第2話 森の怪物
第2話です。
異世界で目を覚ました総一と薫。
二人は最初の試練に直面し、この世界で起きた”ある変化”を知ることになります。
それでは、お楽しみください。
木々の奥で動いた影は、最初は大きな岩のように見えた。
低く垂れた枝を押し分け、黒い塊がゆっくりと姿を現す。全身を覆う毛は夜のように暗く、四つ足で立っているにもかかわらず、肩の高さだけで総一の背丈を優に超えていた。
裂けた口から覗く長い牙。その隙間から生温かそうな息が漏れ、赤く濁った目が二人を捉える。
「そうちゃん……あれ、熊?」
「熊にしちゃ育ちが良すぎるな」
「冗談を言ってる場合?」
「こういう時こそ落ち着かないと」
総一は軽口を叩きながらも、薫を庇うように一歩前へ出た。
もちろん武器など持っていない。この世界へ来たときから、あるのは着ていた服と自分の身体だけだった。
巨大な熊が前脚で地面を掻く。
ザリッ、と鋭い爪が土を抉った。
湿った泥が跳ね、低い唸り声が森の奥まで響いていく。
「逃げる?」
薫の問いに、総一は周囲へ素早く目を走らせた。
背後には太い木々が密集し、地面には根が複雑に張り出している。この足場で全力疾走すれば、転倒する危険がある。
それ以上に気になったのは、目の前の獣の脚だった。
「逃げるのはやめとこう。たぶん追いつかれる」
「どうして分かるの?」
「後ろ脚を見てみろ。前より太いだろ。あれで地面を蹴られたら、かなり速い」
薫は熊の脚へ視線を向けたあと、総一を見た。
「よくそんなところ見てるわね」
「長年の癖だよ」
総一は肩の力を抜き、両手を軽く開いた。
「薫、俺の後ろに」
「そうちゃんは?」
「話し合ってみる」
「通じると思う?」
「顔を見る限り、交渉は難航しそうだな」
熊が大きく口を開いた。
「グオオオオオッ!」
轟く咆哮に空気が震え、木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
次の瞬間、巨体が地面を蹴った。
総一の予想を上回る速さだった。
十数メートルあった距離が瞬く間に消え、巨大な前脚が持ち上がる。その先に伸びた爪は、一本一本がナイフのように鋭い。
「そうちゃん!」
薫の声が飛ぶ。
総一は反射的に右腕を突き出した。
受け止めようと考えたわけではない。
ただ、自分の後ろにいる薫へ近づけさせたくなかった。
振り下ろされる爪より先に、総一の拳が熊の鼻先を捉えた。
ドゴォッ!!
拳と鼻先がぶつかったとは思えない轟音が、森を揺らした。
総一の髪が衝撃で揺れる。
巨大な熊の動きが止まった。
ほんの一瞬だけ。
次に起きたことを見て、総一自身が目を見開く。
「え?」
数百キロはありそうな巨体が、地面から浮いていた。
そのまま凄まじい勢いで後方へ吹き飛んでいく。
バキィッ!
一本目の木がへし折れた。
それでも勢いは止まらない。
二本目を巻き込み、さらに三本目へ激突する。
メキメキッ、と太い幹が悲鳴を上げ、土と枯れ葉を巻き上げながら巨体が地面を滑っていく。
最後に大木へ背中から叩きつけられた。
ズンッ!
地面が揺れ、枝から無数の葉が降り注ぐ。
総一は拳を突き出した姿勢のまま固まっていた。
「……今の、俺?」
薫はしばらく答えなかった。
総一と、数十メートル先まで吹き飛んだ熊を交互に見る。
「ほかに誰がいるのよ」
「だよな……」
二人は慎重に熊へ近づいた。
何本もの木がへし折れ、地面には巨体が滑った長い溝が残っている。
その先で熊は完全に動きを止めていた。
総一はしゃがみ込み、首元へ手を伸ばした。
「死んでる」
「これで生きてたら、そっちの方が怖いわ」
「軽く殴ったつもりだったんだけどな」
「軽く?」
薫は後ろを振り返った。
折れた木が三本。
地面には一本の太い溝。
そして、鼻先の陥没した巨大な熊。
「今のを軽くって言うなら、全力は絶対に出さないで」
「俺だって怖くて出せないよ」
薫は総一の右腕を取った。
手首を確認し、肘まで指を滑らせる。
「痛みは?」
「ない」
「指、動かして」
総一が言われた通りに拳を握ったり開いたりする。
「問題なさそう」
「心配してくれてる?」
「仕事仲間が目の前で化け物と殴り合ったのよ。普通は心配するでしょ」
「仕事仲間ねぇ」
「何よ」
「別に」
薫の目が細くなったので、総一はさっさと腕を引っ込めた。
足元に転がっていた小石を拾う。
「今度は何?」
「確認したいことがある」
総一は少し離れた木を狙い、石を軽く放った。
ヒュンッ!
