第九話 初体験のワイプ③
トロッガンはゆっくりと27ルームに近づく。
ミラノは目を見開いてその過程に集中していた。
心臓がドキドキする。何だか、初めて親元を離れてこの街に来たときみたいにドキドキする。
トロッガンの丸い鼻先が光の支柱に触れた瞬間、波打つように揺れ、波紋が広がった。
支柱は入り込む物体の形を象りながら進入口を開けている。支柱が臨機応変に口の形を変えながらこちらに合わせているみたいだ。
光のカーテンを通り抜けて輪の中心に到達すると、そこは夢のような空間だった。
「すっご~い!」
ミラノは前後左右と体の向きを変えた。どの窓からも光るカーテンが見える。
「何か、何か、何て言ったら良いのか分かんないよ!」
「お主の語彙力では陳腐な表現しか出来ないだろうな」
とバウランが笑った。
「何だよそれ。アタシだって一応は中院出てんだから」
「ほほぉん」
「フンだ――あ~何だかムカつく!」
ミラノは光るカーテンを凝視した。
何に見える? この綺麗な光の輪は、どこにいるように感じる? どんな風に見える? 魔法にかけられた空気? 天国? ばあちゃんちにあった光る水?
あ!! 思いついた!!
ミラノは、ポンと手を打った。咳払いをして、すまし顔のバウランに言おうとしたまさにその時、光のカーテンが細かく波打ちだした。
そして突然、ミラノは自分のお尻が落っこちたような奇妙な感覚にビックリして悲鳴を上げた。
「なになになにッ!?」
急いで腰を上げたが、足の神経が麻痺しているのか、上手く力が入らなくてバランスを崩した。
「ヒェッ!」
愚かな悲鳴を上げたミラノは、反射的にブレイクのシートを確かに掴んだが、それもどういう訳か、腕力を失った屍のように、指からツルンとシートが逃げていった。
結果、左半身をトロッガンに激突する羽目となったが、なぜか痛くも痒くもなかった。
ミラノは混乱する頭を無理に奮い立たせた。
奮い立たせたつもりだったが、脳みそに鳥肌がたったようにジワジワして思考力さえもまともじゃなくなっていた。
それからは深い深い眠りに誘われるかのような不思議な感覚に陶酔する自分をかろうじて認識していたのを最後に、ミラノはそのまま意識を失った。
――ハッとしたのも束の間、左肩とこめかみに痛みを感じた。
その痛みに心当たりはあったが、記憶はぼんやりとしている。
ただ、意識を失う寸前に感じた異質な落とし穴にでも落ちたような気分は、はっきりと記録されていた。
手と足の感覚を探ると、どこにも違和感はなかった。
けれど先ほどは確かに身体中の筋肉と神経がブロックされて、自分の肉体そのものが消えてしまった風だった。
しかし今は、まるで悪夢だったかのように、身体に異常は感じられない。あるとすれば肩の痛みと頭痛くらいだ。
「おっさん、アタシ……」
声をかけると、バウランが振り向いた。
「異空間に入った瞬間はどうしても瞬間移動に脳がついて来れん。ただし、何度か経験をすると脳みそも慣れてくるはずだ」
「異空間?」
辺りを見ると、光るカーテンは消えてなくなっていた。
現在トロッガンは、障害壁などなさそうな真っ暗な中で黄色く発光している、結尾の見えない螺旋階段を一心不乱に上っている。
「ここが、異空間?」
「そうだ。どうだ、くすぐったくないかね?」
そう言われると身体――と言うか、内蔵がむず痒い。しかし皮膚を掻いてもピンポイントじゃないから痒みは改善されない。
「何だか気持ちが悪い……」
「我慢だ。それも慣れれば感じなくなる」
「あとどれくらい?」
「そうだなぁ。一色時間ほどで着くだろ」
「え~~そんなにぃ? 一色時間って舞台一巻分じゃんかッ」
本当に舞台を見れるんだったら我慢できるかもしんないけど。それも好きな踊り子が出てるやつ。
他のことに集中するものもないこの状態でむず痒さがまだまだ続くのかと思うと、痒みが増して酷くなってるような気がしてならない。
ミラノは身体をくねらせた。
てか、確実にムズムズの範囲が広がってきてるような……? こんなのが小一色時間も続くのかと思うと吐きそうだ。あ~耳の奥もむず痒い! 喉もむず痒くてイガイガするし!
