第28話:事案指定 第90号「夜間病棟の空床」(其の五・終)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:事案指定 第90号
事案仮称:「夜間病棟の空床」
事象分類:第二種認識寄生 / 欠損生体変異
事後処理:本庁調査部 第1セル / 医療監査班
適用手順:プロトコルA-3(目撃者に対する特定記憶の化学的消去および平準化)
物理措置:旧東病棟の解体前倒し(厚労省補助金特例交付)
午前八時。
長かった夜の雨が上がり、K県中新川郡の空が鈍い鉛色に白み始めていた。
中新川総合病院の敷地内では、第七準備室の保安執行部第1班による淡々とした
原状復帰作業が進められていた。
四階の404号室周辺の床に散乱していた黒い汚泥と、炭化した有機物の残骸は、
分厚いゴム手袋をはめた隊員たちの手によって
「第一種医療廃棄物」の黄色い専用コンテナへと無言で回収されていく。
404号室の中心――図面上の「空床」には、
全長一・五メートルの『第一種領域補完杭』が、
床材を砕いて深く突き刺さったままとなっていた。
保安班長はそれを引き抜く指示は出さなかった。
「アンカーは当該建物の完全解体まで抜栓不可。周囲を物理的に封鎖せよ」
指示を受けた隊員が、杭の周囲に即硬化樹脂とモルタルを大量に流し込み、表面を均していく。
ものの数分で、アンカーはコンクリートの隆起した補修跡へと物理的に偽装され、
かつてここに内臓を求める空間の歪みがあった痕跡は完全に封印された。
同時刻。病院の一階に設けられた臨時待合室では、
事後処理フェーズのもう一つの重要なプロセスが進行していた。
パイプ椅子に腰掛けた第一発見者の看護師と、佐竹巡査部長の腕には、
静脈注射の点滴ラインが繋がれていた。
白衣を着た第1セルの医療班員が、「特定感染症の予防措置」という名目で、
生理食塩水に第七準備室専用の化合物を混入させている。
それは過去の事案研究から合成された『特定記憶定着阻害剤』。
極度の恐怖と非現実的な体験によって脳に刻まれたシナプス結合を、
化学的に強制分断するための薬物だった。
薬効が回り、二人の焦点がぼんやりと宙を彷徨い始めた。
その耳元で、調査官がクリップボードを持ち、極めて事務的な、抑揚のない声で反復を始めた。
「佐竹巡査部長。あなたが昨夜遭遇したのは、老朽化した医療用ガス配管の破裂事故です。
高圧のガス漏れによる強烈な破裂音を、怪物の足音と誤認しました」
「……いや……ちがう……腹の裂けた……化け物が……」
佐竹のうわ言のような抵抗を、調査官は冷徹に上書きしていく。
「それは漏出したガスによる急性の一過性幻覚です。室内にいたのは、
不法投棄されたただの医療廃棄物でした。あなたは恐怖とガス中毒でパニックを起こし、
自ら階段を転げ落ちて逃げたのです」
薬剤の継続的な投与と、権威的な音声による催眠的誘導。
数十分後、佐竹と看護師の脳内から「内臓のない肉塊」という特異事象の記憶は完全に削り取られ、
「ガス漏れによる集団パニック」という用意されたカバーストーリーへと平準化された。
二人はストレッチャーに乗せられ、一般の病棟へと引き渡されていった。
数日後。
中新川総合病院の敷地には、重機と足場が組まれ、けたたましい騒音が鳴り響いていた。
本庁(東京都千代田区K町)からの行政的な事後措置は迅速かつ冷酷だった。
内閣官房を通じ、厚労省から「アスベスト飛散の危険性」という名目で特例の国庫補助金が交付され、
来月予定だった旧東病棟の解体工事が大幅に前倒しされたのである。
防音シートに覆われた四階部分から、油圧クラッシャーがコンクリートを粉砕していく。
あのアンカーが刺さったままの404号室ごと、建物を物理的にすり潰し、
事象の存在そのものを世界から完全に抹消するための処置だった。
病院から少し離れた幹線道路の路肩。
黒のセダンの中で、K県警のリエゾンが、解体されていく旧東病棟を遠巻きに見つめていた。
彼にとって、これは日常の風景だった。
特異事象が発火し、第七準備室がそれを制圧し、記憶を消し、建物を潰す。
そうして世界は今日も何事もなかったかのように回っていく。
リエゾンが車のエンジンをかけようとした、その時だった。
助手席に置かれた専用の暗号端末が、低く鋭いビープ音を鳴らした。
画面に点灯したのは、隣接するT県境の山間部における『緊急即報』の傍受データと、
新たな特異事象プロトコル発火を告げる赤い文字列。
リエゾンは無表情のままコーヒーの紙コップを置き、千代田区K町の作戦統括部へ直通回線を繋いだ。
「こちらK県警付リエゾン。……新規事案のコード適合を確認。データ転送を開始する」
終わりのない業務が、再び幕を開けた。




