第10話:事案指定 第87号「骨相変異」(其の三)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:第87号「骨相変異」
指定区分:第四種保全 ──> 第三種遮断(発令)
現場対応:調査部 第1セル / 工場夜勤責任者
外部支援:K県警 M水上警察署(沿岸港湾部 交通遮断)
グレーチングの隙間から、海水と混ざり合った泡が噴き上がっていた。
カチカチカチカチ――と、硬質磁器を高速で打ち鳴らすような乾いた咀嚼音が、
足元の暗渠から反響する。
溝の中を覗き込むと、清掃用の海水が流れる暗がりの中で、白い塊が猛烈な勢いで膨張していた。
捨てられた魚の残渣の肉を喰い破りながら、人間の指骨と歯が無秩序に絡み合った珊瑚のような
骨格塊が、排水管の内壁を削りながら這い上がってくる。
「主任! 海水の元栓はどこだ!」
調査官が叫びながら、坂口の腕を引いて後退させた。
「あ、あっちです! 奥のボイラー室の隣、ポンプ室に主バルブがあります!」
「分析官、山下を連れて事務所へ退避! 主任、バルブへ案内しろ!」
調査官は背広を脱ぎ捨て、腰のホルスターから官給品の拳銃――ミネベア製ニューナンブではなく、
装甲標的用の大口径自動拳銃を抜いた。だが、銃口を排水溝に向けたまま、引き金には指をかけない。
「撃っても無駄だ。破片が飛び散れば、海水の中でさらに増殖核を増やすだけだ。……元を断つぞ!」
二人は床を蹴り、加工場の通路を全力で走った。
背後で、ガシャンッ! と金属の弾け飛ぶ音がした。
水圧と骨格塊の膨張圧力に耐えかねた鋳鉄製の排水格子が跳ね上がり、
コンクリートの床へ転がったのだ。開いた穴から、湿った白い骨の腕のような突起が、
這い出るように床へ伸びてくる。
ポンプ室へ飛び込むと、坂口は壁面の配管を指差した。
「これです! この赤いハンドルのやつです!」
「回せ!」
二人がかりで真鍮のハンドルに手をかけ、体重をかけて右へ回す。
ギギギ、と錆びたパッキンが軋み、管の中で水流が遮断される
重いウォーターハンマーの振動が伝わった。
「止まったか!?」
「いや、パイプの中に残ってる海水がある!
あと、工場全体の排水ピットがそのまま港の護岸へ直結してるんです!」
坂口が青ざめた顔で叫んだ。
「工場の外にある最終沈殿槽を抜けたら、そのままM港の海に出てしまう!」
「……海水そのものに触れさせたら終わりだ。港湾全体が汚染源になる」
調査官は通信機のスイッチを押し込み、都内K町の作戦室へ怒号に近い声を叩きつけた。
「第1セルより作戦室! 事象は排水系統へ侵入、工場外の最終沈殿槽へ向けて流出中!
事案区分を【第三種遮断】へ即時格上げ願います! 工場の排水溝から港への流出弁を物理的に閉鎖、
水上警察に港湾水域の航行停止を要請してください!」
『――作戦室、受領』
通信の向こうで、デスクのキーボードを激しく叩く音が連続した。
『第三種遮断を発令。M水上署および管区海上保安部へ緊急航行制限を通達中。
……だが第1セル、工場の敷地外へ重機や封鎖部隊が展開するまで、最短でも二十五分を要するぞ』
「二十五分も待てば港の底が骨で埋まる! 現場にある資材でピットを堰き止める!」
通話を切った調査官は、坂口を振り返った。
「主任、工場内にセメントか、生石灰、あるいは大量の酸性薬品はないか!」
「セメントはありません! でも、魚の加工用に使ってる穀物酢の二十リットルポリタンクが
資材置き場に十本以上あります! それと、床の油落としに使う高濃度クエン酸の粉末なら、
ドラム缶で二本――」
「それだ! フォークリフトはあるな!?」
「あります!」
「外の沈殿槽へ全量運べ! 流れる海水にクエン酸をぶち込んでpHを一気に下げる!」
一方、事務所の床にブルーシートを広げた分析官は、苦闘していた。
「山下さん、我慢してください。動いちゃダメです!」
分析官は山下の右腕の付け根――上腕部を、止血帯で力任せに締め上げた。
カチカチとバックルを巻き上げ、腕への血流を物理的に極限まで絞る。
「ぎ、あああああっ……!」
山下が白目を剥いて叫ぶ。
血流を止められたことで、腕の皮膚は赤紫色から土気色へと変色していく。だが、それでも皮膚の下の「骨の蠢き」は止まらなかった。
「血中のナトリウムを遮断しても、細胞間質液の水分を吸って伸びてる……!」
分析官は咬み爪を噛み、作業台の試薬瓶を見回した。
試験管テストの記憶が脳裏を巡る。
エタノールは脱水によって結晶化を早めた。ホルマリンは浸透する前に表面を硬化させてしまい
深部へ届かない。
唯一、活動を停止させていたのは「深海魚の胃液」だった。
