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第29話:事案指定 第91号「影喰い」(其の一)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:事案指定 第91号

事案仮称:「影喰い」

事象分類:第一種物理干渉 / 概念連動変異

発生地点:G県山間部 旧・水無月村(ダム湛水予定地) 旧家解体現場

初期観測:所轄地域課および県警リエゾン経由の異常通報


G県の急峻な山々に囲まれた旧・水無月村は、二ヶ月後に迫った多目的ダムの湛水(たんすい)に向け、急ピッチで家屋の解体と山肌の伐採が進められていた。

午後六時。秋の日は釣瓶落としという言葉通り、深い谷底に位置する廃集落には、

すでに肌寒い風とともに重い藍色の闇が降り始めていた。


「おい、こんなモン図面にねえぞ。どうすんだ監督!」


かつてこの村の庄屋だったという、巨大な古民家の跡地。油圧ショベルの排気音が響く中、

土埃に塗れた中年の作業員が、重機のキャタピラの下を指さして声を上げた。


本堂の床下にあたる湿った地中から、異様な石の塊が掘り出されていた。

縦一メートル、横二メートルほどの、長方形に切り出された分厚い石櫃(いしびつ)である。

表面にはびっしりと黒々とした土がこびりついているが、

全体をドス黒く変色した古い注連縄(しめなわ)が幾重にも縛り上げ、蓋の合わせ目には、

青緑色に錆びた銅板が和釘で等間隔に打ち込まれていた。

明らかに「何かを厳重に封じている」不気味な佇まいだった。

周囲の空気だけが、急に数度下がったような錯覚さえ覚える。


「ただの古い井戸の蓋か、便槽の跡だろ。構わん、先週の雨で工期が三日も遅れてんだ。

砕いて産廃に回せ!」


プレハブ小屋から図面を手に出てきた現場監督は、石櫃を一瞥すると、

ヘルメットを浅く被り直しながら苛立たしげに手を振った。


「気味がわりぃな……なんか札みてえなモンも貼ってあるぞ」


油圧ショベルの操縦席に座っていた若いオペレーターは毒づきながらも、

指示通りに操作レバーを引いた。

唸りを上げた重機の巨大な鉄のバケットが、石櫃の蓋に向かって無慈悲に振り下ろされる。


バキンッ、という乾いた破砕音と共に、錆びた銅板の釘が弾け飛び、

古い注連縄が土埃を上げて千切れた。

石の蓋が真っ二つに割れ、中から底知れぬ黒々とした空洞が露わになる。


作業員たちが思わず後ずさったが、そこからは異臭も、有毒なガスも、何かの遺骸も出てこなかった。

ただの空っぽの石の箱だった。


「なんだ、ただのカラじゃねえか。ビビらせやがって。

ほら、完全に暗くなる前にさっさと地均(じなら)しちまえ!」


監督の怒声を受け、作業員たちは現場の四方に立てられた工事用の仮設投光器(ハロゲンランプ)の

電源を次々と入れていった。

カチッ、カチッというリレー音と共に、

数万ルーメンの強力な黄白色の光が廃村の闇を乱暴に切り裂いた。

光の交差により、監督や作業員、そして重機の巨大な『影』が、

荒れたコンクリートの基礎や地面に長く、そして色濃く落とされる。


――異変は、光が点灯した直後に起きた。


油圧ショベルの操縦席でレバーを握っていた若いオペレーターが、

ふと地面に落ちた「自分自身の影」に目をやった時だった。

彼の影の足元、土くれが転がる地面の暗がりから、

得体の知れない『黒いシミ』のようなものが這い出してきたのだ。

それは周囲の夜の闇とは明らかに違う、インクをこぼしたような絶対的な漆黒だった。

シミは地面を滑るように極めて素早く移動し、

光に照らされて地面に伸びたオペレーターの影の「右腕」の部位へ、ピタリと重なった。


「……なんだ、ありゃ……?」


オペレーターが訝しげに眉をひそめた瞬間。

その黒いシミが、影の右腕にガブリと食らいつき、

狂犬のように激しく首を振って『影の腕を千切った』。


――ゴキボォォッ!!!


「ギャアアアアアアアアアアアアアッ!?」


重機の操縦席から、人間のものとは思えない凄まじい絶叫が上がった。

オペレーターの生身の右腕が、外傷など一切ないにもかかわらず、

あり得ない角度へ一瞬にしてねじ曲がったのだ。

いや、折れたのではない。作業着の下で、右腕の筋肉、血管、太い骨のすべてが見えない

巨大な顎(あぎと)で咀嚼されたかのように、内側からグチャグチャに粉砕・壊死していた。


レバーからちぎれ飛ぶように右腕を離し、激痛とショックで白目を剥いたオペレーターは、

操縦席から転げ落ちて硬い地面に叩きつけられた。

そのまま痙攣し、口から大量の泡と吐瀉物を撒き散らす。彼の右腕は、

皮一枚で繋がった中身のない水袋のようにダラリと垂れ下がり、どす黒い内出血が急速に広がっていた。


「おい! どうした!? 怪我か!!」


何が起きたか全く理解できない現場監督と二人の作業員が、慌てて重機の方へ駆け寄る。

だが、彼らは気づいていなかった。

四方から交差する仮設投光器の強烈な光が、彼ら自身の影を幾重にも重ねて、

地面に色濃く落としていることに。


ズル、ズルズル……。

破壊された石櫃の暗い底から、何か重いものを引きずるような不気味な音が鳴った。

無数の『黒いシミ』が、割れた石の隙間から這い出していた。それらは地面の僅かな窪みや、

小石の影を伝って音もなく這い進み、駆け寄ろうとする監督たちの影の「足」や「首」の部位へ、

飢えた猛獣のように群がり始めていた。


「腕が! いきなり腕が腐りやがった!! 救急車だ、早く呼べ!!」


監督はパニックに陥りながら携帯電話を取り出し、震える指で119番をタップした。

無機質なコール音が鳴り響く中、彼の足元のコンクリート上で、

絶対的な漆黒のシミが、彼の影の「左足」に向かって大きく口を開けていた。

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