第32話:事案指定 第91号「影喰い」(其の四)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
事案指定:第91号「影喰い」
事象分類:第一種物理干渉/概念連動変異
発生地域:北部山間部・水無月村(旧家解体現場)
事案状態:完結(事後保全完了・特級事案指定によるログ凍結済)
圧倒的な質量を持つ暴風と轟音が、廃集落の泥濘を無慈悲に叩き据えていた。
明滅する投光器の光の中、漆黒のV-22オスプレイから降り立った者たちは、
泥に塗れて絶叫する重装備の保安執行班たちへ目線を向けることすらしない。
彼らは、能面に麻布の白衣、黒い狩衣という異様な装束のまま、
光と影の交錯する海へと踏み入っていく。その足取りは、
ぬかるんだ悪路であっても上体が一切ブレない、極限まで練り上げられたすり足だった。
「た、助け……!」
四肢を砕かれた保安班の隊員が血を吐きながら、通り過ぎようとする白衣の裾へ手を伸ばした。
だが、その手は空を切った。
狩衣の隊員は、すがりつこうとする味方を跨ぎ越すことすらせず、
ただ泥を踏み締める重い音だけを残して直進する。
彼らの足跡は一直線に、蠢く黒い影の中心へと向かっていた。
濃い血の匂いと、不規則に揺れる巨大な影。
活性化し、飢え狂っていた黒いシミが、這いつくばる保安班の隊員を乗り越え、
歩み寄ってくる『呪禁』の隊員たちへと猛スピードで襲い掛かった。
標的の足元に達した黒いシミが、巨大な顎のように二つに割れ、
先頭の隊員の影を食いちぎろうと隆起する。
その瞬間、先頭の隊員は能面の奥で短く、鋭い呼気を吐き出した。
彼は右足を半円を描くように滑らせて前方へ踏み込み、腰を深く落として全身の重心を大地へ固定する。白衣の下で、太い腕の筋肉が限界まで隆起した。
彼は両手で握り込んだ錫杖を高く振りかぶり、
己の足元へ襲い掛かった巨大な影の中心へ向けて、渾身の力を込めて振り下ろした。
ジャランッ!! と、耳をつんざくような重く冷たい金属音が響く。
鋭く尖った錫杖の石突が、影の眉間を正確に貫き、
下にあるコンクリートの基礎ごと深々と突き刺さった。
「――――ッ、――――――ッ!!」
音にならない絶叫が、空間そのものを震わせた。
錫杖に縫い留められた黒いシミが、狂ったように身をよじり、周囲の小石や泥が不可視の力で弾け飛ぶ。二次元の概念であるはずの影が、錫杖を引き抜こうと
物理的な圧力をかけて隊員の腕を跳ね上げようとする。
「……っ!」
隊員の靴が泥に沈み込み、錫杖を握る両腕の血管がちぎれんばかりに膨れ上がる。
彼は歯を食いしばり、全身の体重を錫杖に乗せて、怪異の暴威を力ずくで押さえ込んだ。
その膠着状態の隙を突き、後続の『呪禁』の隊員たちが素早く散開し、怪異を取り囲んだ。
彼らは懐から分厚い「呪符の束」を取り出す。和紙で作られたその札には、
墨で書かれた梵字の横に、無機質な『管理用バーコード』と赤い『認識タグ』が等間隔で
印字されている。
一人の隊員が、のたうつ影の「腕」に相当する部分へ膝から落ちるようにして飛び込み、
靴の踵で強引に踏み躙って固定した。
影が隊員の足にまとわりつき、狩衣の裾を黒く焦がしていく。隊員は苦痛の呻きを喉の奥で殺し、
空いた手で呪符を握りしめ、影の関節部分へ渾身の力で叩きつけた。
パンッ!!
