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第9話:事案指定 第87号「骨相変異」(其の二)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:第87号「骨相変異」

指定区分:第四種保全(事象特定作業中)

現場対応:調査部 第1セル(現場検証・試薬テスト試行)

協力機関:K県警 M水上警察署(外周封鎖・待機)


生臭い潮風と、唸りを上げる換気扇の音。

水産加工場の第三作業場は、異様な緊張感に包まれていた。


夜勤主任の坂口は、震える作業員の肩を抱きかかえていた。

作業台の脇のパイプ椅子に座らされた若い作業員――山下は、顔面を蒼白にし、

脂汗を滝のように流している。


「主任……痛い、痛いですよ……手首のあたりまで、骨が引っ張られるみたいで……」


山下の右腕は、すでに人間のそれとは異質のものに変貌しつつあった。

人差し指を突き破った三本の小さな歯のような突起は、さらに硬度を増し、青白い光沢を放っている。

それだけでなく、指の根元から手首にかけて、皮膚の下を無数の白い小骨がミミズのように這い回り、

パキ、パキと不気味な軋み音を立てていた。触れずとも、熱を持った皮膚が脈打っているのがわかる。


「山下、動かすな。深呼吸しろ」


坂口は声を絞り出したが、自分自身、胃の底からせり上がる吐気を抑えきれずにいた。


その数歩先では、二名の調査員が作業場の一角に折りたたみ式のステンレス製作業台を広げ、

ジュラルミンケースから次々と機材を取り出していた。


彼らが並べたのは、市販のポータブル軟X線撮影機、小型の遠心分離器、試験管立て、ピンセット、

メス、そして遮光瓶に詰められた無数の化学試薬。

大学の実験室や法医学教室の解剖台をそのまま現場に持ち込んだような、無機質で実務的な光景だった。


「――分析官、試作機の立ち上げを急げ」


調査官の男が、ゴム手袋をはめた指で指示を飛ばす。


「立ち上げています。……ですが、この環境は酷すぎます」


女性分析官が、頑丈なペリカンケースから取り出した分厚い機器のタッチパネルを睨みつけた。


それは地下ラボから現場テスト用に支給されたばかりの最新機材――

「携帯型ラマン分光分析機(試作2号機)」だった。

アルミ削り出しの無骨な筐体に、市販の光学センサーと未承認の解析基盤を力尽くで

組み込んだキメラのような機材だ。背面の冷却ファンが甲高いノイズを上げている。


ピピッ、と甲高いエラー音が作業場に響いた。


[ERROR 04:光学測定窓 結露・汚染]

ベースライン補正失敗 / レーザー照射を緊急停止


「くそっ、またエラーか!」


分析官が忌々しげに舌打ちした。

「加工場内の湿度と空気中の塩分で、照射レンズが即座に曇ります!

