第31話:事案指定 第91号「影喰い」(其の三)
北部山間部、ダム湛水予定地の廃集落。
完全に闇に沈んだ解体現場の四隅で、
夜間大型工事用の『超強力メタルハライド・バルーン投光器』が一斉に起動音を上げた。
キュイィィィン、というジェネレーターの重い唸りが谷底の冷たい空気を震わせた直後、
直視不可能なほどの凄まじい黄白色の閃光が、風船状のバルーンカバーの中で爆発的に膨張した。
数万ルーメンの光束が四方から幾重にも交差・乱反射し、
荒れ果てた廃屋の基礎跡を中心とした半径三十メートルの空間から、
黒い「影」という概念が完全に吹き飛んだ。
手術室の無影灯を、そのまま巨大な屋外空間で再現した完璧な『無影空間』の完成である。
「SOP-4、無影化完了。対象の干渉能力喪失を確認。これより対象の物理的遮蔽(封印)へ移行する」
無線の向こうで、保安執行班長が感情の読めない声で淡々と報告した。
眩い光の海の中、重防護服に身を包んだ六名の隊員たちが、
厚さ五ミリの鉛シートと即硬化樹脂の入った重い加圧タンクを抱え、
砕けた石櫃へと理路整然と前進していく。暗視ゴーグルはすでに跳ね上げられ、
彼らのタクティカルブーツの足元には、一片の影すら存在しなかった。
指揮車両のモニターでその完璧な制圧行軍を見つめていた調査官は、作戦の終了を確信し、
組んでいた腕をゆっくりと解いた。
「――待ってください、調査官。……赤外線センサーの閾値に、異常なノイズが」
隣の席でキーボードを叩いていた分析官が、切羽詰まった声を上げた。
「ノイズだと? 光量は足りているはずだ。マクロな影は完全に消滅している」
「マクロな影は、です。しかし……」
分析官が、汗ばんだ指先でマウスを操作し、モニターの片隅を急拡大する。
事案指定 第91号。その怪異は、単なる光学現象などではない。
明治以前からこの土地の泥にこびりつき、血を啜ってきた『呪い』そのものである。
重機による解体作業で空気中に舞い上がっていた、目に見えないほど微細な土埃。
そして、隊員たちが構えるポリカーボネート製防護盾の表面についた、ほんの僅かな擦り傷。
そうしたものが生み出す、視認すら困難な『ミクロの影』を伝って、絶対的な漆黒のシミがジワジワと、だが確実に結界の内部へと這い進んできていたのだ。
「対象がジェネレーター(電源車)へ接近! 冷却フィンの隙間の、僅かな影に潜り込みました!」
「なんだと!?」
調査官が叫び、身を乗り出したのと同時だった。
四号機の投光器を繋ぐ電源車の内部で、太い物理配線が「見えない何かの顎」によって、
根元から噛み千切られた。
バチバチッ!! と激しい火花が散り、四基あったバルーン投光器のうち二基が、
けたたましい破裂音とともに沈黙する。
完璧だった光の均衡が崩壊した。
現場は、生き残った二基の強烈な光と、ショートして明滅する非常灯が入り混じる、
不規則な「半暗闇」へと叩き落とされた。斜めから容赦なく光を浴びた隊員たちの足元に、
濃く、長く、歪な影が一斉に生み出される。
「ちくしょう、光がッ! 影を踏むな、散開しろ!!」
班長が怒号を飛ばすが、遅かった。
影が生じたその瞬間、空腹に耐えかねていたかのように、飢えた怪異が群がった。
先頭を歩いていた屈強な隊員二名の足元。彼らの長く伸びた影に、
四つん這いになったような巨大な黒いシミが猛スピードで飛びつき、
その『影の腕と脚』に、狂ったように食らいついた。
――メキャァァァァァッ!!