「魚の胃液……胆汁酸、ペプシン、そして低pH……」
分析官は携行ケースから、緊急処置用の注射器と生理食塩水のアンプル、
そして有機酸の希釈液を取り出した。
「純粋な酸をそのまま血管に打てば、筋肉も血管も壊死する。……でも、骨化を遅らせるだけなら」
分析官は希釈した医療用酢酸緩衝液をシリンダーに吸い上げ、山下の前腕、変異組織の最前線――皮膚の下で骨の棘が突き出しかけている境界部の皮下へ、直接何箇所も針を刺し、薬液を注入していった。
プスッ、プスッ、と鈍い感触。
皮膚の下はすでに肉の弾力を失い、まるで湿ったチョークに針を突き刺しているような手応えだった。
「う……熱い……何入れたんですか……!?」
「お酢に近い成分です。組織のpHを強制的に酸性に傾けて、
結晶化ペプチドの酵素活性を落としています。……お願い、止まって!」
注入された部位の皮膚が、ジュッと微かな音を立てて白く変色した。
激しい化学刺激に山下の全身が痙攣する。
だが――先ほどまで手首へ向かってミミズのように這い回っていた白い骨の筋が、
ピタリとその場で行き足を止めた。
カチカチという軋み音が、止まる。
「……止まった?」
山下が涙と汗で濡れた顔を上げた。
「完治じゃない、一時的な凍結です」
分析官は荒い息を吐きながら、止血帯の圧力を確認した。
「酸が体液で中和されたら、また動き出す。タイムリミットは長くて三十分。
それまでに、この変異部分をどうにかしないと……あなたの命に関わります」
その時、外からフォークリフトの猛烈なエンジン音と、
ドラム缶がアスファルトに激突する鈍い音が響いてきた。
雨の降り始めた工場の裏手、暗渠が海へ通じる最終沈殿槽。
深さ二メートルほどのコンクリート製ピットの中で、すでに異変は致死的な規模に達していた。
ピットの底に溜まっていた残渣を餌にして、骨格塊は巨大な球体へと成長していた。
無数の人間の腕骨のような節が絡み合い、外壁には数百個もの歯がぎっしりと並び、
海へと続く直径五十センチの排水管へ向かって、ズルズルと這い進んでいる。
排水管の鉄格子はすでに押し破られ、管の奥へ骨の触手が侵入しかけていた。
「主任、ドラム缶を倒せ!」
調査官の合図で、フォークリフトの爪がクエン酸粉末の入ったドラム缶をピットの縁へ押し出した。
ドサッ、と数百キロの白い結晶粉末が、ピットの汚水の中へ一気に崩れ落ちる。
さらに、坂口が駆け寄り、二十リットルの穀物酢ポリタンクのキャップを外して
中身を次々と流し込んだ。
シュワァァァァァッ!
ピット内の海水が一瞬にして激しく泡立ち、強烈な酸の蒸気が立ち込めた。
刺激臭が鼻を突き、坂口が激しく咳き込む。
その薬液が触れた瞬間――這い進んでいた巨大な骨格塊が、ビクンと激しく硬直した。
ピキピキピキッ、と表面のカルシウム層が急激に濁り、運動を停止していく。
歯の開閉音が止まり、触手のように伸びていた骨の束が、
自らの重みに耐えかねたようにガクンと底へ垂れ下がった。
「効いた……! 動きが止まりましたよ!」
坂口が歓声を上げかけた。
だが、調査官の表情は険しいままだった。
男は沈殿槽の縁から身を乗り出し、酸性の泡が立ち込める水面をライトで照らし出していた。
「……表面しか止まっていない」
「え?」
「酸が届いているのは外側だけだ。中心部には海水が閉じ込められている」
調査官の指摘通り、白く硬化した外郭のひび割れから、ゴボリと黒い体液が噴き出した。
内部の組織が、酸に焼かれた外層を突き破るように、再び蠢き始めていた。
しかも、沈殿槽の水位が徐々に上昇している。
雨水が流れ込み、酸の濃度が刻一刻と薄められていく。
「このままじゃ押し流されるぞ……!」
坂口が青ざめた。
その時、工場の外周道路から、鋭いサイレンを鳴らさずに赤色灯だけを激しく明滅させた、
複数の黒い大型車両の車列が迫ってきた。
トラックの荷台には、大量の土木資材と、重機を積んだトレーラー。
車列の先頭から、無線機を持った男が土砂降りの雨の中へ飛び出してきた。
合羽を着た第七準備室の先遣工兵班だった。
「第1セル! 資材の搬入を完了した!」
隊員が沈殿槽へ駆け寄る。
「急速硬化レジンと、港湾用止水エアバッグを持ってきた! どうする!」
調査官は沈殿槽の中で再び脈動を始めた巨大な骨の塊を睨みつけ、即座に決断を下した。
「排水管に止水バッグを突っ込んで海へのルートを完全に塞げ!
その上で、ピット全体に速乾セメントを流し込む!
……水分をすべて奪って、質量ごと石の中に封じるぞ!」
【事案経過】
指定区分:第三種遮断(封鎖作業中)
事象属性:接触感染性石灰質増殖実体
現場状況:局所化学抑制の限界、物理的封じ込め作業へ移行




