第十五話 クラウンの父親の手帳
素晴らしい不機嫌の教授を乗せた黒いトロッガンは、サイバード家の門を身震いするようにくぐり抜け、長い下り坂を下って行った。
その間、二度ほど奇妙な動きをして急停車した。教授が暴れて取り巻きが操縦を誤ったのだろう。
ミラノたちは、キリエ婦人の後について一階に下りた。
天窓から光が差し込む明るい広間に通され、風船に座っているようなふんわりと浮いた感覚のスツールに座らされた。こんな気持ちの良い椅子は初めてのことでミラノは飛び跳ねたい衝動を抑えつつも、太腿から伝わる感触に集中していた。
婦人が飲み物を持って来た。大家族の家でも余裕で余るくらい大きなテーブルに三人分のホットピンクティーが置かれた。パンケーキもある。
ホットピンクティーは薄いピンク色をしていた。柑橘系の香りがして、甘酸っぱくてとても美味しいお茶だった。初めて飲んだミラノは一口で気に入った。どんな果物から作っているのか教えてもらいたいくらいだ。
大の甘党と公言しているブレイクがホットピンクティーに砂糖粒を五個も入れた。そんなに入れたらお湯に砂糖を入れただけのドロドロの砂糖湯である。きっと不味いに違いない。けれどブレイクは一口すすって満足そうに頷いた。絶対にこの魔法使いの舌は呪われている……ミラノは身震いした。
三人と向かい合うように腰を掛けた婦人は、話をするよりも十二色日も顔を見ていないクラウンを堪能したそうにモジモジしていた。
その最中、ミラノはホットピンクティーを飲み終えてしまっていた。下品かとも思ったが、おかわりのティーポットがあったから自ら注いだ。いいや、今はクラウンだし、この家の息子だから自由だよね。その証拠に、婦人はミラノの一つ一つの行動を、大事に包み込むような優しい目で見つめていた。ミラノは少々居心地が悪かったが、今はクラウンそのものなのだから仕方ない。
でも待てよ。「カカァおかわり」とか言ってあげた方が良かったのかな?
一応はまだ仕事中の身だし、報酬が発生してるんだからここにいる間だけでも息子に成きらないと!
でも待てよ。
ミラノは、「カカァ、そこのジャム取って」と言おうとしたが寸前で飲み込んだ。
現在、少々状況が変わってきている。とにかく今は、婦人の話を聞かなければならない。
「さて、お話というのは何でございましょう?」
口端についた砂糖湯を袖で拭ったブレイクが問うた。
我に返った婦人が一言目を言い出すまで時間がかかった。その間に、ブレイクも砂糖湯をおかわりし、パンケーキを二枚平らげた。
大きいため息を吐いた婦人は、青い瞳を真っ直ぐ向けた。
「アリドン教授の申していた“馬鹿げた世界”と言うのは、本当に存在するのです。神の国と言って、通称“エディータ”です。先程は、野蛮な世界と形容して教授に楯突きましたが、本当にあるのです」
やっと言葉を発したと思ったら、今度はミラノとブレイクがその意味を理解するまで時間がかかってしまった。
“エディータ”とやら単語は、豚教授が中々出てこなかった名前だ。
彼を憤怒させるほどの材料がある神の国では、“自分の神を探す旅が出来る”だったり“神から慈愛を受けることが出来る”だったり“願いが一つ叶う”だったり、“馬鹿げた世界”と言うよりは、“極点の世界”と言い換えるべきだとミラノは思う。
だって、神に逢えて願いが一つ叶うんだもの。ちょっと胡散臭いけど、それが事実であるなら最高の世界でしょ。
ミラノは三枚目のパンケーキにジャムを塗った。
「遠慮せずあの話をしてください」
バウランが冷静に促す。
「ええ――実は、夫のことなんですけど、生前に彼は、一つの願い事を叶えるべく自分の神を探す旅に出ると言って家を三十色日も空けたことがあるんです。当時は言っている意味が分からなくて、仕事漬けが原因で頭が狂ってしまったのかと思いました。精神的な病に犯されてしまったのかと……だってそうでしょう? 真面目な顔をして自分の神を探す旅に出るって言うんですよ。誰が聞いたって常軌を逸していると思うでしょう。ですから私は強く反対しました。ですが、私がどんなに強く反対しても、夫は言うことを聞いてくれませんでした。そしてある朝、私が目覚めるよりも早く、夫は旅立ってしまったのです。神の国へと」
ミラノはバウランがこの話を信じたのかと思うと不思議でならなかった。おっさんは顔に似合わずファンタジックなお話がお好みで?
