第25話:事案指定 第90号「夜間病棟の空床」(其の二)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:事案指定 第90号
事案仮称:「夜間病棟の空床」
事象分類:第二種認識寄生 / 欠損生体変異
事案移管:午前03時28分(警察庁・内閣官房包括協定第4条適用)
行政偽装:厚生労働省 医政局 地域医療計画課 特別医療監査班
現地臨場:本庁調査部 第1セル(午前05時10分到着・現場接収)
現場位置:K県中新川郡 公立中新川総合病院 旧東病棟4階
午前三時二十分。
K県警察本部・七階。
無数のモニターが並び、当直員たちが慌ただしく行き交う通信指令室の最奥
――分厚い防音壁と暗証番号キーで隔てられた『警務部総務課 特命監理分室』の暗がりで、
一台の専用端末が低くビープ音を鳴らした。
机に向かっていた男――県警警務部付の肩書きを持つ外郭連絡員は、
コーヒーの紙コップを置き、無表情のまま画面へ目を落とした。
所轄の中新川署から刑事部捜査第一課、および機動隊本部へ向けて発出された
『緊急即報第12号』の傍受データだった。
【緊急即報第12号】
発信:中新川警察署当直司令
受信:刑事部捜査第一課、通信指令課、機動隊当直
件名:中新川総合病院内における重篤不審事案
概要:旧東病棟四階において、図面外病室(404号室等)の出現を確認。
室内に腹部組織全欠損の生体反応体(複数)を確認。
臨場員(地域課・佐竹巡査部長)が異常な触手による捕食攻撃を受け脱出。
現在、病棟外周を包囲中。機動隊による強行突入支援を具申。
連絡員の指先が、流れるような無駄のない動作でキーボードを叩いた。
「図面外病室」「腹部組織全欠損」「生体反応体」。
三つのキーワードがフィルターに照合され、
画面中央に『特異事象プロトコル適合:優先度A』の赤い文字列が点灯する。
ただちに警察内部のネットワークからこの即報データを凍結・隔離すると、
男は手元の暗号化ルーターを起動した。
接続先は、東京都千代田区K町に存在する暗号サーバーを経由した、
内閣官房・第七準備室作戦統括部への直通回線だった。
「こちらK県警付リエゾン。中新川事案、コード適合を確認。地方警察の処理限界を超過。
事案指定の即時発番を要求する」
数秒のラグの後、スピーカーから千代田区K町の本庁作戦室の無機質な音声が返る。
『本庁作戦統括官。データを受領。事案指定を承認する。本件を【事案指定 第90号】に仮指定。
病院施設内であることを鑑み、管轄省庁の偽装名義を厚生労働省医政局に決定した。
これより国家公安委員会および内閣官房包括協定第4条を発動する』
「了解。所轄の警察行動を即時凍結させる」
通信を切った男は、金庫に保管されていた特殊なUSBキーを端末に挿入し、
『警察庁長官指示通達(親展)』の電文フォーマットを呼び出した。
あらかじめ法的に用意されている「高度感染症および危険医療廃棄物漏出」のシナリオに
チェックを入れ、デジタル公印を付与して、K県警本部長室の当直ホットラインへ直接転送する。
午前三時二十八分。
K県警本部長の私室の直通電話がけたたましく鳴り響いた。
叩き起こされた本部長が受話器を取った瞬間、警察庁次長名義の冷徹な合成音声が、
一切の質疑応答を許さぬ絶対的な口調で通達を下した。
『中新川総合病院の変死事案は、厚生労働省本省が極秘裏に追跡している特定第一種病原体および
重大医療事故の管轄下に置かれた。刑事訴訟法に基づく警察捜査は全面的に停止される。
中新川署長に対し、現場包囲の現状維持、病棟突入の絶対禁止、
および特別監査班に対する全指揮権の引き渡しを即時命じよ』
同時に、千代田区K町からの出動指令は、K県の県庁所在地にある地方合同庁舎地下深く
――厚生労働省の地方局倉庫に偽装された『第七準備室 管区分室(第1セル)』へと発出されていた。
即座にスクランブルがかかり、厚生労働省の公用標識を掲げた二台の黒塗りワゴン車が、
深夜の幹線道路を中新川郡へ向けて滑り出す。
車内には、第1セルの調査官一名、分析官二名。
彼らの手元の暗号端末には、公立中新川総合病院の過去五十年分のカルテ、病床変更履歴、
そして昭和三十一年に取り壊された旧結核療養所の解体図面データが、すでに網羅されていた。
午前四時十五分。
中新川総合病院の敷地内は、十数台のパトカーと消防の特殊災害対応車によって完全に包囲されていた。
ジュラルミンの盾と防刃ベストを装備した機動隊の一個小隊が、
雨に打たれながら旧東病棟の入り口に陣取っているが、誰一人として中へ踏み込もうとはしなかった。
四階の窓ガラスには、幾重にも重なる無数の黒い肉塊が内側からベッタリと張り付いている。
ペコ、ペコと空っぽの胸郭を揺らすたびに、分厚いガラスがビリビリと不気味な微振動を起こし、
換気口からは濃密な血生臭さと線香の燃え殻のような異臭が滝のように溢れ出していた。
プレハブの現地指揮本部前で、中新川署当直の日下警部が県警本部への電話口で怒鳴り声を上げていた。
「ですから本部長! 突入の許可をください! あの中で何が起きているか分かりません!