ラボの連中は現場の防塵・防滴性能を何一つ考えていない!」


「愚痴るな。手動で校正しろ。エタノールで拭け」


「やってます! ……キムワイプ取ってください」


分析官は無水エタノールを染み込ませた紙片でレンズを丁寧に拭き取り、

精密ドライバーでセンサーの光軸ネジを力任せに微調整した。

手作業の末、ようやく画面のステータスが緑色に変わる。


「補正完了。……とりあえずレーザーは飛びます。魚の体内から採取した骨片組織、測定します」


調査官がピンセットで慎重にプレパラートをセットし、青白いレーザー光が組織片に照射された。

モニターに、複雑に入り乱れたスペクトル波形がリアルタイムで描画されていく。


「……ハイドロキシアパタイト(リン酸カルシウム)のピークが異常に高い。

組成自体は純粋な生体骨です。ですが――」


分析官が画面を指で叩く。

「タンパク質の結合様式が異常です。未知の石灰化誘導ペプチドが、

周囲の有機物を手当たり次第にカルシウム化合物へと強制重合させている。

……この反応性状、ただの寄生生物じゃない。感染性の『自己増殖型結晶構造』です」


「なぜ魚の体内では爆発的に増殖していなかった?」


調査官が鋭く問う。


「それを今から切り分けます。試験管、六本用意」


分析官は手際よくスポイトを操り、魚の腹から切り取った微小な骨片を、

それぞれ異なる液体が入った試験管へと投入していった。


一本目:水道水(真水)。

二本目:加工場の海水パイプから採取した海水(塩分濃度約3.4%)。

三本目:十パーセント濃度のホルマリン溶液。

四本目:工業用強アルカリ洗浄液。

五本目:魚の胃から採取した消化液。

六本目:無水エタノール。


「観察開始」


二人がストップウォッチを押し、試験管の底を食い入るように見つめる。

坂口もまた、固唾を呑んでその光景を見守った。


――五秒後、異変が起きたのは二本目の試験管だった。


海水に漬けられた骨片が、ボコボコと激しい気泡を噴き出した。

試験管の底で、白い結晶がまるで水中の珊瑚のように猛烈な速度で枝分かれし、

ガラスの内壁を削るような音を立てて増殖していく。

わずか十秒で、試験管の水面まで白い骨の塊がせり上がってきた。


「海水に触れた瞬間、増殖速度が跳ね上がった……!」


分析官が息を呑む。

「ナトリウムイオンとマグネシウムイオンが、触媒として機能しています。

塩分がこの組織の代謝スイッチだ!」


「他の試験管はどうだ」


「ホルマリン、アルカリ、エタノール……すべて無反応。停止していません。

むしろエタノールの中では、先ほど山下さんの指で起きたように、

脱水反応によって結晶化が促進されています」


「五本目、魚の消化液は?」


調査官の言葉に、分析官が目を見張った。


「……増殖していません。完全に沈黙しています」


魚の胃液に浸された骨片だけが、白く濁ることなく、投入された時の形状を保ったまま底に沈んでいた。

増殖もせず、かといって溶解もしていない。完全な休眠状態だった。


「魚の消化管内には、高濃度の特殊な胆汁酸と低pHの環境がある」


調査官が、手帳に殴り書きのようにメモを走らせる。


「こいつは深海魚の腸内という極限環境に適応していた。

胃液の特定の有機酸によって活動を抑え込まれ、魚が死んで海水に晒されたことで、

一気に休眠から覚醒したんだ」


「待ってください、じゃあ……!」


坂口が思わず割って入った。


「山下の指は、どうすれば止まるんですか!? 海水に触れさせなきゃいいのか!?」


「それだけじゃ足りない」


調査官が山下の右腕に目を向けた。

「人間の体内には、血液や組織液という形で約〇・九パーセントの生理食塩水が常に循環している。

……海水ほどではなくとも、人間の肉体に入り込んだ時点で、

すでに増殖の条件を満たしてしまっているんだ」


「そんな……!」


山下が絶望的な悲鳴を上げた。


「主任、俺の手、どうなっちゃうんですか……!」


山下の前腕の皮膚が、メリメリと音を立てて裂け始めた。

血は滲む程度しか出ない。傷口の内側から、何十本もの針のような骨の棘が、皮膚を突き破って外気へと顔を出し始めていた。

体内の組織が、猛烈な速度で石灰質へと変換されていく。


「痛い、熱い! 骨が、骨が動いてるッ!」


「分析官、胃液の成分を急ぎ分析しろ! 何が休眠を維持させていた!」


「無理です、このポータブル分光機じゃ有機酸の精密同定まではできません! データ数が足りない!」


分析官の叫びと、山下の悲鳴が重なり、作業場の空気は極限まで張り詰めた。


その時だった。


ゴボッ、ゴボゴボッ――。


作業場の床、ステンレスの排水溝のグレーチング(鉄格子)の奥から、湿った不気味な水音が響いた。


坂口がハッと視線を落とす。

作業台の下、先ほど作業員たちが魚を捌いた際に洗い流した内臓や残渣が溜まる、床の排水ピット。

そこには、清掃用の海水が常に循環して流れていた。


「……おい」


坂口の喉が、引き攣った音を立てた。


「まさか……さっきの内臓の切れ端、排水溝に流したんじゃないだろうな……?」


排水溝の暗がりから、カチ、カチ、カチ――と、無数の歯が噛み合うような、

おびただしい咀嚼音が這い上がってきた。


調査官の表情が、初めて凍りついた。


「総員、退避! 排水溝から離れろ!」


【事案経過】

指定区分:第四種保全 ──> 第三種遮断(変更手続き開始)

事象属性:接触感染性石灰質増殖実体 / 塩分媒介性活性化

現場状況:初動抑制失敗、排水系統への漏出の疑い

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