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第24話:事案指定 第90号「夜間病棟の空床」(其の一)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:事案指定 第90号

事案仮称:「夜間病棟の空床(くうしょう)」

事象分類:第二種認識寄生 / 欠損生体変異

初期覚知:午前03時12分(K県警察本部 刑事部緊急即報第12号)

現場位置:K県中新川郡 公立中新川総合病院 旧東病棟4階(解体予定区画)


午前二時四十分。

改修工事に伴い、来月には完全に閉鎖されることになっている公立中新川総合病院の旧東病棟は、

死に絶えたように静まり返っていた。


四階フロアに入院している患者は、転院待ちの高齢者わずか五名。

薄暗いナースステーションの詰所で、当直看護師の長谷川は、

蛍光灯の微かなジーというノイズを聞きながら巡視記録にペンを走らせていた。

同僚は仮眠に入っており、このだだっ広いフロアには彼女一人しかいない。


ツ―――、ツ―――。


張り詰めた静寂を破り、壁面のナースコール受信盤が短く無機質な電子音を鳴らした。

長谷川は顔を上げた。

赤く点滅しているランプの部屋番号を見た瞬間、彼女の背筋に冷たいものが走った。


『404』


そんな部屋番号は、この病棟には存在しない。

日本の病院では「死」を連想させる4号室は最初から欠番にされているのが通例だ。

東病棟も、403号室の隣は405号室になっている。

配線の接触不良だろうか。長谷川は受話器を取り、応答ボタンを押した。


「……はい、ナースステーションです。どうされましたか?」


受話器の向こうから返ってきたのは、人の声ではなかった。

ズチュ、ズチュ……と、濡れた生の肉を素手で握り潰し、引き千切るような、生々しい湿った摩擦音。

そして、胸郭の隙間から直接空気が漏れ出しているような、ヒュー、ヒューという乾いた吸気音だった。


『……ひ……ひぃ……』


老人のようでもあり、子供のようでもある、性別の判別がつかない掠れ声。


「もしもし? どなたですか?」


『……ない……ないの……中が……ぜんぶ……』


ブツリ、と通話が切れた。

受話器を握る長谷川の指先が、じんわりと冷たい汗で湿っていた。

いたずらとは思えない。あの音――濡れた内臓が擦れ合うような生理的な嫌悪感を催す音は、

スピーカー越しでも鳥肌が立つほど鮮明だった。


長谷川は懐中電灯を手に取り、詰所を出た。

消灯されたリノリウムの廊下は、足音だけが不気味に反響する。

薬品のツンとした匂いに混ざって、どこか古い畳や、

線香の燃え殻のような埃っぽい異臭が鼻腔を突いた。


403号室の前を通り過ぎ、405号室へ向かおうとした時だった。

長谷川は足を止めた。


403号室と405号室の間の壁――普段は何もない、防火扉の点検口があるだけの白壁に、

見覚えのないスライド式の木製引き戸が嵌まり込んでいた。

塗装の剥げ落ちた、昭和の隔離病舎を思わせる古びた扉。

建具の隙間には黄色く変色した医療用テープが幾重にも貼られ、その上から黒いフェルトペンの歪んだ筆跡で『404』と殴り書きされていた。


(……こんな部屋、昨日までなかった……)


