9.有休を人質に取るブラック組織(本庁)は、労働基準監督署およびシステム監査で社会的に消去(デリート)いたします。――本庁キャリア全員永久BANのお知らせ
午後五時五分。本日の俺の最重要任務は、国家組織との対決ではない。
十七時十五分、三船出張所のタイムカードを押し、有給休暇を完全に消化することである。
霞が関。ダンジョン省本庁、最上階の長官室。
その空間が、電子ノイズでぐにゃりと歪んだ。次の瞬間、買い物バッグを下げた俺と、息を切らした綾乃が、音もなくポップアップする。
高級な椅子に踏ん反り返っていた長官たちが、腰を抜かした。
が、すぐに、その顔が邪悪な勝ち誇りに歪む。
「ハハハッ! 来たな、新条! だが、お前が世界最強の解析者だろうと、関係ない!」
長官が、唾を飛ばして喚いた。
「貴様の公務員IDは、すでに凍結済みだ! 監査システムへのアクセス権を失った今のお前は、ただの魔力ゼロのゴミ――Fランクの地方公務員にすぎん!」
彼が、指を鳴らす。
長官室の壁を破って、漆黒の鎧をまとった一団が躍り出た。本庁が誇る、SSS級特務魔導警備部隊。神域の殲滅魔法が、いくつも宙にチャージされていく。
……時間がない。俺は腕時計を見た。十七時六分。
部隊が、極大の殲滅魔法を展開する。
俺は、平熱のまま、懐から、もう一台の型落ちタブレットを取り出した。
「私は本日、有給休暇を完全消化し、十七時十五分に、妹の待つ家へ帰らなければなりません」
画面に、指を滑らせる。
「それをシステム的に妨害したあなた方の行為は、労働基準法第百三十七条――有給休暇取得の妨害、ならびに刑法第二百二十三条――強要罪に抵触します」
「ハッ! 法律がなんだ! ここはダンジョン省本庁! すべてのダンジョンシステムを統べる、最高権益だぞ!」
長官が、勝ち誇って喚く。
俺は、ため息をついた。
「失礼。一つ、訂正を」
俺は、管理者コードのタイピングを始めた。
「あなた方が凍結したのは、『新条蓮治――Fランク地方公務員』のIDです。ですが、私はもう一つ、アカウントを保持しています。十年前――このダンジョンプログラムそのものを設計した際の、『最高マスターOS監査アカウント』を」
俺の周囲に、UIが展開した。
これまでの比ではない。巨大で、深く、静謐な、青い管理者画面。
本庁のシステムサーバーの全体が、その光に触れた端から、『Read Only』――俺の支配下へと、秒速で上書きされていく。
「ば……バカな。サーバーの、権限が……奪われていく……!?」
隣で、綾乃が、息を呑んだ。
「この、UIは……。世界そのものを設計図から書き換える、神の管理者権限……。これが、世界を創って、救った人の――本当の、権能……」
彼女の腕に、ぞわりと鳥肌が立つのが見えた。畏れでも、恐怖でもない。もっと深い、何かに。
部隊が、一斉に、最強の滅殺魔法を放とうとした。
その刹那、俺はタブレットの画面を、ダブルタップする。
「Error 403: Forbidden。システム監査に基づき、本庁セキュリティネットワークごと――そちらの魔導兵器プロトコルを『監査不適合』のバグとして、一括デリートいたします」
キィィィィン――プシュン。
部隊の極大魔法も、魔導兵器も、そして彼らの全身を巡る魔力エネルギーそのものも。
画面に明滅する『Access Denied』のブロックノイズとともに、一瞬で、消去された。
漆黒の鎧の一団が、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
俺は、続けて指を滑らせた。
本庁の全裏金口座。八百五十億円の横領データ。違法な地方埋め立て計画――『特例措置第十二号』の証拠ファイル。
そのすべてを選択し、ドラッグする。転送先は――労働基準監督署、警察庁、国税庁。そして、本庁が自ら用意した、一千万人の生配信画面。
ドロップ。
「これにて、ダンジョン省本庁のキャリア官僚全員に対する、『国家公務員ライセンスの永久BAN』、ならびに逮捕状の電子決裁が、完了いたしました」
一千万人の前で、すべての悪事が、白日の下に晒された。
長官たちが、口から泡を吹いて、椅子から崩れ落ちる。地方を踏みにじり、俺の有休を奪った国家のブラックシステムが、たった一台の型落ちタブレットの前で、社会的に、完全に、消滅した。
十七時十三分〇〇秒。残り、二分。
「よし。有休アカウントも、強制復活させました。これでタイムカードを押して、帰れます」
マイバッグの中の、保冷剤に守られたプリンを気にしながら、俺は次元ゲートを開いた。
――その時だった。
床に這いつくばった長官が、ひゅう、と狂った笑い声を漏らした。
「ク、ククク……タダで、死ぬと思うなよ、新条ぉ……!」
血走った目が、俺を睨む。
「本庁のサーバーが陥落した、その瞬間に……起動するよう、仕込んでおいたのだ……! 地球上の全ダンジョンを自動自爆させる、侵略OSのバグ――『ラスト・フォーマット』をな……! あと一分で、東京も、貴様の田舎の三船町も、地球そのものが、データごと消滅するぞ……!」
俺のタブレットに、見たこともない警告が走った。
『System Warning: 地球テラフォーミングOSの全強制アップデート(地球完全消滅)まで、残り時間:一分二十秒』
窓の外。霞が関の空が、液晶画面のように、ぴしりと、ひび割れた。
亀裂から滲み出した黒いノイズが、空を、雲を、夕陽を、端から四角い粒子に分解していく。遠い東京タワーが、上層からブロックノイズに食われ、ごっそりと「読み込みエラー」の穴に呑まれた。続いてビル群が、街路が、行き交う人々の姿が、世界という画像の解像度が落ちるように、ざらりと崩れ落ちていく。
同じ崩壊が、いま、三船町の空でも始まっているはずだ。妹の、いる町で。琴音が、夕飯の支度をしている、あの台所で。
世界そのものが、データの塵へと還る、終わりの秒読みを始めた。
「う、嘘……世界の、システムそのものが、自爆を……。もう、本当に、手遅れです……!」
綾乃が、膝から崩れ落ちる。
だが、俺は静かに、笑った。平熱のまま。
「手遅れ? 氷室さん」
俺は、買い物袋を左手に提げ直した。プリンが、傾かないように。
「私は、お仕事のプロです。お役所のシステムなど――あと一分もあれば、十分すぎるほど最適化して、デリートできます」
崩れ落ちる世界を背に、俺は、買い物袋を提げたまま、もう片方の手をキーボードへ伸ばした。
背後で、綾乃が、息を呑む気配がした。絶望に濡れていたはずのその声が、震えながら、こぼれてくる。
「……世界が終わるこの瞬間でさえ、あなたは、いつもの定時退庁と、何ひとつ変わらない。……ああ、そうか。これが――十年前に世界を救った、本物の英雄の、背中」
知ったことではない。俺は、ただ、定時に帰りたいだけだ。
世界崩壊まで、あと一分二十秒。
定時退庁の刻限、十七時十五分まで、あと一分二十秒。
二つのタイムリミットが、完全に、重なった。
最強の公務員の、地球を救い、そして定時に帰るための、最後の決裁――『ラスト・デリート』の起案が、静かに、始まった。