暗闇に乾いた音が響き、呪符を打たれた箇所からジューッと肉の焦げるような異臭と白煙が上がる。
それを皮切りに、四人の隊員による苛烈な制圧が始まった。怪異が暴れて陣形が崩れかければ、
無言のまま互いの肩を押し合って体勢を立て直し、影が跳ね上がれば全身で覆い被さって押さえ込む。
泥に塗れ、狩衣を破りながら、彼らは息を合わせて次々と呪符を打ち込んでいく。
パンッ。パンッ。パンッ。
数十枚の呪符を打ち終えた時、巨大な影はついに抵抗する力を失い、
輪郭を焼け焦がしただの黒い染みとなって硬直した。
隊員たちは荒い息を吐き出しながら、硬直した影の端を素手で掴み上げた。
ベリベリと、アスファルトから古いタールを引き剥がすような鈍い音を立てて、
影を地面から完全に引き剥がす。
彼らは傍らに置いた管理番号入りの小さな木箱を開け、抵抗を失った影を力任せに丸めて押し込むと、
分厚い蓋を被せ、自らの体重をかけて上から押さえ込んだ。
最後の一人が重い南京錠を掛け、カチャリと錠が落ちる。
周囲の空気が、ふっと弛緩した。
『呪禁』の隊員たちは、泥と汗に塗れた能面を拭うこともせず、ゆっくりと立ち上がった。
彼らは泥の中で痙攣する正規部隊をその場に残したまま、再びV-22の機内へと歩みを向けた。
爆音とともに機体が夜空へ吸い込まれ、完全な静寂が降りてくる。
数分後。
指揮車両の中でブラックアウトしていた無数のモニターが、一斉に再起動した。
分析官が息を呑む音が、狭い車内に響く。現場の惨状を映し出していたカメラ映像は
すべて強制的にシャットダウンされ、メインモニターの中央には、
血のように赤いダイアログボックスだけが静かに点滅していた。
【特級事案指定:本事象ニ関スル一切ノ言及ヲ禁ズ】
それは、最前線で地獄を見た彼らに対する、上位権限からの絶対的な箝口令だった。
「……アルファ班、被害状況を報告します」
分析官が、震える指でキーボードを叩きながら絞り出すように言った。
「アルファ1、アルファ2、心停止。死亡を確認。……アルファ3から6までの四名は、
重傷ならびにバイタル低下状態ですが、生存しています」
調査官は、赤文字の点滅を無表情で見つめ続けていた。
泥の中で引きちぎられ、死んでいったのは、これまでいくつもの現場を共に潜り抜けてきた部下たちだ。だが、彼らを蹂躙した理不尽な呪いの正体も、
それを圧倒的な暴力で縛り上げた『呪禁』という存在の謎も、
この赤い文字列ひとつで完全に蓋をされる。
調査官はゆっくりと深く息を吐き出し、私情を完全に殺した、ひどく乾いた声で指示を出した。
「本庁の『事後保全班』へ、遺体収容と現場工作の要請を出せ。
アルファ1と2の遺体は我々の手で連れて帰る。
……彼らの殉職理由は『他県の山岳地帯における、夜間強行進軍訓練中の滑落事故』とする。
遺族への説明と補償の手配を急げ」
「……了解しました。生存した四名は」
「本庁の地下医療区画へ直行させろ。治療後、
彼らには本事案に関する最高レベルの機密保持誓約書にサインさせる。
拒否した場合は、規定通り記憶阻害処理だ」
調査官の言葉が終わるか終わらないかのうちに、分析官のモニターの端で、
無数のウインドウが勝手に開き始めた。
本庁の『情報統制局』による、遠隔からのシステム介入だった。
暗号化されたプロトコルが凄まじい速度で走り、アルファ班の生体ログや現場のカメラ映像が、
セクター単位で完全に不可逆消去されていく。同時に、別のウインドウでは、
民間人である解体作業員四名の死亡に関する「偽造された死体検案書データ」が自動生成され、
県警本部のサーバーや消防指令センターのデータベースへと、
淀みないデジタルストリームとなって次々と上書きされていった。
血の通った人間の死と怪異の痕跡が、冷暖房の効いた本庁から打ち込まれる無機質なコマンドによって、ただの文字列へと変換されていく。調査官はその光景を黙って見届け、
手元のコンソールのエンターキーを重く押し込んだ。
カチリ、という無機質な電子音とともに赤いダイアログボックスが消滅し、
事案指定 第91号のフォルダが完全にロックされる。
夜が明け、白み始めた空の下。
冷たい朝露に濡れた廃集落の解体現場に、所属不明の数台のバンが音もなく到着した。
降りてきたのは、県警の鑑識係を示す青い防寒着や、
ゼネコンの作業着に身を包んだ数十名の男たち――『事後保全班』だった。
彼らは一切の私語を発することなく、車のトランクからブルーシート、
偽装用の土砂、高圧洗浄機、そして黒い遺体袋を降ろす。
数名がアルファ1と2の遺体を無言で拾い上げ、黒い袋へ収容して専用車両へ運び込む。
残りの者たちは、無残に手足を引き千切られていた四名の解体作業員の遺体を、
意図的に転倒させた重機の下へ物理的に配置し直していった。
砕けた石櫃の破片や、怪異との死闘が残した特異な焦げ跡は、
高圧洗浄機と特殊な薬品によって徹底的に洗い流され、上から新しい土砂が被せられる。
ほんの三十分後。
朝日が差し込む水無月村の現場には、呪いの惨劇など最初から存在しなかったかのような、
完璧に計算された「痛ましい重機事故の現場」だけが完成していた。
泥にまみれた黄色い規制線が風に揺れている。偽装された作業着の男たちは、
足跡一つ残すことなく無言でバンに乗り込み、現場を後にした。
【用語解説:特級事案指定と事後保全プロトコル】
特級事案指定
事象の隠蔽が組織の根幹に関わる場合、上位権限からシステムを通じて発令される絶対的箝口令。
発令と同時に本庁の情報統制局による遠隔介入が強制実行され、
生体ログや現場映像の不可逆消去が行われる。
現場職員に対し「真実を抱えたまま永遠に沈黙すること」を強要する冷酷な防衛プロトコル。
事後保全班
事象の鎮圧後、現場の物理的な隠蔽・偽装工作を専門に担う部隊。
警察の鑑識係やゼネコンの作業員等に偽装して展開し、遺体の再配置や証拠の物理的洗浄を行う。
呪いの凄惨な痕跡を、空間的かつ物理的に
「一般的な土木・機材事故」へと作り変える事後処理を担当する。




