第12話:事案指定 第87号「骨相変異」(其の五)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:第87号「骨相変異」
指定区分:第三種遮断 ──> 完全収容(事後処理移行)
現場対応:調査部 第1セル / 機動工兵班
偽装名義:厚生労働省 健康危機管理対応官 / M市消防本部 救急隊
事務所の蛍光灯の下、金属器具がぶつかり合う乾いた音が響いていた。
麻酔が効き、山下の意識は完全に落ちていた。頭部を抱え込む坂口の腕の中で、
青年の首は脱力して横に傾いている。坂口は両目を固く閉じ、奥歯を噛み締めながら、
ただ激しく震えていた。
「バイタル、血圧九十の五十。脈拍百十二、徐々に低下しています」
分析官が血圧計の数値を読み上げながら、止血鉗子を次々と手渡す。
「上腕動脈、結紮完了。皮膚切開線を環状に展開」
調査官の手指は、正確だった。
迷いのないメスの刃先が、変異組織との境界から五センチ上、
まだ赤みを残した健康な筋膜を切り裂いていく。噴き出す鮮血を吸引管で吸い取り、
露出した上腕骨の骨頭直下へ、無骨なステンレス製の骨剪刀が宛がわれた。
大型のペンチに似た、頑丈な梃子の構造を持つ骨切り鉗子。
調査官は両手でグリップを握り込み、全身の体重をかけて一気に締め上げた。
バキンッ――。
太い木の枝をへし折ったような、重く鈍い破断音が室内に響いた。
坂口の肩が、ビクッと大きく跳ねる。
「骨断端、ヤスリ掛け省略。骨蝋で止血密閉」
調査官は手際よく切り口の骨髄に止血用のワックスを塗り込み、
筋膜と皮膚を寄せて太いナイロン糸で荒く縫合していった。
「包帯を硬く巻け。圧迫止血を維持」
切り落とされた前腕部が、ステンレスのトレーの上に残された。
人の腕の形を失い、白い歯と異様な小骨が針山のように突き出たその肉塊は、
体から切り離された後も、切断面の骨髄からわずかに白い泡を吹いていた。
「検体回収」
分析官がトングで腕を掴み、あらかじめ用意されていた厚手の樹脂容器へと沈めた。
容器の中を満たしていた高濃度の酢酸とクエン酸の混合液がジュッと音を立て、
残された変異組織の表面を急速に脱水・硬化させていく。
容器の蓋が回され、さらに鉛の内張りが施された小型の円筒ペール缶へ収められて密閉された。
作業台の上には、血に染まったガーゼとメス、そして右腕の肘から先を失った山下の体だけが残された。
「……終わったぞ、主任」
調査官がゴム手袋を外し、坂口の肩に手を置いた。
坂口はおそるおそる目を開けた。
山下の右腕は、肩口のすぐ下で厚い白包帯に固く巻かれ、点滴のチューブが繋がれていた。
胸は一定のリズムで上下している。生きている。
「山下……」
坂口は床に膝をつき、山下の額に手を当てた。涙が止まらなかった。
「よかった……生きてる……生きてるよ、山下……」
外から、重機のアイドリング音が小さくなり、雨音だけが戻ってきた。
工兵班の班長が事務所のドアを押し開け、濡れた顔を拭いながら入ってきた。
「調査官、最終沈殿槽の第二層打設、完了した。ピットの地上高まで超速硬セメントで完全に充填、
硬化熱はピークを越えて完全に固まった。海側の排水管も止水プラグで完全に縁が切れている。
海への流出はゼロだ」
「ご苦労。加工場内の第一から第三ラインの排水ピットも、
高圧酸洗浄ののち全域にセメントミルクを流し込んで埋め戻せ。一滴の海水も残すな」
「了解」
工兵が敬礼を返し、再び雨の中へと出ていく。
調査官は息を一つ吐き出し、乱れたネクタイを直すと、スーツの内ポケットに手を入れた。
取り出されたのは、
くすんだステンレス製のシリンダー――高圧無針注射器。
手慣れた動作で、薬品棚から取り出した新しいガラスアンプルを装填し、カチリとロックする。
その金属音に、坂口が顔を上げた。
「……あんた、それ……」
「山下君は、命を取り留めた」
調査官は坂口の正面に静かに腰を落とした。
「だが、このままでは生きていけない。怪異の存在を知り、腕を失った恐怖を抱えたまま、
この理不尽な世界の裏側を背負って生きていくことはできないんだ」
「何を言ってるんだ……? 俺たちは、助かったんだろ……?」
「ああ、助かった。だから、日常に戻らなきゃならない」
調査官の声音には、先ほどの冷徹な指示とは違う、疲れ切った人間の声音が混ざっていた。
「山下君は、深夜の選別作業中、魚の搬送用ベルトコンベアの駆動シャフトに右腕の袖を巻き込まれた。機械による複合開放骨折、および広範囲の筋肉挫滅。救急搬送の現場判断として、
現場での緊急切断術が取られた」
「機械事故……?」
坂口が呆然と呟く。
「そんな……あいつは、魚の腹から出てきた骨に……」
「その記憶を残せば、彼は一生、魚を見ることも、海に近づくこともできなくなる。
君も同じだ。この加工場で二度と働けなくなる」
調査官は銀色の金属の筒を握り直した。
「……すまないな。だが、お前が見た真実を残しても、誰も救われないんだ」
「待ってくれ……あいつに、俺は何て言えばいいんだ……!