心臓が早鐘を打つ。

引き返すべきだという本能の警告を無視し、長谷川は震える手でドアのノブに手をかけた。

ガラガラ、と建て付けの悪い重い音が響き、扉が隙間を開ける。


漂い出てきたのは、強烈なホルマリンと、腐った肉の匂いだった。


懐中電灯の光を部屋の中へ向ける。

壁一面が黒ずんだ血のようなシミで覆われ、中央にぽつんと一台の古いパイプベッドが置かれていた。

シーツが不自然に盛り上がっている。

人型だった。


「……あの、患者さんですか……?」


長谷川が声を震わせながら近づく。


シーツの下の何かが、ビクンと跳ねた。

そして、パサリとシーツが滑り落ちた。


そこに横たわっていたものを見た瞬間、長谷川は喉の奥で悲鳴を凍りつかせた。


それは、人間のかたちをしていた。

だが、首から下の皮膚は白蝋のように白く濁り、腹部の中央が――みぞおちから恥骨にかけて、

縦に大きく裂けていた。

メスで切開されたのではない。内側から無理やり手で引き裂かれたように、

皮膚の縁がギザギザにめくれ上がっている。


そして、その裂け目の奥――腹腔の中には、何一つ詰まっていなかった。

胃も、腸も、肝臓も、肺胞すら存在しない。

肋骨の檻の奥は、ただ暗く湿った、空洞の闇だった。


内臓がすべて消失しているにもかかわらず、その『肉塊』は生きていた。

からっぽの胸郭が、ペコ、ペコと不自然なリズムでへこみ、空気を吸い込んでは吐き出している。

首がゆっくりとギシギシ音を立てて回転し、長谷川の方を向いた。

顔の皮膚には目も鼻もなく、ただ中央にぽっかりと開いた歯のない口から、

ドロリとした黒褐色の胆汁のような液体が、際限なく溢れ出ていた。


『……おなかが……からっぽなの……』


先ほどの受話器と同じ声が、病室の空気を震わせた。


『……つめて……ちょうだい……あなたのを……』


裂けた腹腔の暗闇から、湿った肉色の無数の触手――引き千切られた血管のような細い筋が、

生き物のように蠢きながらベッドの脚を伝い、長谷川の足元へ向けて伸びてきた。


「嫌ぁぁぁぁぁぁッ――!!」


長谷川は懐中電灯を投げ捨て、無我夢中で部屋から飛び出した。

背後で、ガラガラと激しい勢いで扉が閉まる音が響く。

廊下を転がるように走り、ナースステーションへ駆け込んだ瞬間――


ジリリリリリリリリリリリッ!!


壁面のナースコール受信盤が、狂ったような大音量で一斉に鳴り響いた。

ランプが一つではない。

存在しない『404』『406』『408』『413』――病棟のすべての欠番ランプが、

血のような赤色で一斉に明滅し始めていた。


午前二時五十五分。

中新川署地域課の佐竹巡査部長と三宅巡査は、110番通報を受けて病院へ到着した。

消灯された四階フロアへ足を踏み入れた二人が最初に見たのは、

ナースステーションの前で白衣を汚してうずくまり、

両手で耳を塞いで胃液を嘔吐している長谷川の姿だった。


「404号室……! 中が全部ないんです……! 私のを、ちょうだいって……!」


狂乱する長谷川を三宅に預け、階下へ降ろさせた後、佐竹は一人で暗い廊下を奥へと進んだ。


本来あるはずのない白壁の前に、古い木製の引き戸が存在していた。

目張りのように貼られたテープと『404』の殴り書き。

隙間から漏れ出す、濃密な死臭。

ズチュ、ズチュという肉を握り潰す音と、異様な呼吸音。


佐竹は警棒を握りしめ、覚悟を決めて引き戸を開け放った。


光を浴びたベッドの上で、腹が縦に裂け、内臓をすべて失った生きた肉塊が、

首を九十度に曲げて佐竹を見据えた。

ドロドロと黒い液を吐き出しながら、空洞の腹から無数の赤い筋を伸ばしてくる。


『……あなたの……ちょうだい……!』


「ひっ……!」


佐竹は拳銃のホルダーに手をかけたが、引き金を引くことすらできなかった。

撃って死ぬ相手ではない。そもそも心臓も肺もないのだ。生物としての理(ことわり)から

完全に外れた存在を前に、ベテラン警察官の理性は吹き飛び、

ただの「餌」としての本能的な恐怖だけが全身を支配した。


佐竹は扉を蹴り閉め、無我夢中で廊下を疾走した。

フロア中の欠番インターホンが狂ったように鳴り響く中、非常階段の鉄扉に体当たりし、

階段を転がるように駆け下りる。

上層階の吹き抜けから、ズルズル、ズルズルと、無数の湿った肉塊が這い下りてくるような摩擦音が、

すぐ頭上まで迫っていた。


一階の正面玄関へ転がり出ると、そこにはすでに赤色灯を回すパトカーと捜査車両が数台到着しており、雨の中、中新川署の当直刑事や日下警部が降りてくるところだった。


「佐竹! 三宅から連絡が入ったぞ、何があった!」


日下警部が駆け寄るが、佐竹はアスファルトに両手をつき、激しく胃液を吐き戻した。


「警部……あそこは……人間じゃない……! 図面にない病室が現れて……

内臓を全部抜かれた生きた肉塊が……!」


「錯乱するな! 何を言っている!」


日下警部は怒鳴りつけたが、旧東病棟の四階を見上げた瞬間、言葉を失った。

消灯された四階の窓ガラスの内側。

緑色の非常灯に照らされ、幾重にも重なる無数の『黒い人影』が、ペタリ、

ペタリと窓ガラスに張り付いていたのだ。

その胸郭は異様に薄く、腹部がぽっかりと空洞になっているのが、下からでもはっきりと見て取れた。

風もないのに、ガラスがビリビリと内側から振動する音が響いてくる。


「……鑑識、規制線を張れ」


日下警部の声が恐怖で引きつった。


「旧病棟の出入口をすべて封鎖しろ! 署員は中へ入るな! ……県警本部の通信指令室へ緊急即報を打て! 『旧東病棟四階において未確認の生体変異を伴う重篤な事案発生、

機動隊および刑事部特殊班の出動を要請』だ!」


午前三時十二分。

所轄署の手によって病院の外周は完全に封鎖され、事態は地方警察の手には負えない領域へ向けて、

深夜の行政ネットワークを駆け上り始めていた。


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