第8話 まだここにないもののきもち(就活内定)
「これは意外すね」
「えへへ、そうかな」
ソファの左横に座った先輩がはにかみながら返した。
バイト上がりに先輩の家で夕飯を食べてお酒を飲みながら二人で話をしていた。
「外資なのもITなのも」
「私、英語は得意なんだよね」
「英文科の面目躍如っていう感じすかね」
「英検一級は伊達じゃないのだ」
六月になり先輩が内定をもらってきたのは大手の外資系IT会社だった。先輩がITに詳しいとは思ったことはないけど、先輩が言うように英語の能力を買われたのかもしれない。
「そうすか、じゃあこれで就活終わりすか?」
「そのつもり」
「よかったすね」
「もっと喜んでほしいな」
「喜んでますが」
「まあ、それがいつもの君だからね」
「そうすね。これなんすか?」
「これね!」
先輩が声のボリュームを上げた。
「見て」
これ以上ない笑顔で先輩がテーブルの上にあったパンフレットのようなものを指さした。
「『内定者のしおり』。今こういうのもあるんすね」
「うん、それでそれで」
先輩がページをめくった。
「『パートナーシップ制度』?」
「うんうん」
「『当社は多様性のある社会を推進し、法的な婚姻関係だけでなく事実婚、同性婚も婚姻関係と等しく扱い、特別休暇の付与や住宅補助の支給をいたします』」
「ね、ね、ね、いいでしょ!」
「どういうことすか?」
「そういうこと! 来年から君と一緒に住みたくて。二人分でも家賃かなり補助してくれるんだって」
「え?」
予想外の方向から来たな。
「君だって家賃が浮けば助かるでしょ? バイトだって減らせるかもしれないし」
「それは、そうすけど」
「ダメ?」
「……ダメというか、まだ先のことでは」
「今から準備しておくのにこしたことはないでしょ」
「はあ。え、もしかしてそんなことで会社選んだんすか?」
「そんなこと……?」
先輩がやや険しい顔で私の顔を見た。あ、これ何かを踏んだ気がする。
「そんなことじゃない!」
先輩が声を張り上げた。自分の声の大きさに先輩自身も驚いているようだった。胸に手を当てて深呼吸をする。みるみる間に先輩の瞳に涙が溜まっていく。
「私は、君といたい。この先もずっと。そう思うのっておかしいこと?」
「そう言いたいわけではなくて……。私は……」
先輩が手の平を私に向けて続きを言うのを制止した。
「君が言いたいことはわかる。私だって君のこと知らないわけじゃない。これは私たちの話で、周りがどう思うかは関係ない、とかそういうことが言いたいんでしょ」
「……はい、そうすね」
私だって先輩といたいけど、それは私と先輩だけで完結する話だ。他人が介入する問題ではない。この関係はその程度の強度は持っているはずだ。
「君はそうかもしれないけど、それが正しい意見かもしれないけど、正論だからそれでいいってわけじゃない。正論で救われないこともあるんだよ。少なくとも私はそうじゃない。私はみんなに君の話をしたいし、こんなに幸せだってこと言いふらしたいし、世界中のみんなに祝福されたい。当たり前に手を繋いで外を歩きたい」
確かに私は先輩のことを誰にも言っていない。外出するときも手を繋いだりはしない。どこか周りの目を気にしているのは事実だ。
「私も周りがすぐに変わるなんて楽観的には思ってないよ。でもこうでもしないと君は変わってくれない」
「でも……」
再び先輩が手で制止する。今度は私の口に触れる。
「もし君がいつものように外からの知識で何か言おうと思っているのなら今はやめて。私は君自身の言葉が聞きたい」
牽制される。さっきの先輩と同じように深呼吸をして頭の中をまとめる。
「わかりました。私も正直な気持ちを言います。先輩が私のためにそういう選択をすることは嬉しいとは思います。ただ、私は、私がいることで先輩の可能性を制限したくはないです」
「可能性?」
「私がいることで選べない選択肢が先輩に生じるのがもったいないと思います。私は先輩の足かせになりたくない」
私が言っている間も先輩はじっと私を見ていた。
「そういうことか」
「なんすか?」
「君がさ、なんでちょっと距離を取っているように見えていたのかわかった」
「そうすか?」
「うん、だけど、それは間違っているよ」
「間違っている?」
「私は君といて、いろいろなことを知ることができて、考えることも増えた。行けるところも増えた。だから、君は私の可能性を広げた。もちろん、失ったものもあるかもしれないけど、指を折って数えるまでもなく君のおかげでやりたいことも増えた」
「そうすか」
「もしかして私を怒らないのもそのせい?」
私が先輩に甘すぎることに気がついていたのか。
「怒られたかったんすか?」
「そういうわけじゃないけど」
先輩が少し微笑んだ。張り詰めた空気が緩む。
「もっと私に影響を与えてよ。私の一部が君と同じになるくらい」
「そうすね、これからはそうします」
「いいね、よろしく頼むよ」
もういつも先輩に戻っていた。
「先輩、来月末暇すか?」
「何?」
「私は北海道に一週間帰ります。一緒に行きませんか?」
「え?」
「先輩がそういうつもりなら、私の家族に先輩を紹介します。私の生まれ育った街も先輩に見せます」
「え、え」
先輩が頬に両手を当てた。また瞳に涙を浮かべる。
「ダメすか?」
「ダメじゃない!」
先輩が腰を浮かせる。
「じゃあそうしましょう」
「でもいいの?」
「いいすよ」
「……それは友達として? 恋人として?」
「それは、ごめんなさい、まだ決めきれないす。親は古い人間なので。それでもいいなら」
「うん。行くよ」
「観光もしましょう。どこに行きたいすか?」
「考えておく。君はときどき大胆だね」
「私も変わったかもしれません。先輩のせいすかね」
「せいって」
先輩が笑って万歳のポーズをした。私が先輩の脇に手を入れ抱きつく。柔らかい。
「これでも先輩の恋人ですからね」




