↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/35

第5話:事案指定 第86号「残響家族」(其の一)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:第86号「残響家族」

発生場所:S県K市 K公営団地 4号棟

指定区分:第四種保全

初動対応:S県警 K警察署 / 地域包括支援センター


昭和四十年代に造成されたマンモス団地――S県K市の「K団地」は、夕暮れ時になると独特の寂寥感に包まれる。


錆びた巨大な給水塔が、赤黒い夕焼け空を背景に細長い影を落としていた。

かつて子どもたちの声で溢れていた中央公園には人影もなく、コンクリート打ちの五階建て住居棟が、

色褪せた墓標のように整然と並んでいる。


訪問介護ヘルパーの山根(三十四歳)は、電動自転車を止め、4号棟の階段室を見上げた。

週に二回、独居老人の安否確認と生活支援で訪れている団地だ。


「……また、増えてる」


山根は眉をひそめた。

目指す302号室――松永(七十八歳)の部屋のベランダ。

窓ガラスの内側に、新聞紙と段ボールがびっしりとガムテープで貼り付けられていた。

先週までは居間の窓だけだったはずが、今や台所の小窓や換気扇の隙間に至るまで、

外気を完全に拒絶するように目張りされている。


階段を上がり、薄暗い三階の共用廊下へ進む。

302号室のインターホンを押した。


ピンポーン、と古びた電子音が鳴る。

応答はない。だが、ドアの向こうから、ガサゴソと何かが擦れ合うような物音が聞こえた。


「松永さん、山根です。ヘルパーの山根です。いらっしゃいますか?」


ガチャリ、とチェーンがかかったまま、ドアが数センチだけ開いた。

隙間から覗いた松永の顔を見て、山根は息を呑んだ。


わずか数日で、異様なほど痩せこけていた。

頬はこけ、落ち窪んだ眼窩の奥で、瞳だけが濡れたようにギラギラと光っている。


「……山根さんか」


「松永さん、お電話に出られないから心配しましたよ。体調はどうですか?

部屋、ずいぶん目張りをされてますけど……」


「静かに」


松永が人差し指を唇に当て、怯えたように、しかし恍惚とした笑みを浮かべた。


「聞こえるんだよ。夕方になると、あの子たちが帰ってくる足音が」


「あの子たちって……」


松永の家族は、三十年以上前に起きた交通事故で妻と幼い一人娘を亡くしているはずだった。


「ほら、また鳴った」


チリィィィン――。


松永の部屋のインターホンではない。

隣の、十年以上空き室になっているはずの「301号室」のインターホンだった。


電気もガスも止められ、郵便受けにはチラシが詰め込まれ、鉄扉が錆びついている空き室。

そこから、澄んだベルの音が鳴り響いていた。


そして――。


『――ただいま。お父さん、開けて』


ドアの鉄板越しに、確かに聞こえた。

十歳前後の、幼い少女の屈託のない声だった。

続いて、買い物袋を擦り合わせるようなカサカサという音と、若い女性の穏やかな声が重なる。


『お父さん、遅くなってごめんなさい。夕飯の買い物、終わったわよ』


山根の背筋を、冷たい氷柱が突き抜けた。

誰もいないはずの空き室のドアスコープ。そのガラスの内側に、何かが張り付いている。

青白い、人間の顔のような輪郭。それが内側から、じっとこちらを見つめていた。


「帰ってきたんだ……やっと、帰ってきた……」


松永が震える手でドアチェーンを外した。


「松永さん、ダメです! 開けちゃダメ!」


山根が叫んだが、遅かった。

松永は満面の笑みを浮かべ、廊下に向かって大きく両手を広げた。


「おかえり! 待ってたよ、ずっと待ってた――」


松永が『おかえり』と口にした瞬間だった。


ボウッ、と大気が激しく震え、気圧が急激に反転した。

302号室の玄関から、数十年分の埃と、カビと、強烈な腐敗臭を凝縮した熱風が噴き出した。


「あっ……あ……?」


松永の体が、目に見える速度で変色を始めた。

皮膚の水分が一瞬で蒸発し、茶色く縮れていく。

白髪がパラパラと雪のように抜け落ち、爪が伸び、

衣服の布地が数十年の歳月を一秒で経たかのように黄色く変色し、ボロボロに崩れ去っていく。


ギチギチ、パキパキパキ――。


体内の骨が縮み、乾燥し、軋む乾いた音。

松永は笑顔の形に口を開いたまま、わずか五秒の間に肉を失い、

衣服を纏ったままの完全な「乾燥ミイラ」へと変貌した。

そして、カラカラと音を立てて床へ倒れ伏した。


「い、嫌あぁぁぁぁぁっ!」


山根は叫び声を上げ、階段を転がり落ちるように駆け下りた。

背後で、301号室のインターホンが、チリィィィン、チリィィィンと執拗に鳴り続けていた。


団地の中庭へ飛び出し、震える手でスマートフォンを操作して一一〇番を押す。


「警察ですか!? K団地の4号棟です! 人が、人が目の前で干からびて……ミイラになって死にました! 声が……空き室から死んだはずの家族の声が――」


山根の悲鳴のような通報の最中、スマートフォンのスピーカーから、

不快な電子ノイズが割り込んできた。


――キィィィィィン。


『――通信を本部へ直接バイパス。周波数を切り替えます』


短い電子音とともに、通話相手の警察官の声が遮断された。

代わりに、沈着な男の声が受話器から流れてきた。


『S県警本部、通信指令室の特命対応官だ。通報者の山根介護員だな。落ち着いて聞け。

その場を動かず、植え込みの影に身を隠せ。4号棟の換気口や窓から流れてくる音に耳を傾けるな』


「な、なんですか……松永さんが……!」


『特殊化学事案の疑いがあり、本部の専門調査班が現場へ急行している。

……絶対に、団地側からの呼びかけに応答するな』


夕闇が完全に落ちた団地の上空で、給水塔のスピーカーが、

パチパチと不気味なノイズを吐き出し始めていた。


【事案経過】

指定区分:第四種保全 ──> 第三種遮断(手続き移行)

事象属性:音響トリガー型局所時間加速 / 認識誘導

出動:内閣官房 第七準備室 調査部 第3セル

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。