過去の残響
カツミさんとの関係はゆっくりと確実に進展していた。初めて二人でお茶をした喫茶店は図書館の喧騒とはかけ離れた静かで落ち着いた場所だった。
彼は私の過去について何も尋ねなかった。私も彼の過去を掘り下げようとはしなかった。私たちはお互いの現在と未来について静かに言葉を交わした。彼の仕事への真摯な態度、趣味の歴史小説への深い知識。彼の存在は私の心に新たな安らぎをもたらした。
復讐を終えてから初めて私は誰かと向き合うことに恐怖よりも期待を感じていた。彼は私を裏切りの世界から引き上げてくれる新しい「光」のように思えた。
ある夜カツミさんと夕食を共にした帰り道彼は言った。
「アイナさんといると心が穏やかになります。私には長く付き合っていた相手がいたのですが最近別れたばかりで。仕事も忙しく心がささくれ立っていたんです」
彼の過去に初めて触れた。彼は私と同じように何かを失い孤独を抱えているのだと感じた。
「私も最近まで色々なことがありました」
私はそれだけを答えた。彼がそれ以上追及しないことを私は知っていた。彼は私の心の壁を尊重してくれた。
「私でよければアイナさんの話し相手になります。無理に話す必要はありません。ただ私が傍にいます」
その言葉はユースケの軽薄な愛情表現とは全く違っていた。それは深く重い信頼の約束のように響いた。私は少しだけ彼に心を預けてもいいかもしれないと思い始めた。
そんな穏やかな日々が続いたある金曜日の夜。私は弁護士から一本の電話を受けた。ユースケの慰謝料の件で連絡を取ることはもうないはずだった。
「アイナさんお久しぶりです。実はユースケさんの件で少し気になる情報がありまして」
弁護士の声はいつになく真剣だった。
「9話で彼がアパートを退去し所在不明となったとお伝えしましたがその後の探偵の調査で彼の居場所の最終的な情報が判明しました」
私の胸が嫌な予感でざわついた。私はもうユースケの人生に関わるつもりはなかった。
「彼がどこにいようと私には関係ありません。もう追及は中止したはずです」
「それはそうなんですが今回の件は法的な追及ではありません。探偵が掴んだ情報によると彼は日雇いの仕事で得た現金を使い果たし数ヶ月前に都心から遠く離れた山間部で行方不明として処理されたようです」
私は息を呑んだ。行方不明。社会から完全に消え去ったということだ。
「彼の持ち物は山中の古びたログハウスで発見されました。そしてその持ち物の中に遺書のような書き付けがあったそうです」
「遺書ですか」
「ええ。そこにはあなたが彼を金銭的に解放してくれたことへの感謝が書かれていました。しかしそれ以上に愛するユリエに「重荷」として切り捨てられ誰からも必要とされていないことへの強い絶望が綴られていたそうです」
弁護士は言葉を選びながら続けた。
「探偵は自殺の可能性が高いと見ています。彼は金銭的な鎖からは解放されましたが精神的な鎖から逃れられなかった。社会的な居場所も愛する女性の温もりも全てを失い自ら人生を終わらせた可能性が高い、と」
私は受話器を握りしめた。ユースケは私が彼に用意した「自由」を結局受け取ることができなかった。彼は生かされていること自体が最大の罰となったのだ。私の復讐は彼の命を奪ったわけではない。しかし彼の生きる意志を完全に奪い去った。
復讐は本当にこれで完了したのか。
ユースケが私への憎しみではなくユリエへの未練と孤独という絶望の中で消え去ったという事実。それは私の心に憎しみとは違う冷たい達成感と微かな空虚感を残した。
電話を切った後私はベランダのミントの鉢の前に立ち尽くした。爽やかな香りが私の内側の冷たい怒りと混ざり合い奇妙な感覚を生み出した。
これでユースケは私の人生から完全に消滅した。過去はもう私を縛らない。私は完全に自由になった。




