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第23話:事案指定 第89号「呼吸停止域」(其の四)

【内閣官房 第七準備室 決裁公電抜粋】

発信:現地第3セル調査官

受信:本庁作戦統括官

件名:事案指定 第89号 収拾措置および事後偽装完了の件

適用法令:労働安全衛生法、道路法、災害対策基本法

事後措置:第三種埋没処置、および関係機関職員に対する第二種忘却処置の執行

公的記録:中部地方整備局・長野労働局による通常労災事故調書へ完全置換


午前五時十分。

東の空が白み始めた頃、木曽の山道を大型ミキサー車四台が唸りを上げて登ってきた。

車体には地元生コンクリート会社のロゴが描かれていたが、運転席に座る男たちはいずれも無言で、

国土交通省の腕章を巻いた誘導員の合図に従い、迷いなく坑口の奥へと大型ノズルを差し入れていった。


第二次閉塞作業――切羽先端部の完全埋没。

一次遮断として樹脂で塞がれた断層の亀裂に対し、

さらに手前三十メートルにわたって早強ポルトランドセメントを数十トン圧送し、

トンネルの先端ごと巨大な人工の岩塊へと変える作業だ。

これで、あの亀裂が外気に触れることは二度とない。


坑口脇に設営された仮設テントの中では、調査官が折りたたみ机の上に二通のバインダーを並べていた。

そこへ、外で待機を命じられていた木曽署の大滝警部が、雨に濡れたコートのまま入ってきた。

眼下には濃い隈が浮かび、目は充血している。


「作業は終わったのか」


大滝の掠れた問いに、調査官は視線すら上げずに手元の書類を指し示した。


「これが、本件の最終調査報告書および死体検案書の控えだ。署長印を受領の上、

検察庁および県警本部へ送致しなさい」


大滝は差し出された書類を手に取り、めくった。

死亡した作業員二名の氏名、生年月日。そして死因欄の記述に、大滝の視線が釘付けになった。


『急性低酸素脳症および高圧炭酸ガスによる窒息死』


「……窒息死だと?」


大滝の声が震えた。


「ふざけるな。坑内の酸素濃度は正常だった! あいつらの肺はガラスのように凍りつき、

口から白い粉を吐き出していたんだぞ! 鑑識が撮った現場写真はどこへ行った!」


「現場写真はすべて回収した。警察庁経由で君たちのサーバー内の元データも物理消去されている」


調査官の声は、冬の朝の空気のように乾ききっていた。


「当直医の所見も『初期の目視確認における誤認』として修正された。

地層深部から噴出した高圧の未確認不活性ガスが、閉鎖空間で局所的な断熱膨張を起こし、

作業員の気道粘膜を急激に刺激したことによる窒息……それが公的機関が下した唯一の結論だ」


「隠蔽か」


大滝は書類を机に叩きつけた。


「二人の人間が死んだんだ! 原因もわからない理外の化け物じみた現象を、

ガスのせいにして片付けるのが、あんたたち本省のやり方なのか!」


調査官はようやく顔を上げ、大滝を真っ向から見据えた。

その瞳には、怒りも動揺も、大滝を嘲笑する色すら一片もなかった。ただ、冷え切った規程の文言を淡々と執行するだけの眼差しだった。


「では問うが、大滝警部。君の言う通り『原因不明の現象で肺が常温凍結した』と調書に書いて

検察に送るかね?」


「…………」


「地元の新聞社に『このトンネルには吸い込んだ者の息を止める何かがいる』と発表するのか?