小石が視界から消えた。
次の瞬間、離れた場所にある木の幹から木片が弾け飛ぶ。
石は半分ほど幹へめり込んでいた。
総一と薫は無言でそれを見る。
「……今のも?」
「軽く投げた」
「聞きたくなかった」
総一は自分の手を眺めた。
「この世界に来た影響かな」
「私も何か変わってる可能性はあるわね」
薫も自分の両手を見る。
少なくとも、撃たれたはずの傷は消えている。身体のどこにも痛みはなかった。
「試してみる?」
「木を殴るのは禁止な」
「殴らないわよ」
薫は小石を拾い、近くの木へ向けて投げた。
ぽとっ。
石は数メートル先の地面へ落ちた。
二人の視線が石へ集まる。
「普通ね」
総一は胸を撫で下ろした。
「ちょっと安心した」
「どういう意味?」
「二人とも怪力だったら、事務所の備品が全部壊れるだろ」
「もう事務所はないでしょ」
総一は一拍置いてから空を見上げた。
「……そうだった」
薫が少しだけ笑った。
何が起きたのか考えたところで、今の二人には材料が足りない。
「ここで熊を眺めてても答えは出そうにないわね」
「だったら、答えを知ってそうな奴を探そう」
「人を探すってこと?」
「まずはそこからだな」
薫は周囲を見回し、折れた草や地面に残った跡へ視線を落とした。
「あっちに獣道がある。かなり踏み固められてるから、何度も使われてるみたい」
「人の道に繋がってるかもな」
「この熊の巣だったりして」
「やめろよ。もう一匹出てきたら、今度はどれくらい力を抜けばいいか分からないぞ」
「そっちの心配?」
二人は熊の死体を残し、獣道を進んだ。
しばらく歩くと木々の密度が薄くなり、その向こうから細い煙が立ち上っているのが見えた。
山火事のような煙ではない。
何本もの煙が、同じ場所から真っ直ぐ空へ伸びている。
「そうちゃん、あれ」
薫が指差す。
木々の隙間から、石造りの壁が見えた。
さらに進めば、その全貌が現れる。
高い石壁に囲まれた大きな町だった。
「町だ」
総一の顔が明るくなる。
「これなら人もいるわね」
「食い物もありそうだ」
「お金は?」
総一の足が止まった。
「……それを今から考える」
「先に食欲が来るのね」
「生き返って最初の食事だぞ。重要だろ」
呆れた薫を横目に、総一は石壁の町へ向かって歩き出した。
◇
「ダークデッドベアが確認されました!」
ライラックの冒険者ギルドに受付嬢の声が響き、広間にいた冒険者たちが一斉に振り返った。
すぐにあちこちからざわめきが起こる。
「場所は?」
「北の森です。それも街道からそれほど離れていません!」
「冗談だろ。あいつが森の浅いところまで出てきたのか?」
酒を飲んでいた冒険者がジョッキを置いた。
「Aランクだぞ。俺たちが行ったって餌になるだけだ」
「討伐依頼が出て三日だ。これ以上放っておけば、街道まで出てくるぞ」
受付嬢の顔にも焦りが浮かんでいた。
壁に貼られた緊急依頼書には、赤い文字で魔物の名が記されている。
ダークデッドベア。
その名を見ただけで、名乗りを上げようとする冒険者はいなかった。
「僕たちが行きます」
ざわめきの中から、一人の青年が前へ出た。
まだ十八ほどに見える。少年らしさの残る顔立ちながら、腰には使い込まれた剣を下げていた。
受付嬢が驚いて顔を上げる。
「シンさん!」
「このまま街道まで来たら危険です。場所を教えてください」
白い神官服をまとった女性が、その隣へ並んだ。
「シンさん、無茶だけはしないでくださいね」
「分かってるよ、サリー。危なくなったらすぐ退く」
受付嬢から詳しい場所を聞くと、二人は討伐に参加する数名の冒険者とともに森へ向かった。
ところが、現場へ到着したシンたちは足を止めた。
「……何だ、これ」
森の一角だけ、嵐でも通り過ぎたように荒れていた。
何本もの木がへし折れ、地面には深く長い溝が刻まれている。
その先。
太い大木の根元に、ダークデッドベアが倒れていた。
「死んでる……?」
冒険者の一人が恐る恐る近づく。
シンも剣へ手を掛けたまま距離を詰め、巨体を確認した。
「剣の傷がない」
サリーが反対側から死体を調べる。
「魔法を受けた跡も見当たりません」
「じゃあ、どうやって……」
冒険者が鼻先を見て、言葉を失った。
陥没している。
まるで巨大な槌を正面から叩き込まれたように、硬い骨ごと砕かれていた。
「これ……一発じゃないか?」
誰も答えなかった。
シンは倒れた木々へ視線を移す。
一本。
二本。
三本。
木の倒れ方と地面に刻まれた溝を辿れば、何が起きたのか想像できた。
何者かがダークデッドベアへ強烈な一撃を叩き込み、その巨体をここまで吹き飛ばした。
シンはもう一度、砕けた鼻先を見る。
武器の傷はない。
魔法でもない。
「まさか……」
拳で。
そんな考えが頭をよぎったが、すぐには信じられなかった。
シンは荒れ果てた森を見回した。
「誰が倒したんだ……」
第2話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、総一が異世界で常識外れの力を手にしていることが判明しました。
一方その頃、総一たちの知らない場所でも物語は動き始めています。
次回はいよいよライラックの町へ。
異世界の人々との出会いが、二人の旅の始まりとなります。
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次回もよろしくお願いいたします!