「バウランさんには先に目を通してもらったのですが、お二人にも見てもらいたいものがあります」
と、婦人は腰を上げる。白い石で出来た立派な書庫へ歩み、一冊の手帳を持って戻って来た。
テーブルに置かれた手帳は、革製の表紙をしているシンプルなものだ。革が日焼けした色合いから見ると、長年愛用されているのが分かる。持って開く時に指が触れる箇所が焦げ茶色に変色している。
「この手帳は夫のです。夫は五色年前、不慮の事故で生死を彷徨ったことがあるんです。どうにか一命は取り留めたのですが、その頃から旅立って戻るまでの約五十色日だけ日記を書いていたようなのです。夫が何やら手帳に書き込んでいることは旅立つ前から知っていましたが、当時は訳の分からない国に行こうとする夫のことで頭がいっぱいでしたし、日記を書くことは何も不思議な行為ではないので、特に聞いたことはなかったのですが、息子が戻らなくなったのが切欠でとても気になってしまって……何か分かるんじゃないかって」
「見てしまったんだね?」
ミラノは言った。普通に言ったつもりだった。が、婦人の目が母の色に変わった。
「ダメよね。例えお父さんのでも、許可なしにお母さんが見ることは良いことではないわ。でも仕方なかったのよ。許してちょうだい」
と婦人は悲しそうに笑ってハッとし、紅潮させた顔でブレイクを見据えた。
「ごめんなさい、つい……」
「良いんですよ。続けてください」
ブレイクがやんわりと言う。
「はい――手帳に書いてある内容は私には全く理解出来ないことばかりでした。夢日記でも綴っているのかと思うくらいはちゃめちゃなことが書かれていました。けれどこれが神の国の全容なのかと一度思ったら、怖くなってしまって……」
ブレイクは指出し手袋を外してから細い指を伸ばして手帳を引き寄せた。
「拝見しても宜しいですか?」
「ええ。どうぞ」
婦人は震える両手を握り締めてから青い瞳を細めた。
ブレイクの読むペースが早くてミラノはついていけなかった。いつも五行読み進めたところでページを捲られてしまうから、読むのを諦めた。頭の構造が違うんだからもう少し気を配って欲しいものだ。
しばらくしてブレイクは手帳から顔を上げた。前にずり落ちそうになっていたトンガリ帽をクイッと上げる。
「嘘の物語を綴っているようには思えませんね。日毎の筆跡に偏りが見られますし、汚れているページもございます。その瞬間毎に書き綴ったのでしょう。それはそうと、クラウン様がご病気だったということですが?」
「ええ。そうでした」
婦人は思いふけるように、目線を手帳に傾いだ。
「そこにも書かれているとおり、夫の叶えたかった願いと言うのは、息子の病気のことだったのです。そして夫は、見事にその願いを成就させました。ですから今は家を十二色日間も開けるくらい元気な息子ですが、実は生まれつき重度の心臓病を患っていました。それが原因で同級生と比べると身体も小さく、内気な子です」
と言って、クラウンを労わるように見た。ブレイクは何度も小さく頷いている。
婦人は話を続けた。
「いなくなる前あの子は私に言ったのです。私の寝室に入って来て――熟睡していると思っていたのね。真夜中に私の耳元で、“オトンを探しに行って来る”と言ったんです」
「探しに行く? クラウンの父さんは死んだんだろ?」
ミラノは眉根を寄せた。
「そうよ。ニ色年前、海で溺れて。遺体は見つからず仕舞だったけど」
「嘘! 見つかってないの!?」
「ええ。だからてっきり私は、海に夫の身体を探しに行くのとばかり思ったんです。命日に近い日でしたし、彼は彼なりに自分の力で父親を探そうとしているんだと……まさか息子も海で溺れて……」
ハッとしたように口を手で押さえた婦人は、強くかぶりを振った。
「いいえ。それはないわ。決してない。だってあの子は私と約束したのよ。カカァを一人にしないから安心してって、そう言ったのよ……」
胸が苦しいのか、婦人は前かがみになって顔を歪める。
「大丈夫ですよキリエ様。クラウン様はしっかりと生きておいでです。その証拠に息子さんの影法師を浮き上がらせることに成功しておりますし、このようにミラノさんが成り代わっております。これは、生存者――つまり生きた魂を持った肉体からでないと実現は不可能であります。安心してくださって良いですよ」
ブレイクの言葉に、婦人がホッと息をついた。
「そうでしたわ。初めにブレイクさんから説明がありましたね。ごめんなさい……」
「謝らないでください。ただ」
と、ブレイクは言葉を選ぶ。
「やはり遠くに居られるのは間違いないかと……。これはミラノさんの肉体にクラウン様の影法師を入れる時のことですが、普段よりも硬かったのです。ミラノさんも副作用のような症状を訴えておられました」
影狩中に襲った不吉な予感は言わなかった。ミラノも特別口を挟むことはしなかった。それを言ったところで婦人を不安にさせるだけである。
「やはり息子は神の国に行ったのでしょうね。その国に父親がいると信じているんだと思います。遺体が上がらなかったから未だ信じられないのでしょう」
婦人は遠い目をしてそう言うと、ブレイクに視線を移し、続ける。