遺族には『現代科学では説明のつかない祟りで息子さんは死にました』と説明するのかね?」


「だからといって、嘘で塗り固めていいはずが――」


大滝が語気を強めた、その瞬間だった。


テントの入り口から無音で歩み寄ってきた、作業用ジャンパー姿の男――外郭連絡員が、

大滝の背後へ滑り込んだ。

男の右手に握られていたのは、銃でも警棒でもない。

手のひらに収まるサイズの、銀色の金属筒――高圧無針注射器だった。


シュッ、と圧縮空気の抜ける鋭い破裂音が響いた。


「がっ……!?」


大滝の首筋に冷たい衝撃が走り、微粒子の薬液が皮膚を貫通して頸動脈へと直接噴射された。

大滝は首筋を押さえ、目を見開いてよろめいた。

視界が急速に白く明滅し、立っている感覚が足元から抜け落ちていく。


「な……にを……」


「第二種忘却処置だ」


調査官は椅子から立ち上がることすらなく、手元のバインダーに淡々と目を落としたまま告げた。


「君の正義感は警察官として極めて正しい。だが、第七準備室の管轄事案において、

真実の記憶を抱えたままの外部公務員を野放しにする前例は存在しない」


ドサリと、大滝の膝が泥の浮いたブルーシートへ崩れ落ちた。

焦点の合わなくなった瞳から急速に光が失われ、その場へうつ伏せに倒れ込む。

連絡員の男が無言で大滝の襟首を掴み、パイプ椅子へと深く座り直させた。


「所轄署の臨場要員、鑑識係、および救急隊員、計七名」


連絡員が淡々と進行状況を具申した。


「全員に対し、健康診断の名目で処置を完了しました。

車載カメラおよび携帯端末のデータ消去も完了しています」


「施工業者側は」


「現場監督および下請け代表に対し、示談金の提示と合わせて軽微な鎮静処置を執行済みです。

『坑内のガス突出で作業員を死なせてしまった』という筋書きで証言は完全に固定されています」


「結構だ。所轄の鑑識調書を差し替え、本省の労基署へ正本を回付しろ」


午前六時。

雨は小降りになり、谷底を覆っていた深い朝霧が風に流され始めた。


下請け建設会社のプレハブ詰所では、外郭連絡員が手配した事務官が、

意識の曖昧な現場監督の前に公的な労災申請書を広げ、淡々と指印を押させていた。

手厚い遺族補償と見舞金。その手続きの末尾に添えられた守秘義務条項によって、

民間の口は法的に完全に塞がれる。


同時に、国土交通省の中部地方整備局からは、

あらかじめ法務監理官によって起草されていた定例の記者発表資料が一斉送信された。


『一般国道改築事業における導水路付替トンネル坑内において、

想定を超える大規模破砕帯および局所的被圧ガス層に遭遇。作業員二名が酸欠により死亡。

これを受け、当該ルートの掘削を中止し、安全確保のため坑道を急速充填閉塞。

今後は別ルートへの線形変更を検討する』


すべては、何事もなかったかのように行政機構の歯車の中へ呑み込まれていく。

地方紙の片隅に「工事事故で二名死亡」という数行のベタ記事が載るだけで、

明日には誰もが忘れていく、ありふれた労働災害の記録。


現場の撤収は極めて迅速だった。

計測機材を収容した二台の黒塗りワゴン車に、

完全密閉装具を解いた保安執行班が無言で乗り込んでいく。

誰一人として言葉を交わさず、感情を表に出すこともない。


調査官は助手席に乗り込むと、暗号端末を開き、内閣官房本庁作戦室への最終完了電文を送信した。


【電文:本庁作戦統括官宛て】

発信:第3セル調査官

件名:事案指定 第89号「呼吸停止域」収拾完了報告

・切羽先端部の物理遮断およびコンクリート永久埋没処置を完了。

・外部環境への漏出、二次的侵食の兆候なし。

・関係公務員・民間関係者に対する記憶平準化措置、調書置換、および報道管制完了。

・本事案を閉塞指定とし、通常監視体制へ移行する。


送信の完了とともに、画面上の文字列は自動消去され、漆黒の待機画面へと戻った。


ワゴン車が滑るように走り出した。

バックミラーの向こうで、坑口は分厚いコンクリートの壁によって完全に閉ざされ、

重機がその前に無残な土砂を積み上げているのが見えた。

テントの前では、意識を取り戻した大滝警部が、

ぼんやりとした表情で手元の「ガス事故調書」を見つめ、

何事もなかったかのようにパトカーへと戻っていく姿が小さく遠ざかる。


山の向こうから、冷たい朝の光が差し込んでいた。

国道を、通勤の軽自動車やトラックが何食わぬ顔で走り抜けていく。

自らが吸い込んでいるその空気が、ほんの数時間前、

地下の闇の中で誰かの肺を砕いた理外の深淵と紙一重の境界にあったことなど、

知る者は誰もいなかった。

【用語解説:第三種埋没処置と制度的帳尻】


第三種埋没処置

局所的な変異区画や特異現象の発生源を、工学的手法(高圧樹脂・早強コンクリート等の圧入)を

用いて永久的に物理遮断・地中埋没させる収拾手順。現象の完全消滅が不可能な場合、

空間そのものを外界から不可逆的に切り離すことで、被害の封じ込めを達成する。


線形変更(カバーストーリー)

インフラ工事現場で特異事案が発生し、区画を永久閉塞した際に用いられる代表的な偽装手法。

地形・地質上の不可抗力(断層破砕帯、地下水脈、有毒ガス層の発見など)を理由として

工事計画の変更を公表し、放棄された坑道や区画の存在を公的図面から合法的に抹消する。

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