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第3話:事案指定 第85号「階層脱落」(前編)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:第85号「階層脱落」

発生場所:T都C区 Eビル(地上8階・地下2階)

指定区分:第四種保全

初動対応:東京消防庁 予防部 / T都C区消防署


午前二時十五分。


T都C区、オフィス街の谷間にひっそりと建つ築四十年の雑居ビル「Eビル」の地下防災センターで、

設備管理員の佐々木(六十二歳)は、計器盤の針を指差し確認していた。


「……小野。またB系統の受電盤、針が落ちてるぞ」


パイプ椅子に座る二十代の同僚、小野に声をかける。

定年退職後に再雇用された佐々木と、資格を取ったばかりの若い小野。

深夜のビル管理は、この二人で回すのが常だった。


「おかしいですね。各フロアのテナントは完全に消灯してますし、

サーバー室の負荷も一定のはずですけど」


小野が端末の画面を叩く。


「ビル全体の電力消費量が、二十七キロワットまで下がってます。

……これ、昭和五十年代の夜間待機電力と同じ水準ですよ。

今どきどんなに節電しても、ここまで落ちるわけがない」


「地下の受電設備か? 十年前の改修工事で図面が怪しいところがあるって、前任者が言ってたが」


「ちょっと地下二階の機械室、見てきます。ブレーカーが落ちてたら嫌ですし」


小野が作業用ヘルメットを被り、テスターと懐中電灯を腰に提げて立ち上がった。


「すぐ戻ります」


「気をつけてな。あの地下二階、古いコンクリートの匂いがして気味が悪いんだ」


「大丈夫ですよ。お化けより漏電火災のほうが怖いですから」


小野は軽く笑って、防災センターの鉄扉を開けて出ていった。


――それが、佐々木が見た「まともな小野」の最後の姿だった。


三十分が経過した。


深夜のビルは、エアコンの微かな送風音以外、一切の物音がしない。

戻りが遅い。地下二階の点検など、せいぜい十分で終わる作業だ。


「小野? 聞こえるか」


佐々木は胸ポケットの特定小電力無線を手に取り、送信ボタンを押した。


ザッ……ザザッ……。

酷いノイズの奥から、乾いた、カチカチという規則的な音が漏れ聞こえてきた。


『……ささき、さん……エレベーター、が……』


「小野か? どこにいる。機械室か?」


『ちがう……階段の、先……まだ、下に、つづいて……』


プツン、と通信が途絶した。


佐々木は胸騒ぎを覚え、非常用の大型マグライトを握りしめて防災センターを飛び出した。

薄暗い廊下を小走りで進み、非常階段の重い防火扉を開ける。


非常階段室には、ひんやりとした異様な冷気が立ち込めていた。

湿ったセメントと、石灰が水に溶けたような、生乾きの建材の匂い。


「小野!」


階段の手すりから下を覗き込む。

Eビルのフロア構成は、地上八階、地下二階。

それ以上、下があるはずはなかった。


だが――地下二階の踊り場の奥に、本来なら頑丈なコンクリート壁があるはずの場所に、

真新しい亀裂のような「下り階段」口が開いていた。


ペンキの塗られていない、型枠の木目がそのまま残る、打ち放しの生々しいコンクリート階段。

その壁面には、錆びた鉄筋が肋骨のように等間隔で突き出ていた。


「なんだ、これ……こんな階段、図面にないぞ……」


足が震えた。だが、階段の暗がりから、カチ、カチ、と金属を叩くような音が微かに響いてくる。

小野の靴音だ。

佐々木はマグライトの光を頼りに、その「存在しないはずの地下三階」へと足を下ろした。


階段を十段ほど降りたところで、空間が一気に広がった。

工事が途中で放棄されたかのような、広大な地下空洞。

床には一面に、薄く白濁した水が張っていた。


そして、空洞の中央、剥き出しのコンクリートの太い基礎柱の前に小野が立っていた。


「おい、小野! 何やってるんだ、戻るぞ!」


駆け寄ろうとした佐々木の足が、ピタリと止まった。


小野は、立っているのではなかった。

基礎柱に、めり込んでいた。


「あ……ささ、き……さん……」


小野がゆっくりと顔をこちらに向けた。

その顔面を見て、佐々木は喉の奥で息を呑んだ。


小野の両足は、作業靴ごと床のコンクリートと完全に融合していた。境界線がない。

まるでドロドロのセメントに足を突っ込み、そのまま固まってしまったかのように

皮膚が灰色のモルタルへと変色している。


侵食は、すでに腰まで達していた。

小野の作業着の繊維がコンクリートの粉末へと置換され、皮膚の下で、

何かがパキパキと音を立てて組み換わっている。

骨だ。人間の骨が、体内で直角に曲がり、

柱の内部に埋め込まれた太い鉄筋と網の目のように結合していく。


「ぬ、抜けないんです……足が……冷たくて……すごく、頑丈で……」


小野の声は、もはや人間の肉声ではなかった。

コンクリートブロックを擦り合わせたような、ザラザラとした擦過音が、彼の喉から漏れ出ていた。


「ひ……っ!?」


「僕……このビルの、基礎になるみたいです……ここ、荷重が足りないから……支えなきゃ……」


小野の胸元から、細い鉄筋のような異物が皮膚を破って外へと突き出した。

血は一滴も流れない。傷口からは、サラサラとした灰色のセメント粉が零れ落ちるだけだった。


「うわああああっ!」


佐々木は我を忘れ、存在しない階段を転がるように駆け上がった。

地下二階へ這い上がり、防火扉を叩きつけるように閉める。


防災センターへ転がり込み、震える指で一一九番を押そうとした瞬間――。


卓上の設備監視モニターが一斉に火花を散らした。

室内の蛍光灯が激しく点滅し、壁面の受電警告ランプが、

見たこともない真紅のパターンで明滅を始める。


ジジ……ジジジッ。


防災センターの内線電話が、ベルを鳴らさずに直接スピーカーホンから音を吐き出した。


『――回線を緊急統括デスクへ引き継ぎます』


機械的な電子音ののち、受話器の向こうから、極めて沈着な男の声が割り込んできた。


『Eビル防災センター、佐々木管理員だな』


「だ、誰だ! 警察か!? 小野が……小野がビルの壁に呑まれて――!」


『東京消防庁・警視庁合同の特殊建物災害対策室だ。119番通報の波形異常を検知し、

回線を直接優先ラインへ切り替えた。事態は把握している。

その場を動かず、ビルの主電源盤には一切触れるな』


「な、何を言ってるんだ! 早く人を寄こしてくれ! 救急車を!」


『専門の救助・調査機動班がすでにビル外周へ到着しつつある。外へ出ず、その場で待機しろ』


ガタガタと、防災センターの床が不気味に震え始めた。

壁のコンクリートが、生き物のように微かに脈打っている。


時計の針は、午前二時四十分を指していた。


【事案経過】

指定区分:第四種保全 ──> 第三種遮断(手続き移行)

事象属性:空間歪曲 / 建造物同化現象

出動:内閣官房 第七準備室 調査部 第2セル

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