第26話:事案指定 第90号「夜間病棟の空床」(其の三)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:事案指定 第90号
事案仮称:「夜間病棟の空床」
事象分類:第二種認識寄生 / 欠損生体変異
観測担当:本庁調査部 第1セル 分析班
参考記録:昭和四十八年 公立中新川総合病院 旧東病棟建築確認台帳
午前五時十五分。
旧東病棟の四階フロア。かつてナースステーションだった空間に、
第一種密閉装具を纏った第七準備室の分析官二名が、
折りたたみ式の前線観測用コンソールを展開していた。
無数のケーブルが接続されたモニター群。その前に立つ調査官は、
画面に映し出される暗視映像を無言で見据えていた。
「404号室内部への自律型プローブ、進入完了」
分厚い耐薬品手袋をはめた分析官が、トラックボールを操作しながら抑揚のない声で報告する。
木製の引き戸の隙間から滑り込んだ小型の無限軌道カメラが捉えたのは、
コンクリートが剥き出しになった四人部屋の光景だった。
そこには、窓ガラスに張り付いていたものも含め、十数体もの『肉塊』がひしめき合っていた。
かつて人間だったらしき白蝋色の皮膚。全員がみぞおちから恥骨にかけてパックリと縦に裂け、
本来そこにあるべき胃腸、肝臓、肺などの臓器が一つ残らず消失している。
からっぽの肋骨の檻をペコペコとへこませ、歯のない口から黒い胆汁を吐き出しながら、
彼らは病室の床をズルズルと這いずり回っていた。
『……ちょうだい……』
『……からっぽなの……』
プローブの駆動音に反応し、裂けた腹の中から引き千切られた血管のような赤黒い触手が一斉に伸びた。湿った音を立ててプローブの金属ボディに巻きつく。
しかし、対象が無機物であると判断すると、触手はすぐに興味を失ったように床へ滑り落ちた。
「空間の物理的組成に異常なし。有毒ガス、病原性細菌は検出限界以下です」
分析官が端末のキーを叩きながら、数値を淡々と読み上げる。
「ですが、過去の図面およびベッド管理台帳のデータと照合した結果、
空間の『概念』が極度に歪んでいることが確認されました」
「欠番か」
調査官が短く応じた。
「はい。404、406、408。病院の設計上、忌み数として意図的に空けられた病室。
長年にわたる『人の不在』が、物理的な空間に修復不可能な空白を生み出しています。
……あの部屋は現在、見えない空床を埋めるための『患者(患部)』を強引に要求している状態です。
無機物であるプローブに執着しなかったことから、
トリガーは『生体器官(内臓)』であると推論します」
「実証する。検体を手配しろ」
調査官は手元の暗号通信機を取り上げ、県警本部に詰めているリエゾンへの直通回線を開いた。
「こちら第1セル。事象のルール解明のため、生体接触実験を行う。……K県農林水産部の当直を通じ、
県農業畜産センターから体重六十キロ前後の生きた豚を直ちに一体接収しろ。
名目は『厚生労働省による豚熱(CSF)の緊急疫学調査』。
パトカーの先導をつけ、現場まで陸送させろ」
指示を終えると、調査官は通信機を置き、パイプ椅子に腰を下ろして保温ボトルからコーヒーを注いだ。
数十メートル先の廊下で、顔のない肉塊たちが内臓を求めて蠢く湿音が響き続ける中、
観測所には機器の冷却ファンの音だけが単調に流れ続けた。
午前六時十分。
赤色灯を回す二台のパトカーに先導され、
農業畜産センターの小型トラックが雨の降る病院の裏口へ到着した。
何も知らされずに叩き起こされた県の畜産職員から、
防護服姿の保安執行班が受領書と引き換えに無言で「生きた豚」を引き取る。
四階へ運び込まれた豚は、怯えたように鼻を鳴らし、耐圧アクリルケージの中で足踏みをした。
分析官が遠隔操作でケージのロックを解除する。
豚は開いた扉の隙間から漂う血の匂いに後ずさりしようとしたが、電動のプッシャーに押し出され、
その前足が404号室の『敷居』を跨いだ。
――ブチュンッ!!!
マイクが、水風船が破裂するような生々しい湿音を拾った。
豚の悲鳴は上がらなかった。
敷居を越えた瞬間、豚の分厚い腹部の皮膚が、
見えない刃で切り裂かれたように縦に真っ二つに裂けたのだ。
血飛沫は一滴も上がらない。
豚の体内から、心臓、肺、胃袋、腸、肝臓に至るまでのすべての臓器が、
一瞬にして『空間ごと抉り取られて蒸発』したように消失した。
次の瞬間、綺麗に空洞となった豚の皮と骨組みだけが四つ足で立ち上がり、
空っぽの腹から赤い触手を伸ばして他の肉塊たちに混ざっていった。
「……空間内への臓器の強制転送を確認」
分析官がモニターの録画データを巻き戻し、コマ送りで再生する。
「対象が『健康な内臓を持つ生体』であると認識された瞬間、
空間はそれを欠番を埋めるための部品として抉り取ります。
……防刃服や化学防護服では防げません。服の内側にある空間ごと指定されます」
調査官は手元のバインダーに数値を書き込んだ。
「空間安定杭を打ち込み、樹脂密閉するまでに必要な時間は」
「最短で百二十秒です。しかし、現状のルールでは敷居を跨いだ〇・二秒後に腹を裂かれます」
分析官は画面に、保安執行班の重防護スーツの図面を展開した。
「対象を欺瞞し、時間を稼ぎます。防護服の『外部』に、
隊員と同等の生体臓器を配置するデコイ戦術です。空間の収奪ルールが、
より外側に露出している臓器を優先してターゲットにする性質を利用します」
「……奪われた外部の臓器を事象が処理し、
次に隊員自身の内臓へターゲットが移るまでのタイムラグは」
「計算上、約百四十秒の猶予が生じます」
調査官は頷き、再び暗号通信機を手に取った。
「第1セルよりリエゾンへ。追加の物資を要求する。
中新川郡内の食肉加工センターへ県警を向かわせろ。
名目は『食品衛生法に基づく立ち入り検査の証拠保全』だ。
……出荷前の豚の未処理臓器を六十キログラム分接収し、至急現場へ納品させろ」
午前七時十五分。
警察の保冷車によって搬入された発泡スチロール箱が、一階裏口の機材テントに積み上げられた。
中には、血抜きすら終わっていない生の臓器パックが大量に詰まっている。
調査官は四階の観測所から、一階で待機する実力部隊――保安執行部第1班へ向けてマイクを入れた。
「本庁調査部第1セルより、保安執行部第1班へ通達。事案指定第90号に対するSOP(標準対処手順)を
策定した。コードは『SOP-90-ガンマ』。目標は404号室の空間歪曲核への杭打ちおよび密閉」
スピーカーの向こうから、実働部隊指揮官の平坦な応答が返る。
『保安第1班、受領準備よし』
「全隊員、支給された生体臓器パック各六キログラムを、第一種密閉装具の胸部および腹部に
ダクトテープで強固に固定しろ。目標の敷居を越えた瞬間より、タイムリミットは百四十秒。
一秒の遅滞も許されない」
モニターの中では、無数の肉塊たちが次の内臓を求めて入り口のドアへ群がり始めていた。
「外部臓器が空間転送される際、極度の圧迫感が生じるが、作業の手を止めるな。
……直ちに準備にかかれ」




