第4話:事案指定 第85号「階層脱落」(後編)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:第85号「階層脱落」
指定区分:第三種遮断 ──> 第二種排除(現場承認完了)
展開部隊:調査部 第2セル / 執行班 第1エレメント
Eビルの正面玄関前には、すでに人払いの規制線が敷かれていた。
警察の黄色いテープではない。「漏電火災・有毒ガス発生の恐れ」と大書された紅白のバリケード。
周囲の街灯は意図的に落とされ、深夜のオフィス街の一角だけが漆黒の闇に沈んでいる。
防災センターのドアが乱暴に開かれた。
腰を抜かしていた佐々木の前に現れたのは、グレーの防護スーツを着た二名の調査員だった。
「佐々木管理員だな。怪我はないか」
「あ、あなたたちは……小野は、まだ下に……!」
主席調査官は、折りたたみテーブルの上に昭和五十四年の青焼き図面を広げ、
市販の超音波探傷器のプローブを壁面に当てていた。
ディスプレイに表示される反射波形の乱れをペン先でなぞる。
「……基礎の打設密度に明らかな異常。昭和五十四年、未完のまま埋め戻された地下支保工が、
建物の鉄筋を引っ張っている」
背後の女性調査官が、本部の作戦室へ淡々とデータを転送する。
「四十年前、このビルの基礎打設中に発生した地下支保工の崩落事故。
作業員四名が生きたままコンクリートに埋没した未公表事案です。
夜間の消費電力が当時の待機電力水準まで低下したことで、
当時の未完の基礎空間が、現世のフロア構造を侵食・置換し始めています」
『――作戦室、了解』
通信機から、作戦統括官の冷徹な声が佐々木の耳にも届いた。
『事象の同化速度が加速している。放置すればビル全体の構造材が変異し、
地上八階部分が地下空洞へ引きずり込まれる。……事案区分を【第二種排除】へ格上げ。
執行班を突入させ、同化部分の切断および建屋を物理固定せよ』
「第二種、受領」
主席調査官が佐々木を抱え起こし、防災センターの外へ押し出した。
「外の偽装救急車へ行け。……これ以上は、常人が耐えられる光景ではない」
入れ替わるように、非常階段から重い金属足音が響いてきた。
非常階段を降りてきた執行班の装備は、まるでトンネルの崩落救助隊だった。
防塵マスクと防爆ゴーグル、手には削岩機と、高圧油圧ホースで繋がれた大型ブレーカー。
「ポイントマン、先行。地下三階の境界へサポートを噛ませろ」
リーダーの短い指示。
隊員たちが存在しないはずの階段へと突入していく。
佐々木は制止を振り切り、震える足で階段の上からその光景を見下ろしてしまった。
地下三階の空洞は、数十分前とは完全に変貌していた。
床一面から無数の鉄筋が蔦のように伸び、壁面からは何十本ものコンクリートの突起が突き出して、
空間全体がまるで巨大な胃袋のようにうねっている。
その中央、基礎柱と同化していた小野は――もはや、人の形を留めていなかった。
首から下は完全に灰色の角柱と化し、胸には無数の鉄骨が複雑に絡み合っている。
頭部だけが生身の皮膚を残していたが、その眼球は白く濁り
口からは絶え間なくセメントの濁水が溢れ出ていた。
『――たい、じゅう……たりない……もっと、鉄を……コンクリートを――』
空間全体がきしみ、天井から大量のコンクリート片が降り注ぐ。
ビルの自重が、異常な階層へと吸い寄せられていく。
小野と同化しかけているコンクリートの柱へ、二名の隊員が油圧ブレーカーのタガネを突き立てた。
ダダダダダダッ!
