第8話:事案指定 第87号「骨相変異」(其の一)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:第87号「骨相変異」
発生場所:K県M港 水産加工場(ライン第3作業場)
指定区分:第四種保全
初動対応:K県警 M水上警察署 / 救急覚知(即時移管)
午前一時過ぎ、K県M港に面した水産加工場は、
生臭い冷気と選別コンベアのモーター音に包まれていた。
夜勤主任の坂口(五十一歳)は、ゴム前掛けの汚れを長靴で洗い流しながら、
第三ラインの様子を見回っていた。
沖合の定置網から上がった深海性の鮮魚を仕分ける作業だ。底冷えのするフロアで、
十数名の作業員が無言で魚を選別している。
「――主任! ちょっと、これ見てください!」
コンベアの終端で選別を担当していた若い作業員が声を上げた。
坂口が近づくと、作業員はステンレスの作業台の上に一匹の魚を載せていた。
体長四十センチほどの、腹が膨らんだ深海魚だ。
「なんだ、異物か?」
「腹を割いたら、こんなのが出てきて……」
魚の腹腔を覗き込んだ坂口は、眉をひそめた。
内臓の間に、白く硬い塊がびっしりと詰まっていた。
寄生虫の類ではない。光を当てると、それは滑らかなエナメル質のような光沢を放っていた。
――歯だ。
人間の奥歯や切歯に酷似した石灰質の粒が、数十個、
歯茎のような軟組織に噛み合うように密集している。
さらにその奥には、指の関節骨のように細かく節くれだった白い骨片が、
まるで小さな手のように組み合わさっていた。
「……気持ち悪いな。プラスチックか何かの誤飲か?」
「いえ、肉と完全に癒着してるんです。引っ張ったら――」
作業員が、ゴム手袋を外した右手を差し出した。
人差し指の先が、不自然に白く濁っていた。
「さっき素手で触っちゃって。なんか、チクッとしたと思ったら……感覚がないんです」
坂口が息を呑んだ。
指先だけではない。爪の付け根から、皮膚の下に向かって、
白く硬い筋が血管のように浮き上がっていた。
触れると、人間の肉の感触ではない。カチカチとした、陶器や貝殻のような冷たい硬度。
「おい、それ動くか?」
「曲がらないです。というか……中で、骨が、増えてるような……」
作業員が青ざめた顔で指を見つめる。
その皮膚の下で、パキッ、と乾いた小さな音がした。
指の第一関節と第二関節の間に、本来存在しないはずの「第三の節」が、
内側から皮膚を押し上げて隆起していた。
「病院だ。救急車を呼ぶぞ」
坂口は事務所へ走り、固定電話の受話器を掴んで一一九番をダイヤルした。
「火事ですか、救急ですか」
「救急です! M港の水産加工場です! 作業員が魚の内臓に触って、
指の骨が急に変形して……皮膚の下から歯みたいな骨が増殖してきてるんです!」
一瞬の沈黙。
通信指令員の「もう一度お願いします」という声の途中で、受話器から微かな
だが鋭い電子ノイズが走った。
――ツッ……ザザッ。
『――緊急事態識別コードを受信。担当部署へ回線をバイパスします』
指令員の声が途切れ、低く落ち着いた男の声が割り込んできた。
『M地区消防本部、特殊医療事案対応デスクだ。水産加工場、通報者の坂口主任だな』
「は? 誰ですか、救急車は――」
『救急隊の出動準備と並行して直接指示を出している。落ち着いて聞け。
未知の海洋毒素・寄生生体感染の疑いがある。負傷した作業員を水道の蛇口に近づけるな。
魚の体液にも加工場内の海水にも触れさせるな。……真水で洗ったか?』
「え? い、いや、まだ洗ってませんけど……」
『絶対に濡らすな。乾燥した清潔なタオルで患部を包み、室温のまま動かさずに待機させろ。
……最寄り管区の海上保安航空基地から連絡ヘリを出す。
近隣の埠頭緑地に着陸後、待機車両で乗り付ける。最短でも十五分はかかる。
