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4.世界を救った英雄ですが、カツ丼代(980円)が経費で落ちないので国家の財務サーバーを逆監査(クラック)します


 午前九時。本日の俺の最重要任務は、世界の救済ではない。

 昨夜否決された、カツ丼代九百八十円の、名誉回復である。


 執務室のモニターに、赤いエラー画面が灯っている。

 『戦闘食費(カツ丼代:九百八十円)――不承認』。

 俺は机に突っ伏したまま、その文字を睨んでいた。魂が、半分ほど抜けていく。


「先輩。たった九百八十円で、世界滅亡みたいな顔をしないでください。私が奢りますから」


 出勤してきた綾乃が、呆れ顔で言う。

 俺は顔を上げ、窓口対応の声で応じた。


「氷室さん。労働の対価たる経費請求は、働く者の尊厳です。神聖不可侵の領域と言ってもいい」


 俺はモニターの赤い文字を指さす。


「これを不当に否決した本庁財務課は、私にとって、Sクラスの災害魔物より優先的に排除すべき敵です」

「九百八十円で、本庁を敵に……?」


 綾乃が何か言いかけた、その時だった。

 モニターに、ビデオ通話の着信が割り込んだ。本庁財務課、課長補佐・敷島。

 画面の向こうの男は、仕立ての良いスーツに身を包み、地方を見下す笑みを唇の端に貼りつけていた。


「やあやあ、三船のモブ公務員諸君。昨日は派手にやってくれたそうじゃないか」


 敷島は鼻で笑う。


「御堂凱への行政処分? あんなものは地方の越権行為だよ。そもそも、カツ丼などというゴミ経費を国家予算から出せるわけがないだろう。いや――そもそもだ。君たちFランク公務員の給料そのものが、税金の無駄遣いなんだよ」


 背後で、エリート官僚たちの忍び笑いが漏れる。


「安心したまえ。来期から三船出張所の予算はゼロだ。君たち余剰人員は、合理化プランに基づき、全員自動的に諭旨解雇。文句があるなら――そうだな、本庁財務サーバーのセキュリティ規程をくつがえして、システム的に経費を通してみたまえ。ハハハ!」


 画面の向こうで、爆笑が起きた。


 俺は、ゆっくりと身を起こす。

 九百八十円のカツ丼。来期の予算。妹と暮らすこの町の、ささやかな職場。そのすべてを、嘲笑とともに奪うと言われた。


 ヨレヨレのタブレットを持つ俺の指先が、静かに管理者モードへ切り替わる。


「……システム的に、ですね」


 俺は平熱のまま、頷いた。


「承知いたしました。ご提示いただいた仕様書のとおり、これより『国家財務システム監査不適合に対する是正勧告』を、電子起案いたします」


 俺はタブレットの画面を、ミリ秒単位でタイピングしていく。

 魔力ではない。詠唱でもない。国家の基幹財務ネットワークそのものへ、一本の細い管を差し込む――システム監査だ。


 本庁の防壁は、噂に違わぬ代物だった。

 国家最高セキュリティ『ツクヨミ』。十二層に折り畳まれた量子暗号は、他国の諜報機関も、国際的な犯罪組織のクラッカー集団も、ただの一層すら剥がせなかった鉄壁である。突破には、世界中の演算資源を束ねて数百年を要するとされていた。


「おや」


 俺は、目を細めた。


「二分前のシステムアップデートで、パッチの適用ミスがありますね。ここの脆弱性、塞ぎ忘れていますよ」


 電球のホコリを払うように、画面を一度なぞる。

 数百年の城壁が、音もなく、内側から開いた。


「本庁の財務システム、要件定義がいささかガバガバですね。特に、本庁第三特別口座の暗号化プロトコル……ああ、これは。極めてお粗末な『不整合バグ』を検知しました」


 俺は、画面をダブルタップした。


 その瞬間、敷島のPC画面が、真っ赤な警告インジケータに埋め尽くされる。


『Error 850: 予算執行規程違反。本庁特別口座より、八百五十億円規模の違法な使途不明金を検出。国税局および警察庁サイバー犯罪対策課への監査ログ送信完了まで、あと十秒』


「な――何だこれは!? 国家最高防壁『ツクヨミ』が、一瞬でクラックされた!? き、貴様、何者だ!?」


 敷島が椅子から転げ落ち、床で腰を抜かす。


 俺の横で、綾乃が呆然と立ち尽くしていた。


「魔物の、デリートじゃ……ない。これは……国家の、最高機密システムそのものを……素手で開けた……?」


 彼女の声が、震えている。


「先輩は……ただの規格外の処理屋じゃ、ない。これは……伝説の、ハッカーの……」


 言葉が、途切れた。四度目の崩壊らしい。

 俺は、その狼狽を一瞥もしない。自分のカツ丼代「九百八十円」の精算ステータスを、指先で『不承認』から『国家最高特別免除(承認)』へと、ゆっくりドラッグして上書きした。


「これにて、カツ丼代九百八十円の電子決済を、強制執行いたしました」


 俺は、画面の向こうの泡を吹きかけた男に告げる。


「ついでに申し上げます。八百五十億円の横領の証拠バグを削除してほしければ――今すぐ、謝罪の姿勢をお示しください」


 数秒後。

 出張所のプリンターが、勝手に唸りを上げて吐き出したのは、一枚の文書だった。


 『カツ丼代(九百八十円)緊急全額国費負担、承認』。

 そしてその下に、もう一枚。『最高級山形牛・十キログラム、贈呈目録』。


 懐柔策である。それも、なりふり構わぬ。


 画面の向こうで、敷島は白目を剥いて完全に気絶していた。

 隣でモニターを覗き込んでいた出張所の課長が、目録を見て絶叫する。


「和牛十キロ……っ、国家ハッキングの口止め料だぁぁ!」


 そのまま泡を吹いて、課長も倒れた。


 俺は、満足げに頷く。


「よし。今夜は琴音と、すき焼きですね。プリンも買って帰りましょう」


 完璧な一日だ。そう思った、その瞬間だった。


 綾乃のスマホが、鳴った。

 画面には【国家Sランク極秘回線】の文字。彼女の顔が、見る間にこわばっていく。


 受話器から漏れ出たのは、本庁探索部門トップの、氷のような声だった。


『氷室。三船ダンジョン第五層深層で、システムそのもののバグが起動した。世界を強制フォーマットする――「地球テラフォーミングOSの強制アップデート」だ。もう、手遅れだ』


 綾乃の指が、白くなる。


『政府は決定した。三船町の住民を切り捨て、町全体をダンジョンごと埋め立て、物理的に消滅させる。「特例措置第十二号」――本日、閣議決定済みだ』


 綾乃の手から、スマホが滑り落ちた。

 硬い音を立てて、床に転がる。


 今夜のすき焼き。妹が割る生卵。冷蔵庫で冷やしておくつもりだった、半額のプリン。十四歳の妹が「おかえり」と笑う、あの狭い台所。

 そのすべてを、彼らは「埋め立てる」と言った。


 俺の顔から、お仕事モードの平熱が――静かに、消えた。


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