「頭の中でサイバードの息子さんをイメージすると良いだろう。そうすれば気持ち悪いのも軽減される。今から仕事に集中するんだ」
と、バウランが呑気に目を瞑って言った。
「そんなの分かってるって。クラウンの情報はちゃんとインプットしたし、大丈夫だって。あ~もう痒くて苦しい……何としてよおっさん!」
「何ともならん。我慢せい。とにかく失敗は許されんぞ」
ミラノはバウランの背後に唾を吐く真似をした。
ったく。人ごとだと思って。ずんぐりむっくりおっさんのくせに!
物は試しに、ミラノは全身のむず痒い違和感から開放されようと、バウランに言われたことを実践することにした。
別に言うことを素直にきいたとかそんなんじゃない。他に考えられることが思いつかなかったただけ。
ええっと。クラウンは自分を「オイラ」と呼んで、お母さんを「カカァ」って呼ぶ田舎モンだったよね。で、洞窟探しと蛇使いと言う悪趣味を持ってて、ブスット? スブット? だかよく分からない球技が得意。無口だけど短気。
うんうん。短時間の仕事だし、これだけ分かってれば大丈夫っしょ! あとはその場の雰囲気とか流れで臨機応変に遣りのければ良いだけ。簡単、簡単。
てか、敏腕ミラノに出来ないものはない! ちょちょいのチョイで今日も任務完了だね。
ま、先方さんは350万マドルもの報酬をくれるって言ってくれたのに、何故だかおっさんが断り中ってのが痛恨の極みだけど。
あ~あ。残念。本当に残念だ。
10万5千マドルがあったら少々高価なローレイドブーツが10足は買えたよ。
「どうだね? 痒みがなくなったように見えるが」
ミラノの様子を察してバウランが訊く。
「え? あ~確かに。さっきよりはマシになってる、かな」
完全ではなかったが、気にならない位まで改善されている。
あんなにムズムズしてたのに嘘のようだ。
「そんなもんだ。そればっかり気にとらわれているとそれしか見えなくなる。実際は気が滅入るほどじゃない痒みだったはずだ」
「ふ~ん。そんなもんかね」
ミラノは両手を頭の後ろで組んだ。
あんなのを身体に感じなくなったおっさんの方がどうかしてると思うけどね。慣れすぎってのも色んな意味で問題でしょ。
「そんなもんだ」
バウランが笑った。
ブレイクはまだ影狩中で目覚めない。先刻みたいにいきなり起き出さないかバウランが心配したが無用のようだった。
突然、注意事項を知らせる女性の艶かしい声が流れた。おっさんが言うには二度目らしい。
どうやらミラノが気を失っていた時に一回目が流れていたようだ。
内容は、窓を絶対に開けないでとねか、乗り物のエンジンは止めてねとか、馬鳥などに乗って瞬間移動する際は動物の口を縛ってねとか、魔法や魔術の使用は禁止よ。ただ生命を瀕する場合は許可するわとか、そんなことだ。
最後に、女性はこう言った。
万が一異空間を彷徨うようなトラブルに巻き込まれた場合は、大声で「ギャーメス」と叫んでね。見回りのギャーメスが助けに来るわ。その時は窓を開けてイイわよ。それじゃ素敵な旅を。またね。
「ギャーメスって鳥か何か?」
ミラノは気になって訊いた。
けれどバウランは寝息をたてていた。
本来だったら叩いてでも起こして聞いていたところだが、ミラノは黙っていた。
今日の依頼のために徹夜してたのを知っている。おっさんも若くないんだし、倒れられたら困るしね。だってご飯とかさ、誰が作ってくれるの?
その後、螺旋階影段を上るだけの一辺倒な光景に飽きて、ミラノもうとうとし出した。
――目を覚ましたのは、再び身体に異変を感じたからだった。
「着いたぞ」
とバウランが言ったのが聞こえた。が、その後の言葉が耳に入ってこない。
全ての筋力が萎えたように力が入らなくて、身体が浮いている錯覚に陥る。脳みそは鳥肌がたったように不快で、時折、ふぅっと落ちそうになる意識に身を任せたくなる。
ミラノは歯を食いしばった。
現実は“食いしばったつもり”であったが。
異空間から現実の世界に戻る瞬間にも失神するなんて……絶対に耐えてみせる! ここで気絶した……耐えてみせる! ワイプルームから出る所も見たい……耐えてみせる!
何度も何度も落ちそうになるのにムチを入れ、ミラノはどうにかこうにか堪えていた。
こんなにワイプが大変だったとは思いもしなかったミラノは、冷や汗を滲ませながらも、光のカーテンからトロッガンが出る瞬間を見た。
ただ残念だったのは、憂鬱な気分的なものか、出発時のような大きな感動は得られなかったことだった。