それまで一切現場を触るな』
一方的に電話が切れた。
(※通報から十五分後、工場の裏手にある荷揚げ場の上空でバラバラバラと
低騒音ローターの風切り音が響き、着陸したヘリから降りた調査員が、
現地の待機バンに機材を積み換えて裏口へ滑り込んでくる)
工場の裏口に、見慣れないグレーのワンボックスバンが静かに滑り込んできた。
降りてきたのは二名の男女。警察の制服でも保健所の白衣でもない、
機能的なグレーの作業服を着ていた。
手には分厚いペリカンケースと、複雑なセンサーのついた可搬端末を提げている。
「厚生労働省、健康危機管理対応官だ。消防からの要請で先行着任した。現場はどこだ」
先頭の男――調査官が、黒漆塗りの手帳に菊花紋章と「厚生労働省」の金文字が刻まれた公用身分証を
一瞬だけ提示した
坂口がラインへ案内すると、調査官たちは作業台の魚と座り込んでいる
若い作業員を素早く視界に収めた。
「状態を見せるな、手を広げて固定しろ」
女性の分析官が手早くラテックスの手袋を二重にはめ、
作業員の指先に小型の赤外線スキャナーをかざした。
端末の画面に、指の骨格透視図がリアルタイムで描画される。
「……骨化深度、皮下組織まで約四ミリ。関節軟骨の異常増殖を確認」
女性分析官が、手元の無線で都内K町の作戦室へデータを飛ばす。
「本部、過去ログ照合願います。昭和四十七年、B湾事案の指定第33号『海骨症』と類似。
同系統の石灰質共生体と推定」
無線から、作戦室の評価班の声が返ってきた。
『作戦室、受領。第33号の対処プロトコルを適用せよ。弱酸性エタノールによる患部浸漬、
および五パーセント濃度の塩化カリウム溶液で活動停止を試行』
「了解、第33号プロトコルを実施します」
分析官がケースから薬品ボトルを取り出し、脱脂綿に浸して作業員の指先へ慎重に当てた。
過去の記録に基づく、定石の処置のはずだった。
だが――薬品が触れた瞬間、作業員が短い悲鳴を上げた。
「痛っ……! 熱い、熱いです!」
「動くな!」
「違います、固まってない! 広がってます!」
脱脂綿の隙間から、パキパキパキッと激しい破裂音が連続して響いた。
白く濁っていた指先が、停止するどころか、薬品を吸い込んで急速に太さを増していく。
爪がポロリと剥がれ落ち、その下から、鋭利に尖った三本の小さな「歯」が、
牙のように皮膚を突き破って外側へ萌出した。
「処置を中断!」
調査官が叫び、薬品を遠ざけた。
「……塩化カリウムに反応していません。むしろ酸に対して活性化しています!」
分析官が端末の数値を凝視しながら声を荒らげた。
「カルシウムの代謝速度が落ちない。第33号とは代謝経路が違います!」
『作戦室より現場。波形が一致しない。第33号のデータから乖離している。
……前例の定石が通じないぞ』
無線の向こうで作戦統括官が低く舌打ちするのが聞こえた。
「検体の魚を見ろ」
調査官が作業台の魚へ視線を向けた。
魚の腹から溢れ出た骨の塊が、空気に触れているにもかかわらず、わずかに脈打つように震えている。
「第33号は沿岸性の甲殻類由来だった。だがこいつは深海魚だ。水圧と浸透圧の条件がまるで違う。
……当てずっぽうで薬品を使うな。組織の性質を現場で確かめる」
調査官は落ち着き払った動作でピンセットを手に取り、
魚の腹から米粒ほどの骨の小片を慎重に摘み取った。
携帯用の透明なプレパラートに載せ、分析官へ差し出す。
「試薬テストをやり直す。まずは何が活動を促し、何が止めるのか、この場で切り分けるぞ」
恐怖に震える坂口の前で、彼らは逃げ出すことも慌てることもなく、
未知の異常を前にして、冷静に分析を開始していた。
【事案経過】
指定区分:第四種保全(事象特定作業中)
事象属性:未知石灰質生体増殖 / 骨格転移
現場対応:調査部 第1セル(検証試行中)




