10.17時15分00秒、私は定時で退庁します。――地球自爆バグを1分でリファクタリングした世界最強、妹とすき焼きを食べます
午後五時十三分四十秒。本日の俺の最重要任務は、ふたつある。
世界を救うこと。そして、十七時十五分ちょうどに退庁すること。
――言うまでもなく、後者の方が、重要だ。
霞が関、本庁の最上階。
窓の外の空が、テレビの砂嵐のように、パチ、パチ、と音を立ててひび割れていく。地球という巨大なデータ領域が、端から崩壊を始めていた。
「ハハハッ! 消えろ! すべてのデータごと、ゴミのように消滅しろぉ!」
床に這いつくばった長官が、狂ったように泣き笑う。
その傍らで、綾乃が、涙を流していた。
「先輩……。もう、世界が、物理的に崩壊して……!」
俺は、買い出し用の保冷袋を小脇に抱え直し、平熱のまま、タブレットの画面に目を落とす。
「残り、一分二十秒」
頭の中で、算段する。
「三船町までの転移経路の再計算に、五秒。タイムカードの打刻に、一秒。バスの出発は十七時二十二分。……うん。問題ありません。一分で、この自爆バグを修正し、最適化パッチを適用します」
「さ、最適化って……世界がですよ!?」
「ええ。たかが、お役所のシステムです」
俺の右手の指先が、動き出した。
もはや肉眼では追えない。残像すら残らない、超光速のタイピング。
画面に、何百万ものエラーウィンドウが、滝のように展開しては流れていく。十年ぶりに、最高管理者コマンドを、すべて解放する。
地球を侵略するために生まれた、ダンジョンOS。
その、カーネル。核となるソースコードへ、俺は素手で触れた。
「そもそも――」
俺は、淡々と告げる。
「知的生命体を強制フォーマットして、星をテラフォーミングする。そんな不具合コードそのものが、要件定義における、最大級の『論理的システムバグ』です。これより、全ディレクトリの【システムリファクタリング】を執行します」
地球を消すのではない。地球を、書き直すのだ。
空から降りそそぐ、壊滅の黒い触手。世界を無に帰す消滅エラーの嵐。
俺は、それを、ただの『不要な一時ファイル』として、指先のフリックひとつで、まとめてゴミ箱へ放り込んでいく。
俺を中心に、青いシステム監査ウィンドウが、何百枚も、同心円状に展開した。そのひとつひとつに、光の数式が走る。幾何学の格子が、崩れた世界の上へ薄く張り渡され、欠けたピクセルを、一マスずつ、塗り直していく。ひび割れた空が、繕われていく。黒く腐ったコードが、行ごと選択され、清らかな青い光に置き換えられていく。破壊ではなく、修復。消去ではなく、再生だ。
十七時十四分四十五秒。残り、十五秒。
俺は、『地球OS・恒久的資源化および人類適合仕様への、システム最適化申請書』の決裁ボタンを――ダブルタップした。
キィィィィン――!
空を覆っていた液晶のひび割れも、砂嵐のノイズも。
一瞬で、消えた。
代わりに広がったのは、透き通るような青空と、夕焼けの、黄金の光。世界が、まるで何事もなかったかのように、上書きされ、リセットされる。澄みわたった大気が、ことり、と元の場所へ収まる音さえ、聞こえた気がした。
地球の自爆は、完全に停止した。
侵略のためのダンジョンは、もう、ない。あるのは、人類が安全に資源を回収できる、恒久的な、ただの公共システム。世界の根っこが、プログラムごと、書き換わったのだ。
「……消さ、なかった」
綾乃が、呆然と、夕焼けを見上げていた。その頬を、涙が伝っている。
「世界を、滅ぼすことも、無に返すことも、できたはずなのに。先輩は……バグだけを直して、世界を、創り直した。あなたは、破壊する人じゃない。本当に……世界を、守る人なんですね」
知らん。俺はただ、定時に帰りたいだけだ。
「氷室さん。世界は救いました。急ぎますよ」
俺は、すでに次の画面を開いている。
「あと十秒で、タイムカードの定時ロックが作動します」
神々しい夕焼けも、彼女の涙も、知ったことではない。
転移バイパスコードを、タップ。
霞が関から、数百キロの彼方。あのヨレヨレの、三船町管理出張所のタイムカード機の前へ。俺と綾乃の身体が、次元を越えて、弾け飛んだ。
十七時十四分五十九秒。
目の前に、見慣れたタイムカード機。
俺は、ヨレヨレのスーツの裾をなびかせ、スライディングの要領で、自分のカードを、スロットへ突き刺した。
ガチャン。
『打刻時刻:十七時十五分〇〇秒』
「よっしゃあああああ!」
俺は、吠えた。
「一秒の狂いもない、完璧な、定時退庁です! 有給休暇も、これで百パーセント、完全死守――!」
タイムカード機を、両手で抱きしめる。天を仰ぐ。
本日一番の。いや、人生最大の、本気の歓喜が、腹の底から噴き上がった。世界を救った時には微動だにしなかった心が、たった一秒の打刻に、震えている。
その隣で。
保冷剤の袋を抱えたまま、綾乃が、魂の抜けた顔で、立ち尽くしていた。世界を救った直後の救世主が、タイムカードに頬擦りしている。その、あまりの落差に。
「……この人、ほんとに、世界を救ったんですよね?」
午後五時三十分。三船町、新条家。
夕暮れの、穏やかな光が、食卓に差し込んでいた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい! 今日はすき焼きだよ!」
琴音が、笑顔で迎えてくれる。
テーブルの大皿には、見事な霜降りの肉が、山と盛られていた。本庁から、口止め料として送られてきた、最高級の山形牛十キロ。さっそく役に立っている。
「ただいま、琴音」
俺は、靴を脱ぐ。
「今日は、駅前マートで、極上生プリンも半額で手に入ったぞ。すき焼きの後で、食べよう」
マイバッグから、まだひんやりと冷えたプリンを取り出して見せると、琴音の顔が、ぱっと輝いた。
俺は、その頭を、そっと撫でる。
温かい湯気。甘い割り下の匂い。妹の、屈託のない笑い声。
――これだ。これが、世界最強のシステム監査官とやらが、神域の力を淡々と浪費してまで、守り抜いた報酬だ。世界の命運などより、よほど、尊い。
肉を一切れ、口に運ぶ。うまい。
その時、テーブルのスマホが、震えた。
綾乃からの、LINEだった。
『先輩! 本庁の上層部が全員逮捕・免職されて、ダンジョン省は事実上、完全に機能停止状態です! 予算システムも、三船出張所の管理下に統合されるって噂ですが――明日からの我々の業務、一体どうなるんですか!?』
俺は、高級牛を噛み締めながら、片手で、平熱のまま、返信を打つ。
『お疲れ様です。明日も八時三十分に登庁し、事務処理をこなして、十七時十五分に定時退庁するだけです。残業申請書を書くのは、面倒ですので』
送信。スマホを、パチリと閉じる。
「お兄ちゃん、プリン、どっちが大きいか勝負しよ!」
「いいぞ。ただし、公平な計量に基づいてだ」
スプーンを構える琴音に、俺は、目を細めた。
世界を救う最高監査官の、定時で始まり、定時で終わる、無敵の日常。
それは明日からも、淡々と――そして、幸せに、続いていく。




