↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/37

第11話:事案指定 第87号「骨相変異」(其の四)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:第87号「骨相変異」

指定区分:第三種遮断(封鎖作業継続中)

現場対応:調査部 第1セル / 機動工兵班

偽装名義:厚生労働省 健康危機管理対応官 / 国土交通省 港湾局事故対策班

協力機関:K県警 M水上警察署(臨海遮断線維持)


叩きつけるような雨の中、最終沈殿槽の周囲はエンジン音と排気ガスの臭気に満ちていた。


黄色い雨合羽の上に反射ベストを着た工兵班の男たちが、

四人がかりで太い黒ゴムの塊をピットへ降ろしていく。

下水道管の補修工事で用いられる、高耐圧の管路止水プラグ――「止水エアバッグ」だった。


「押し込め! 海側の排水管へ頭を突っ込め!」


調査官の怒号が響く。


白く濁った汚水の中では、巨大な骨格塊が再び激しい脈動を始めていた。

クエン酸で表面を焼かれた外郭を突き破り、数百の歯が噛み合う突起が、

まるでヤドカリが殻を捨てるように前進してくる。

水面からは、骨と骨が擦れ合う高周波の摩擦音が絶え間なく立ち上っていた。


「入った! コンプレッサー回せ!」


工兵がガイドロッドを排水管の奥へ突き刺し、可搬式エアコンプレッサーのバルブを開く。


ダダダダダッ、と小型ディーゼルエンジンのけたたましい吸気音が唸る。

管内に押し込まれたゴムバッグへ、一気に圧縮空気が送り込まれた。

ボウッと音を立ててゴムが膨張し、直径五十センチの内壁に密着していく。

管口へ伸びていた骨の触手が、膨らむゴムに押し戻され、パキリと音を立ててへし折れた。


「内圧、零点二メガパスカル! 密閉完了!」


「よし、アジテータ車バックさせろ! シュート回せ!」


工兵班の合図で、敷地内に滑り込んできた十トンの生コンクリートミキサー車が、

轟音とともに後退してきた。

後部のドラムが激しく回転し、樋(シュート)が沈殿槽の真上へ伸ばされる。


「流し込むのはただの生コンじゃない」


工兵班の班長が調査官へ叫んだ。


「急結材を最大濃度で混練した超速硬セメントミルクだ! 水和反応で八十度近くまで発熱する。

ピットの中の水分と塩分を、硬化熱ごと全部セメントに取り込ませて固めるぞ!」


「全量ぶち込め!」


ドロドロとした灰色の流体が、土石流のような勢いでピット内へ雪崩れ込んだ。

セメントが酸混じりの汚水に触れた瞬間、ジュウジュウと激しい水蒸気が立ち込める。


ピットの底で、骨格塊が狂乱したように暴れ始めた。

セメントの重みで押し潰されながらも、数千もの歯が灰色に濁る泥の中でカチカチと噛み合い、

灰色の水面を突き破って骨の突起が何本も上空へ突き出される。ミキサー車のシュートの先端にまで、

白い骨の棘が飛び散った。


「バイブレーター突っ込め! 空隙を残すな!」


合羽を着た工兵二名が、

長いフレキシブルシャフトのついたコンクリート振動機を汚泥の中へ押し込んだ。

猛烈な振動がコンクリートを液状化させ、骨格塊のあらゆる隙間、骨と骨の結節部、

歯の噛み合わせの奥深くまで、超速硬セメントの粒子を力尽くで流し込んでいく。


ギュウッ、とセメントが硬化を始める重い軋みがピット全体から伝わってきた。

外気温と雨によって奪われる熱を遥かに上回る、凄まじい化学反応熱。

ピット全体が沸騰したように湯気を噴き上げ、灰色の塊はわずか三分で流動性を失い、

粗い砥石のような硬質物質へと凝固していった。


突き出ていた骨の先端が、セメントの結晶に巻き込まれて動きを止める。

軋む音は消え、雨に洗われるピットの底には、ただの巨大な灰色のコンクリート塊だけが取り残された。


「……沈殿槽、第一フェーズ完了」


調査官は肩で息をしながら、手元の端末でピットの温度と振動数を確認した。


「二層目の打設を続けろ。完全にピットの縁までセメントで埋め戻して蓋をしろ。

排水管側の漏水チェックも怠るな」


「了解!」


調査官は雨合羽を脱ぎ捨て、濡れた髪を拭うこともなく、そのまま加工場の事務所へ向けて駆け出した。


事務所の床は、薬品のツンとした臭気と血の匂いが混ざり合っていた。


蛍光灯の青白い光の下、山下はパイプ椅子に縛り付けられるように座らされていた。