俺が夜勤の責任者で……あいつの腕を守れなかったのに……!」
「『よく生きて帰ってきた』と、そう言ってやればいい」
調査官の持っている銀色の金属の筒が、坂口の耳の後ろ、頸部の皮膚へ垂直に押し当てられた。
バシュッ――。
圧縮ガスの鋭い破裂音が、事務所の静寂を切り裂いた。
針のないノズルから打ち込まれた高濃度の健忘剤が、皮膚を突き抜けて組織へ浸透する。
「あ……」
坂口の視線が、ふっと揺らいだ。
床の血だまりも、沈殿槽を埋めた灰色のセメントも、恐ろしい骨の軋みも、
すべてが濃い霧の向こうへ急速に押し流されていく。
坂口は山下のパイプ椅子に寄りかかるようにして、ゆっくりと崩れ落ちた。
調査官は坂口を床に横たわらせ、続けて山下の首筋にも新しいアンプルを装填した筒を宛がい、
躊躇なくトリガーを引いた。
バシュッ。
二人の呼吸が、深い昏睡のそれへと同期していく。
「――第1セルより、外周の偽装救急隊」
調査官は耳元のトランシーバーを押した。
「ターゲット二名の処置完了。一般の救急車両二台をサイレン鳴動で進入させろ。
傷病者一名、事故のショックによる失神者一名を搬送。受け入れ先は指定の共済病院へ」
『了解。救急隊、現着します』
遠くから、本物の救急車の甲高いサイレンが、雨の夜空を切り裂いて近づいてきた。
翌朝、七時四十分。
都内K町、旧公団ビル地下2階。第七準備室作戦室。
大型スクリーンには、K県のローカルニュースが流れていた。
『――本日未明、K県M港の水産加工場で、作業員の男性(22)が魚の選別ラインのベルトコンベアに
右腕を巻き込まれる事故がありました。男性は病院へ搬送されましたが、右腕切断の重傷です。
また、現場にいた夜勤責任者の男性(51)もショック状態となり手当を受けています。
警察では安全管理に問題がなかったか――』
オペレーターが、冷徹に事案完了コードを打ち込む。
【事案処理最終記録】
事案指定:第87号「骨相変異」
対処ステータス:完全収容
検体所在:都内K町 地下4階 低位収容セル B4-055へ移送完了(酸性溶液浸漬保管)
カバーストーリー:労働災害(搬送機器巻き込みによる開放骨折・切断)
被害者公的記録:重傷1名(右上腕切断)、急性ストレス反応1名(記憶整合措置完了)
対象施設処置:排水系老朽化に伴う配管埋設コンクリート補修名目の工事完了届受理
情報統制:完了 / 事案終了
画面のステータスが「対応中」から「アーカイブ」へと切り替わり、警告灯の赤い光が静かに落ちる。
調査部のデスクでは、戻ってきたばかりの第1セルの調査官が、泥と雨で汚れた靴のまま、
黄ばんだ紙のファイルに手書きの復命書を綴じ込んでいた。
表紙には、黒いインクでこう記されている。
『指定第87号 骨相変異事案 事後評価書』
その分厚い紙の束を棚へ収めると、調査官は誰とも言葉を交わすことなく、
次のアラートを待つためにパイプ椅子へと深く腰を沈めた。
【用語解説:第七準備室の処置・機材】
◆ 超速硬セメント(急結材混練仕様)
土木工事で緊急止水や路面急速補修に用いられる特殊セメント。
水分に触れた瞬間から急速な水和反応を起こし、数分で高強度の硬化体となる。
水や塩分を栄養・触媒とする生体怪異に対し、周囲の水分を硬化熱とともに強制的に奪い去り、
質量ごと石化封殺する物理手段として現場で転用された。
◆ 管路止水プラグ(止水エアバッグ)
下水道や農業用水路の補修時に水流を一時遮断するための高耐圧ゴムバッグ。
排水パイプの深部へ押し込み、コンプレッサーで膨張させることで、
汚染流体の外部(海洋・河川)への流出を物理的に遮断する。
◆ 事後記憶整合(カバーストーリー付与)
高圧無針注射器による急性健忘処置と並行して行われる情報工作。
被災者の受傷状況や現場の破壊痕跡に最も適合する「日常の事故(労災、交通事故、老朽化崩落等)」を警察・消防・医療機関の公式調書へ落とし込み、当事者および社会の認識を同期させる。