「アッ、ガアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
セラミックプレートと防刃ケブラー繊維で守られた最新鋭の防護服など、
呪いの前では薄紙と同義だった。
隊員二名の生身の四肢が、外傷が一切ないまま、凄惨な音を立ててあり得ない方向へへし折れた。
防護服の内側で太い骨が粉砕され、筋肉と血管が雑巾のようにねじ切れて、急速に壊死していく。
「撃て! 撃てぇッ!」
後続の隊員たちが恐慌状態に陥り、仲間の足元の影に向かってサブマシンガンを掃射する。
だが、マズルフラッシュが闇を照らし、9ミリパラベラム弾が虚しくコンクリートを砕くだけで、
二次元の概念である影には一切干渉しない。
もがく隊員の影の「首」に、さらなる黒いシミが濡れたように這い上がっていく。
「総員、光源を捨てて直ちに後退しろ! 撤退だ!!」
班長が血を吐くような撤退命令を下す。エリートであるはずの保安執行班が、
四肢を砕かれた仲間を引きずりながら、泥と自らの血に塗れて這いつくばって退却していく。
『ピーーーーーーッ……』
その無惨な敗走の光景の中、指揮車両のコンソールに、ひどく無機質な電子音が鳴り響いた。
分析官が蒼白な顔でモニターを振り返る。
「アルファ1、アルファ2……体内の生体監視チップ、反応消失。
心停止しました」
「……くそっ! 直通回線を繋げ!」
調査官が通信機を乱暴に掴み取り、本庁の統括官へ事態の破綻を報告しようと息を吸い込んだ――
その瞬間だった。
ズバババババババババッ!!
突如、上空から猛烈なダウンウォッシュが解体現場の泥濘を叩きつけた。
無線機から漏れる仲間の絶叫すらかき消す、鼓膜を圧迫するような重低音。
調査官が指揮車両の窓から夜空を見上げると、明滅する投光器の光を完全に遮るように、
巨大な黒い影が頭上から覆い被さってきていた。
漆黒に塗られた、所属を示すマーキングの一切ないティルトローター機、V-22オスプレイ。
それが、航空法も管制の許可もすべてを無視し、
まるで最初からこのタイミングを待っていたかのように、
狂気の沙汰としか思えない低空ホバリングで現場の真上に静止したのだ。
巻き上がる暴風が、砕けた石櫃の破片と、血肉の混じった泥を弾丸のように吹き飛ばす。
現場で逃げ惑っていた保安執行班の隊員たちが、
嵐のような風圧に吹き飛ばされまいと地面に這いつくばった直後。
V-22の機体後部、開け放たれたリアハッチから、
闇の底へ身を投じるようにして、数名の『人影』が次々と大地へ飛び降りた。
ドスッ、ドスッ、と泥を蹴る重い着地音。
明滅する半暗闇の中、身を屈めていた正規部隊の隊員たちは、
風の止んだ土埃の向こうに降り立った「それら」の姿を見て、痛みを忘れたように息を呑んだ。
彼らは、最新鋭のタクティカルギアを着ていなかった。
現代の戦場にはあり得ない、麻布のような白衣と、黒い狩衣を身に纏い、
その顔には表情の一切ない『能面』が貼り付けられている。
手には銃器ではなく、古びた呪符の束と、鈍い音を立てる錫杖が握られていた。
指揮車両の中でその信じがたい光景を目の当たりにした直後。
壁面を埋め尽くしていた無数のモニターが、電源を落とされたように一斉にブラックアウトした。
システム障害ではない。第七準備室の調査官が持つ現場の最高権限すら一瞬で上書きする、
未知の上位プロトコルによる強制的なシステム・ハイジャックだった。
暗転した画面の中央に、血のように赤い文字列だけが、音もなく浮かび上がる。
【保安執行班・生体反応消失を規定数確認】
【トリガー条件達成:事象の通常制圧不能と認定】
【最終プロセスへ移行――秘匿セル『呪禁』を展開します】
「……秘匿セル『呪禁』、だと……?」
調査官は通信機を力なく握りしめたまま、信じられないものを見るようにモニターを凝視した。
「そんなセル、本庁のどこにも――」




