第7話:事案指定 第86号「残響家族」(其の三)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:第86号「残響家族」
指定区分:第二種排除
展開部隊:調査部 第3セル / 執行班 第3エレメント
夜の団地に、重々しい金属足音が響き渡る。
執行班の隊員たちは、二重の防音イヤーマフと防毒マスクを装着していた。
無線機から流れる骨伝導音声以外、外の音は一切耳に届かない。
彼らは無言で4号棟の階段を一気に駆け上がっていく。
「エレメント・リーダーより各員」
無線から漏れる隊長の声は、機械のように平板だった。
「外音モニターはオフ。作戦室の指示のみに従え。決して廊下の『声』を聞き取るな」
三階の廊下は、すでに視覚的にも狂い始めていた。
壁面のモルタルが急速にひび割れ、鉄製の手すりが数秒で赤茶色の錆に覆われてボロボロと崩れていく。
局所的な時間加速の波紋が、部屋の外へ漏れ出していた。
空気の塊が、耳鳴りのような高周波を立てて震えている。
四階の踊り場で、ドアを開けかけていた老人の部屋の前に、ポイントマンの防護盾が割り込んだ。
「屋内へ戻れ!」
隊員が老人を力任せに部屋の中へ押し戻し、外側から特殊粘着材でドアノブごと扉を密閉する。
「アサルト、301号室の扉を突破。発生源を直接叩く」
「了解」
二名の隊員がバールと油圧ドアオープナーを隙間にねじ込み、
301号室の錆びた鉄扉を力尽くでこじ開けた。
バキンッ! と蝶番が破断し、蹴り破られたドアの奥から、濃密な灰色の気流が噴き出した。
部屋の中央――畳が腐り落ち、剥き出しになった床板の上に、「それ」がいた。
人間ではない。
四十年前の生活用品――壊れた白黒テレビ、破れた日本人形、古い電話機、
そして白骨化した人骨の破片が、黒い繊維状の埃によって複雑に編み合わされた、
巨大な鳥の巣のような球体。
その球体の表面に、無数の「人間の口」が蠢き、同時に言葉を紡ぎ出していた。
『――おかえり、ただいま、おかえり、ごはんよ、おふろよ、あけて、あけて――』
部屋全体の空間が、蜃気楼のように激しく揺らめいている。
近づくだけで、隊員の防護装備の布地が劣化し、白く粉を吹き始めていた。
「大音圧ノイズ、放射!」
台車に載せて廊下から押し込んだ大型のLRAD(長距離音響発生装置)のスイッチが入った。
ゴオオオオオオッ!
空間を揺るがす凄まじい音圧のホワイトノイズが部屋中に叩きつけられた。
怪異の放つ囁き声が、純粋な物理的騒音によって強引に押し潰され、かき消されていく。
球体が激しい音圧に耐えかねたように収縮した。
「間を置くな! 鉛シート広げろ! 換気口と窓を塞げ!」
隊員たちがロール状の重い鉛シートを引き出し、
建具の隙間や換気ダクトにタッカーと強力粘着テープで打ち付けていく。
物理的に隙間をなくし、外気と音の通り道を力尽くで遮断する。
「炭酸ガス、一気に吹け!」
大型消火器数本から高圧の炭酸ガスが一斉に噴射された。
室内の酸素を瞬時に奪い去ると同時に、気化熱で温度を急降下させる。
蠢いていた無数の口が動きを止め、家具と骨の塊は、
ただの古びたゴミと乾燥した骨の山となって床に崩れ落ちた。
「回収ドラム搬入。残骸を一切残すな」
隊員たちがスコップとトングで乾燥した残骸を掻き集め、
鉛の内張りが施された密閉ドラム缶へ放り込んでいく。
重厚な蓋が閉じられ、ボルトで締め上げられた。
突入から、三分四十五秒。
団地を包んでいた不気味な気圧の狂いは消え去り、
そこにはただの、埃にまみれた寂しい廃屋の臭いだけが残されていた。
午前四時。
4号棟の前に停められたバンの車輪の脇で、山根は座り込んでいた。
頭が割れるように痛かった。
恐怖のあまり、意識が朦朧としている。
団地の中庭、バンの陰で過呼吸を起こしている介護ヘルパーの山根。
その首筋に、調査官が無言で銀色の金属シリンダー――高圧無針注射器を
押し当てた。
先端には使い捨ての薬剤アンプルがセットされている。
「……終わったんですか」
山根が掠れた声で尋ねる。
「ああ、終わった。これ以上、被害が広がることはない」
「松永さんは……」
「松永氏は、昨夜、部屋の中で急性心不全を起こして亡くなった」
調査官の声は、淡々としていた。
「発見が遅れたのは、誰にも看取られない孤独死だったからだ。
……部屋の目張りは、認知症の悪化による被害妄想の行動。君は異変に気づいて通報した第一発見者だ」
「そんな……私は見ました。あの部屋の恐ろしい変化を……!」
「……すまないな。だが、お前が見た真実を残しても、誰も救われないんだ」
調査官の持っている銀色の金属の筒が、山根の首筋に冷たく押し当てられた。
バシュッ!
鋭いガス圧が皮膚を叩き、薬液が打ち込まれる。
焼け付くような鈍痛のあと、全身から急速に力が抜けていく。
山根の視界から、夜の団地も、給水塔の不気味な影も、救急車の来ない理不尽な光景も、
すべてが濁った霧の彼方へ消え去っていった。
「全部忘れて、朝になったら松永氏の冥福を祈ってやってくれ」
遠ざかる意識の底で、調査官の声が静かに溶けていった。
「お前たちが守るべき日常の裏側には、これがある。だが、それを背負って生きる必要はない」
翌朝。
都内K町、第七準備室作戦室。
カタカタ、カタカタと、キーボードを叩く音だけが室内に響いている。
モニターには、S県の地方ニュースが短く映し出されていた。
『――昨日夕方、S県K市の公営団地で、一人暮らしの男性(78)が部屋の中で倒れているのを
訪問介護員が発見し、その場で死亡が確認されました。
死因は心不全とみられ、警察では事件性はないものとして――』
オペレーターが、冷徹に事案完了コードを打ち込む。
【事案処理最終記録】
事案指定:第86号「残響家族」
対処ステータス:完全収容
検体所在:都内K町 地下5階 高位収容セル B5-019へ移送完了
カバーストーリー:独居高齢者の孤独死(心不全)および老朽給排水管の破損事故
被害者公的記録:病死1名(記憶整合措置完了)
対象棟処置:給水設備点検を名目とする4号棟の全戸防音配管改修工事を発注
情報統制:完了 / 事案終了
赤い警告表示が消え、室内の光が平穏な白色へと戻る。
オペレーターたちは、全国の警察・消防インフラから休むことなく流れてくる、
次の膨大な通信ログへと視線を戻していった。
【用語解説:第七準備室の資材・機材】
長距離音響発生装置(LRAD)
船舶の海賊対策や暴動鎮圧に用いられる指向性大音響装置。
怪異が発する特定の呪術的音声や共振に対し、
最大音圧のホワイトノイズを叩きつけることで物理的に音波を相殺・圧殺する。
鉛シート遮蔽
放射線医療現場等で用いられる高比重の鉛板シート。
音響・気流・因果の漏出経路となる換気口や窓枠を目張りし、異常空間の物理的密閉を行う。