一般病棟の患者へ被害が拡大する前に機動隊を――」
その時、県警無線のスピーカーがプツリと沈黙した。
受話器の向こうから響いたのは、本部長自身の、極めて低く威圧的な声だった。
『日下。……これより通達する命令は、国家公安委員会および内閣官房との包括協定に基づく
最高機密指示である』
「は……? 本部長?」
『これより中新川署は、本件に関するすべての捜査活動・突入準備を即刻無条件で停止しろ。
現場の指揮権は、現時刻をもって厚生労働省の特別医療監査班へ包括移譲された。
……貴官らは病院外周の交通規制のみを維持し、病棟内部へは一歩たりとも近づくな』
「な……何を言っているんですか! 現場には得体の知れない化け物が――」
『警察庁長官の直筆署名が入った公電が、先ほど当本部に直達した!』
本部長の怒声が受話器を震わせ、日下を沈黙させた。
『お前たちが中に入れば、全員が命を落とすか、あるいは一生娑婆の空気を吸えなくなるぞ!
……間もなく調査班が現場へ到着する。署長以下、全員で出迎え、指示に全面服従しろ!』
電話が一方的に切断された。
日下警部が受話器を握りしめたまま呆然と立ち尽くした、その時だった。
雨煙に煙る病院の正門を、警察の検問を速度も落とさずに通過して入ってくる二台の車があった。
赤色灯もサイレンもない。漆黒のボディには、
警察車両とも自衛隊ともつかない無機質な重厚さが漂っていた。
車寄せに滑り込むように停車し、ドアが開いた。
降りてきたのは、濃紺の作業用トレンチコートを着た男たち。
先頭を歩く四十代半ばの男――調査官。
その背後には、分厚い耐薬品手袋をはめ、
鉛シールドが施された大型のアルミコンテナを抱えた二名の分析官が無言で従っていた。
胸元に提げられたプラスチックケースの身分証には、精緻な公印が冷たい光を放っている。
――『厚生労働省 医政局 地域医療計画課 特別医療監査班』。
調査官は立ち並ぶ警官たちには目もくれず、出迎えた中新川署長と日下警部の前で足を止めた。
無言で差し出されたバインダーには、内閣官房および警察庁連名による、
現場指揮権の包括委譲承諾書がすでに挟み込まれていた。
「中新川署長ですね。厚生労働省特別監査班です」
調査官の声は、冬の氷水のように平坦だった。
「感染症予防法第三十二条、ならびに医療法第六十八条に基づき、
旧東病棟の管理権限を当省が接収します。所轄警察官および機動隊は全員、
敷地外周の規制線まで後退。……本現場に関する無線通話、写真撮影、
および外部への情報伝達を現時刻をもって一切禁止します」
「……あ、あの、中にいるものは……」
傍らに立っていた佐竹巡査部長が、堪らず声を絞り出した。
調査官は初めて視線を佐竹へ向けた。その瞳には、侮蔑も憐憫もなく、
ただ冷徹に事案を切り分ける公務員の無機質な光だけが宿っていた。
「君たちの関与すべき領域ではありません。……署長、署員を下がらせなさい」
署長が無言で深く頭を下げ、日下と佐竹の肩を掴んで後方へ引きずっていった。
警察の黄色い規制線テープが引き千切られ、代わりに『厚生労働省 立入禁止区域』と
黒字で印字された無地のテープが、正面玄関に張り巡らされていく。
外部の人間が完全に排除された車寄せで、調査官は耳元の小型有線マイクを入れた。
「本庁調査部第1セルより、後続の保安執行部第1班。……警察関係者の現場排除を完了した。
これより旧東病棟四階における空間歪曲深度の測定、および変異核の特定に入る。
……第一種密閉装具を着装の上、現場へ急行せよ」
夜明けの薄明かりの中、四階の窓ガラスにへばりつく無数の黒い肉塊が、
雨に濡れたガラスを軋ませながら、内部から病院の壁を溶かそうとするかのように蠢いていた。




