残滓――どろどろとした黒い墨文字の群れが、獲物を追い詰める蜘蛛の足のようにうねり、サクの退路を完全に塞ぎにかかった。
『タスケテ』『サムイ』
眼窩の空洞から溢れ出る声なき怨嗟が、雨の冷気と混ざり合いながらサクの鼓膜を内側から狂おしく揺さぶる。靴底を通じて伝わってくる寒気は、すでに皮膚を通り抜け、骨の奥へと染み込もうとしていた。他人の人生の、その最期の痛みが精神の境界を侵食していく不快感に、サクの眉が微かにひそめられる。
だが、サクの指先は、木箱の中で目的の札を完全に捉えていた。
指先に触れるその札だけが、棺に眠る他のどの名前よりも狂おしく震え、冷たい熱を放っている。この怪異の核にある名前と、強く引き合い、共鳴しているのだ。
サクは薄暗い木箱の奥底を見つめたまま、微かに、しかし冷徹に口元を動かした。
「そこの名前を、自分のものだと思っているのか」
サクの低い声が、雨音の退いた路に静かに響く。
女の動きが、ぴたりと止まった。顔を覆う濡れていない黒髪の隙間から、ぽっかりと穿たれた漆黒の眼窩が、値踏みするようにサクを凝視する。
「お前がどれだけ多くの人生を喰らい、その未練で肉体を膨らませようと、お前自身の名前はそこにはない」
サクは木箱に差し入れた指先に、確かな力を込めた。
数多の死者の名が眠る暗闇から、引きずり出すようにして、激しく震えるその一枚の白い札を抜き取る。
雨の飛沫の向こう、女の白装束の下で、何かが醜悪に蠢き始める気配がした。骨の軋む不穏な音が、泥の底から湧き上がるように響き渡る。怪異がいよいよ、その凶暴な本性を現そうとしていた。
サクは手中に引き抜いた札を、女の眼窩へと真っ直ぐに向けた。




