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紅い簪  作者: 塩崎栞
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3

「この家には座敷牢があるのですか」


 お前さんが来てから、一週間ほど経った日だった。私は文机にスケッチブックを広げていた。

 朝に降った小雨の影響で、空気が爽やかに冷えていた。お前さんは綿麻の単衣に身を包んでいた。綿麻の軽やかな生地が、陶器のような肌によく似合っていた。

 私はお前さんに体を向けた。


「急になんです?」

「この部屋のちょうど向かい、庭を挟んだところに倉庫みたいな建物があるでしょう」


 あの建物が、その和室からよく見えることを私はそのときになって思い出した。


 私は鉛筆を置き、庭を眺めた。

 庭師が蹲って何かを植えているその先。高い塀に寄り添うようにして、離れ小屋が佇んでいた。


 小屋の周りには、湿った彼岸花が乱れ咲いていた。


「最初の頃は特に気にも留めていなかったのですが、昨日の晩、ふと目が覚めましてね。お手洗いにでも行こうかと廊下に出てみたら、あの建物が鈍く月光に照らされていたんです。世界で自分一人だけが目覚めているのではないかと思うような静かな夜の中で、あの建物が突っ立っているのが何だかひどく異様でしてね。すぐに布団の中へ戻って目を瞑ったんだが、そうすると益々あの建物のことが気になって眠れない。特に、あの二階の窓」

 嵌め殺しでしょう、とお前さんは呟いた。


 私は再び離れ小屋に視線を投じた。

 小屋の壁は薄汚れていて、扉に大きな南京錠がかけられているのが見て取れた。

「何故、あの建物の窓は嵌め殺しなのでしょう。ひょっとすると」

 お前さんが何を言いたいのか、何となく察することができた。


「『孤島の鬼』ですか。それとも『人でなしの恋』ですか」


 お前さんは、私の脇に置かれた本を見て笑った。

「話が早いですね。流石、江戸川乱歩を嗜んでいるだけのことはある」

「畸形児や人形をあの離れ小屋の二階に閉じ込めて隠すなんてこと、今は行われていませんよ」

 私の曖昧な言い方に、お前さんは顔を上げた。

「今は?」

「昔はあったようです。隠し通せたかどうかは知りませんが」


 私は本を手に取り、ページを捲った。これまで数えきれないほどの人の手を渡ってきたのだろう。古本屋で見つけたときから紙は黄ばみ、背表紙は虫に食われて欠けていた。

 探していたページは直ぐに見つかった。ここ数日私を搦めとって離さないその場面は、何度も読み返したせいでページに癖がついてしまっている。


 そこには一つの挿絵があった。繊細な線で描かれたそれは紙の劣化に伴って薄れてしまっているが、私の眼にはどんな写真よりも生々しく映った。


 お前さんの声は穏やかだった。

「隠したというのは……やはり畸形児ですか」

「畸形児だったり犯罪者だったり……でも、私はそれだけではないと思います」

「それだけではない、とは」

 お前さんの問いに何も答えず、手元のページに視線を落とした。


 一人の少年がいた。寒々とした地下室に立ち尽くしている。

 落とされたのだ、ある怪盗の手によって。


 踏みしめるべき床板を失い、背中から落下したその少年は、しかし蹲ることもなく骨が浮き出た背中を伸 ばして静かに立っていた。

 その痩身は、大きな布のほか何も纏ってはいなかった。

 かつて怪盗を欺くために着込んだ衣服は、全て床に捨て置いていた。がりがりに痩せ細ってはいるが、筋が浮き出た腕や尖った肩が、少年が後数年もすれば大人の男になる年齢であることを暗に示していた。

 少年は腕を伸ばしていた。細い首が反り、顎は微かに持ち上がっていた。

 少年は、今この瞬間に己の手から羽ばたいた小鳥を見つめているのだった。少年によってピッポちゃんと名付けられた伝書鳩は、少年が辿りつくことのできない天空に向かって白い羽を広げた。

 天井に近い位置に取り付けられた鉄窓から射しこむ朝陽が、小鳥を見上げる少年の横顔を照らしていた。


 最も精緻に描かれているのは、少年の表情だ。林檎のような頬を赤らめ、くりっとした瞳には希望の光が瞬いている。乾いた唇は微かに開かれ、そこから漏れ出るのはあまりにも清浄な息吹だ。

 主人公のたった一人の助手として活躍する少年が怪盗の罠にはまり、地下室に落とされる場面に添えられたこの挿絵を一目見た瞬間、私は息を止めていた。一筋の希望を小鳥に託し、地の底から青空を見上げる少年は、今まで目にしたどんな宗教画よりも尊いように思われた。私はいつまでもその挿絵を眺めつづけた。シーツの一本一本の皺を数えてもまだ飽き足らず、少年の清廉な横顔に見惚れた。


 私にとって少年の唇は預言者ヨハナーンの唇であり、形にならぬ声はセイレーンの声であり、少年の体内を流れる血はヒュアキントスと同じ血だった。


 しまいに私は戸棚の奥からスケッチブックを取り出し、少年を模写しようとした。

 あまりにも美しいその存在を、己の手の中でも形として残したかったのか。いや、逆だ。


 己ではその美しさを再現できないことを知ることで、それが真に美しいものであることを証明したかったのだ。


 その証拠に、挿絵の少年とは程遠いデッサンを完成させるごとに私は一種の清々しさを覚えた。

 お前さんの部屋でも、私はスケッチブックに少年の出来損ないを描いていた。本を見つめて微動だにしない私を不審に思ったのか、お前さんは足音も立てずに私に近づいた。


「絵を描くのですか」


 顔を上げたときには、スケッチブックはお前さんの手の中にあった。軽くページを捲り、私が一晩中模写したデッサンを眺める。

 かっと頬が熱をもった。

「見ないでください」

 震えた私の声に、お前さんの手が止まる。視線が交わった。お前さんの瞳は雨粒が宿っているかのように潤んでいて、白目の部分が淡い青色に透けていた。

 見惚れる私を他所に、お前さんは「どうして」と不思議そうに呟いた。

 庭師の声がした。お前さんは庭に視線をやった。顎から首にかけてのラインが不思議なほどくっきりと見えた。


 挿絵の少年と、目の前の横顔が重なった。


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