「ただ、手帳の最後の方に書かれている内容で分かったのですが、どうやら神の国へ行くには、黒い虹を渡るようなのです。ですが黒い虹を渡れるのは、臨死体験をした人間だけらしいのですが……」
「そのようですね。末尾にそう書いてございます」
ブレイクが言う。
「それに加えてお父様は、クラウン様のご病気を治癒させたく自ら身体を痛めつけたようですね。臨死体験が身に起こるなど分からないのに……」
「そうです。日記には明瞭に書かれていませんが、私もそう感じ取りました。やはりブレイクさんも?」
「はい。そのような感触を得ました。そこまでされてでもクラウン様をお守りしたかったのですね。父の愛でございます。更にお父様は願いを叶えておいでです。立派な御方です」
手帳を慎重に閉じたブレイクは、テーブルの下で手袋を嵌めた。
「ちょと良い?」
ミラノは整理できない頭を懸命に動かした。
「何だかややこしくて分かんないんだけどさ、今の話聞いてると、父さんは生死を彷徨った時に臨死体験してるってのは分かったんだけど、クラウンにも経験があるってこと? じゃないと父さんを探しに行くって言っても、神の国には行けないんじゃないの?」
「あ~それもこの手帳に書かれてございました」
ブレイクが言う。
「クラウン様が五歳の頃です。心臓疾患が原因で三十色日も意識が戻らなかったようなのです。その時に天界へ一度行ったのだと」
「ほ~なるほどね」
ミラノは納得してピンクティーを飲んだ。
と、キリエ婦人がスッと腰を上げ、深々と頭を下げた。
「ご迷惑を承知でお願いがあります。どうか、神の国へ行って、クラウンと、そしてライト君を連れ戻して来て欲しいのです。親友同士のあの二人は絶対に一緒のはずです。あの国で神を探すなんてあの子たちにはまだ早過ぎます。魔法や魔術が少し扱えたととしても限界があります。あの子たちの魔力では歯が立たない事態の方が多いはずなのです。ですからどうか、どうかお願いします! 助けてください!」
ミラノは驚いた。“神の国”が実在することすらまだ半信半疑なのに、まさか実態も不明な国へ行けと言われるとは思ってもみなかった。しかも一人のみならず二人も連れ戻して来て欲しいとは。
危なく誤飲しそうになったピンクティーをミラノは無理に飲んだ。喉がゴクリと鳴って結局は咳き込んだ。
おいおいおい……何を言っちゃってくれているのかね、この人は。
婦人は鼻を赤く染めた顔を上げる。涙がテーブルに一滴、二滴と玉を作った。
「他に頼める人がいないんです。神の国へ行くには臨死体験していることが必要条件ですし、擬似屋の方ならクラウンに成り代わった姿で黒い虹を渡れるんじゃないかって……そう思ったものですから」
「ちょっと待ってよッ」
ミラノは立ち上がった。
「クラウンになってんのはアタシ一人だけだよ? それってアタシ一人だけ神の国へ行けってこと?」
冗談じゃない。右も左も分からない異世界にたった一人で行けますかっての。
「違うわクラウン! あ……ミラノさん、違うわッ」
婦人は涙を拭って、乱れた金髪を耳にかけ直した。「皆さん、一人一人がクラウンに成り代わったらどうかしら?」
は? どうやって?
「なるほど」
ブレイクが頬を掻く。
「例えばこうですね。初めにミラノさんが黒い虹を渡ってから元の姿に戻ってもらい、続いてバウランさんにクラウン様の影法師を憑依させて黒い虹を渡ってもらい、最後にワタクシが自分にクラウン様の影法師を憑依させればと、そう言うことでございますね?」
「嘘でしょッ! だって異世界と現実界だよ!? ものすっごい距離じゃんか! それでもそんなこの出来るの!?」
「はい。可能でございます」
ブレイクは即答し、満面に笑む。
「ワタクシにお任せ下さい」
あっそ……そんなこと出来るんだ。初めて知ったよ。てか、それ言っちゃったらもはや承諾したも同然じゃんか。ったくぅ。
ミラノはテーブルの下でブレイクの脛を思いっきり蹴っ飛ばした。
「うぎぃィィィィ!!」
椅子から飛び跳ねたブレイクが、涙目でミラノを見、囁いた。
「な、何ですか?」
「別に」
ミラノは無表情で言った。
「あの……引き受けていただけるのですか?」
スカイブルーの瞳を潤ませる婦人は、ミラノを見つめている。
あ~あ。この流れ、断れないじゃんか。
真剣に考えて結果を出せとバウランは言ってたけど、真剣もなにもあったもんじゃない。
ミラノはフーっと鼻から息を吐いた。そして婦人の吸い込まれそうな青い瞳を見た。
「良いよ。成功するかしないかは置いといて、やってみるだけやってみるよ」
「ありがとう!! ミラノさんは絶対に了承して下さると思ってたわ!! 本当にありがとう――」
と、婦人がその場に崩折れた。何度もお礼を口にする。
「ありがとう……ありがとう……ありがとう」
「キリエ様、顔を上げてください」
ブレイクが痛がる片足を引きずりながら婦人に近寄り、優しく背を撫でる。
「きっと、二人を連れ戻してみせますから」
「ありがとうございます、ブレイクさん」
ミラノは二人の茶番劇のような一齣を目を細めて見ていた。
ったく。どいつもこいつも美人には弱いんだから。
ミラノは憤然としてパンケーキを大口開けて頬張った。