耳を劈く凄まじい打撃音と、飛び散るコンクリートの破片。
怪異が、小野の声で、引き裂かれるような悲鳴を上げる。
『アガッ……ギ、ギギッ……!』
「サポートジャッキ立てろ! 天井落とすな!」
隊員たちが黄色い鋼製支保工を何本も立て、油圧で天井を突っ張る。
伸びてくる鉄筋を油圧カッターで挟み込み、火花を散らして力尽くで圧断していく。
「エンジンカッター回せ! 柱から切り離せ!」
ダイヤモンド刃が回転し、白煙と強烈な焦げ臭い粉塵が立ち込める中、
柱と同化していた小野の残骸は力尽くで切り落とされ、
鉛の内張りがされたドラム缶状の回収ケースへ放り込まれた。
「やめろ……!」
佐々木は叫んでいた。
「小野だ! あいつは小野なんだぞ! やめてくれ!」
だが、防爆装備の隊員たちは振り返りもしない。
彼らにとって、それは同僚を奪われた人間の悲劇ではなく、
物理法則を乱す「規格外の障害物」を設計値通りに削り落とす作業に過ぎなかった。
同時に、外部の電源車からビル全体へ、高圧の強制電力が逆流送電された。
バチバチと配電盤が火花を吹き、消費電力のメーターが跳ね上がる。
――ガコンッ!
空間が激しく軋み、地下三階の階段が、まるで蜃気楼が消えるように掻き消えた。
足元にあったはずの生乾きのコンクリートは消滅し、
そこにはただの、埃っぽい築四十年の地下二階の壁だけが残されていた。
静寂が戻った。
佐々木は通路にへたり込み、涙と埃で顔を汚しながら、荒い息を吐いていた。
先ほどまでそこにいた小野の痕跡は、何一つ残っていない。
へたり込む佐々木の隣に、調査官が無言で膝をついた。
手には、使い込まれて金属光沢の鈍いジェットインジェクター。
「小野さんは……どこへ行ったんだ……あんな姿にされて、あんまりじゃないか……」
「……小野技術員は、漏電火災の初動消火中に感電死した」
調査官の声は、静かで、冷たかった。
「古い配電盤のショートによる事故だ。警察の事情聴取や遺族への説明でも、君はそう証言する」
「そんな嘘……通るわけが――」
「通すのが、我々の仕事だ」
調査官の持っている銀色の金属の筒が、佐々木の耳の後ろへ直角に押し当てられた。
バシュッ!
乾いた空気の破裂音とともに、激しい鈍痛が走る。
佐々木は自分の荒い呼吸の音すら遠のいていくのを感じながら、コンクリートの床へ倒れ伏した。
翌朝。
都内K町、第七準備室作戦室。
大型ディスプレイに、ローカル局のニュース速報が流れる。
『――本日未明、T都C区の雑居ビル地下で電気設備のショートによる火災が発生し、
点検中だったビル管理会社の男性作業員(24)が感電死しました。
警察と消防では、老朽化した配線から出火したとみて――』
キーボードを叩く音だけが響く中、情報管理班の端末にログが刻まれる。
【事案処理最終記録】
事案指定:第85号「階層脱落」
対処ステータス:完全収容
検体所在:都内K町 地下5階 高位収容セル B5-012へ移送完了
カバーストーリー:電気設備老朽化に伴う感電・火災事故
被害者公的記録:業務上過失・設備事故死1名(記憶整合措置完了)
対象ビル処置:耐震強度不足を理由とする全館立ち入り禁止および解体勧告発行
情報統制:完了 / 事案終了
オペレーターが静かに決定キーを押し、画面は次の未確認波形監視ログへと切り替わった。
【用語解説:第七準備室の装備・資材】
◆ 超音波探傷器
市販の非破壊検査機器。コンクリート内部の空洞、クラック、
異常な密度変化を音波の反射によって測定し、建造物と同化しつつある異常領域の深度を特定する。
◆ 鋼製支保工
トンネル掘削や建設工事現場で用いられる高強度鋼管ジャッキ。
空間の歪みや異常な荷重変異に伴う物理的崩落を力尽くで突っ張り、
作業員の退路と作業空間を確保する。
◆ ダイヤモンドブレード・エンジンカッター
鉄筋コンクリートや鋼材を急速切断する工業用切断機。
異常変異した生体や建材を現場から強制的に切り離すために多用される。