上半身は汗で濡れそぼり、呼吸は浅く速い。


「……調査官」


分析官が、手袋を血で赤く染めたまま顔を上げた。

その足元には、数本の使用済み注射器と、ポータブル軟X線撮影機の感光フィルムが並べられていた。


坂口が、青ざめた顔で壁際に立ち尽くしている。


「どうした」

調査官が山下の右腕へ目を向けた。


山下の前腕部は、もはや人の腕としての原型を保っていなかった。

酢酸緩衝液による局所冷却・酸固定は、限界を迎えていた。

肘の手前まで、皮膚が内側から突き破られ、露出した筋肉と血管の間を縫うように、

白い石灰質の柱が何本も直角に交差し、腕全体が異様な太さに膨れ上がっている。

手首から先は完全に石灰化し、五本の指は硬直して曲がらず、爪の代わりに鋭い歯が何列も並んでいた。


「ポータブルX線で確認しました」


分析官がフィルムをライトボックスに透かして見せた。

「尺骨と橈骨(とうこつ)が、増殖した異常骨格と分子レベルで癒合しています。

骨髄の中まで結晶構造が入り込んでいて、血管の走行が完全に破壊されている」


「血流は」


「止血帯の限界時間を超えています。これ以上縛り続ければ阻血性壊死で全身に毒素が回る。

ですが、止血帯を緩めれば、血液中のナトリウムを吸って一気に上腕、鎖骨、そして頸椎へと骨化が

跳ね上がります」


分析官の声が震えていた。


「……保存的治療の選択肢はありません」


事務所の中に、重い沈黙が落ちた。


「あの……」


山下が、焦点の定まらない瞳を調査官に向けた。

「俺の腕、治らないんですか……? 切るんですか……?

嘘ですよね……魚の骨が刺さっただけじゃないですか……」


坂口がたまらず駆け寄り、調査官の腕にすがりついた。


「頼む! あんた、厚生労働省の偉い人なんだろ!? 国の病院に連れて行けば、

何か特別な薬があるはずだ! あいつはまだ二十二歳なんだぞ! 腕を切り落とすなんて――」


「主任」


調査官の声は、酷く静かだった。

男は黒い手帳を胸ポケットへ戻し、ジュラルミンケースから金属製の大型ツールケースを引き出した。


「大学病院へ搬送している間に、彼の心臓の弁膜が骨に変わる。

肺動脈が塞栓を起こし、苦しみ抜いて死ぬことになる」


調査官はケースを開けた。

中には、滅菌パックされた使い捨ての外科用メス、大型の剪刀(ハサミ)、止血用クランプ、

そして無骨な手動の骨剪刀(こつせんとう)――ギロチン式の医療用骨切り鉗子が収められていた。


「我々に残されているのは、腕を諦めて命を拾うか、腕ごと全身を石にして死なせるかの二つに一つだ」


「そんな……」


坂口はその場にへたり込んだ。


「山下君」


調査官が山下の正面に膝をつき、その濁った目を正面から見据えた。


「痛むな。怖いだろう」


「嫌だ……腕、なくなりたくないです……」


「だが、お前は生きなきゃならない。親がいるだろう。帰る場所があるだろう」


調査官は、山下の健康な左手を強く握りしめた。

「腕は戻らない。だが、お前の命はここで終わらせない。俺たちが必ず、

朝の光の中へ連れて帰る。……耐えてくれ」


山下の目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。

震える唇が、恐怖と絶望の中で、かすかに動いた。


「……し、死にたくない……です……」


「わかった」


調査官が分析官へ視線を走らせた。


「ケタミンおよび局所麻酔薬を上腕神経叢へブロック投与。急速切断の準備をしろ」


「準備、完了しています」


分析官が素早くアンプルを割り、太い注射針を山下の首筋と鎖骨のくぼみへ打ち込んだ。


数秒後、山下の首がガクンと垂れ、全身の緊張が抜けた。意識を落とす手前の、深沈とした麻酔状態。


「主任、山下の頭をしっかり押さえていろ。絶対に腕を見るな」


調査官がメスを取り、刃を消毒用エタノールで拭った。


「健康な皮膚の上腕部、肘から五センチ上を切開する。止血クランプを回せ」


事務所の事務机が、即席の解剖台と化した。

雨が激しく窓を叩く音の中、メスが皮膚を切り裂く湿った音が響いた。


【事案経過】

指定区分:第三種遮断(外科的隔離処置中)

現場状況:沈殿槽の一次封鎖完了、感染個体に対する上腕切断術を実施

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。