第5話 私たちしかいない世界で(ひな祭り)
「ううー」
ソファの左横で器用に膝を抱えて高い身長を折り畳んでいる先輩が右手で目元を拭った。そのまま手を下ろしてテーブルにある小さなグラスを掴み中身を喉に流し込んだ。左手で皿に乗ったひなあられを摘まんで口に運ぶ。先輩はポリポリとひなあられを砕いている。その手で涙を拭おうとしてさすがにあられを触った手で目を触るのはまずいと気がついたみたいでグラスを置いて右手で拭った。最後の理性だ。
「泣くか食べるかどっちかにしたらいいじゃないすか」
「ええ、でも、こういう感情がぶわっときたら、何かでセーブしないと」
「そうすか」
「あれ、君、全然泣いてないね」
「泣くほどのことでは……」
「そうかあ、君には響かなかったかあ」
「面白くないとは思わなかったすけど」
「それなに?」
「ああ、メモです」
「映画観ながらメモ取る人初めて見た!」
「そうすか?」
「何書いてるの見せて」
「いやすね」
「えーいいじゃん」
先輩がテーブルに手を伸ばしたので私はメモを持って先輩が届かない位置まで上げた。
「何書くの?」
「簡単なストーリーとか、印象に残った台詞とかすね」
「そういうの考えながら映画観るのって無粋じゃない?」
「私はそうは思わないすけど」
「うーん」
「そもそも課題のために観てるんすからメモは取りますよ。観る前に説明しましたよね? 映画館ではやらないす」
「そうだったそうだった、忘れてた」
「まあ、先輩がそこまで感情移入するとは思わなかったすけど」
「うん。意外?」
「意外ではないすね」
「あ、そう」
先輩はアルコールブーストかかっているだろうけど。
私はバイト上がりに先輩と西友で落ち合い、ちらし寿司とひなあられを買って先輩の家で映画を観ていた。お酒は先輩が事前に買っておいたもので白酒と言うらしい。
「君も飲めばよかったのに」
「これからまた早朝出勤あるんで」
「忙しいねえ」
「稼ぎどきすからね」
「春休みなのになあ」
「春休みだからすね」
実際私は連日のようにバイトの予定を入れ、早朝深夜構わず働いている。
「それ来年度の課題なんでしょ?」
「そうすね。情報だけは仕入れていたんで」
「なんだっけ?」
「映像表現すね。二千年以前の映画を二十本観てくるっていう」
「私たちの生まれる前だ」
「そうすね。でも98年の映画なんでそこまで古くさい感じはしなかったすね」
「そうそう、今で言うリアリティショーみたいな感じ」
「なるほど」
私はメモに『現代のリアリティショー』と書き加える。
「良いこと言った?」
「その一言さえなかったらなお良かったすね」
「厳しい。君はどう思った? ラスト」
「ハッピーエンドじゃないすか?」
「そうかな、私は、うーん、どうだろう」
「バッドエンドの要素ありますか?」
「バッドエンドっていうのも違うんだけど、あのままいれば安全は約束されるわけでしょ、外の世界はわからない」
「そういう感想を持たせるような構成にしているのはわかるすけど」
「分析屋だ」
先輩が私の頭をわしゃわしゃとかき混ぜる。
「嫌いじゃないけどね、君のそういうところ」
「そうすか」
私たちが観ていた映画は、生まれた瞬間から全世界に生活が生中継されている男の物語で、彼のいる場所はセットであり登場人物はすべて役者ということになっている。役者は彼のためだけに存在し、友人も妻ですらも役割通りの行動をして場合によってはさりげなく商品の宣伝までする。それに違和感を持った主人公は色々な手を使い、最後には神の声とも言えるプロデューサーが止めるのも聞かずセットから出て行く。
「いずれにしても自分がいる世界が作り物であると認識して同じようには生きてはいけないと思うす。だから出る以外の選択肢はなかったと思うすよ」
「それはそうだね。でもさ、今私がいる世界が『そう』じゃないっていう保証はないよね」
「それは、私が誰かから頼まれて先輩の恋人の役をしているっていう意味すか?」
「いや、これは失言」
「怒ってるわけじゃないすけど。まあ証明は難しいすね。それに知らないのは『私たち』だけという可能性もあるす」
「急に怖いこと言わないでよ」
先輩が顔を上げて部屋の隅を見た。監視カメラ?
「脳みそだけ電極に繋げられて仮想空間に放り込まれている方が確率は高そうすね」
「それ知ってる、マトリックスでしょ」
「99年なんで昨日観たところす」
「えー私も観たかったなあ」
「観てなかったんすか」
「うん、内容だけ知ってる」
「あのアクションに新規性があったんで映像で観た方がいいすよ。なんならもう一回観てもいいす」
「え、優しい。君、中身入れ替わってない?」
「先輩は私を怒らせようとしているんすか?」
「ごめん、違うよ、君はいつも私に優しい」
というか甘いんだろうけど、まあこうやってじゃれているうちが華ということも。
「でも私はさ、本当のところ」
先輩が両手を広げてストレッチみたく左右に旋回した。
「この部屋がすべて。私が手にしているのはここにあるものだけ。そういう意味では、ここ以外の世界は存在しないかも」
先輩は両親も帰る実家もないのを私は知っている。
彼女の部屋にある物が先輩のすべてなのだ。
「あっ」
先輩の旋回を避けるのに失敗して私のおでこに右手がごつんと当たった。先輩と目が合う。ふざけた顔はしていない。これ、先輩が私のことを『私のモノ』って言う流れか。まあ、それはそれで。
「君は違うよ」
「え」
「君は人間だから、私のモノじゃない。私は人間としての君と接してるから。私のことは見ていてほしいけど、私のモノにはならないよ」
真面目な顔のまま先輩がはっきりと言った。
「あー……、先輩、すみません、ちょっとむこう向いてもらっていいですか?」
私が指さして先輩に背を向けるよう指示する。
「え、なんで?」
「いいから、お願いします」
「いいけど」
先輩がぐるんと反対側を向いた。
「どうしたの?」
その隙に私は自分の目元を拭った。
「自分の不明を恥じているところす」




