第22話:事案指定 第89号「呼吸停止域」(其の三)
【内閣官房 第七準備室 執行記録抜粋】
指定番号:事案指定 第89号
作戦呼称:SOP-89-アルファ執行要領
執行部隊:保安執行部 第2班(4名編成 / 呼称:執行01〜04)
突入装備:完全閉鎖循環式無排気呼吸装具(CCR-Type7)、全密閉型耐圧防護服
主幹任務:切羽先端部 断層開口面に対する急結性無機高分子樹脂の圧入および物理遮断
午前四時十二分。
坑口を覆う黒い遮蔽幕が左右に開かれ、四つの人影が暗黒のトンネル内へと足を踏み入れた。
保安執行部第2班。
着用しているのは、通常の化学防護服ではない。潜水探査および高圧環境作業用に設計された、
完全密閉型の特殊作業装具だ。
背中には大型の二酸化炭素ケミカルキャニスターと純酸素ボンベが密着し、
呼気は一切車外・坑内へ漏れ出さない。
吐き出された二酸化炭素はソーダライム吸着剤で化学的に中和され、酸素だけが閉鎖回路内を循環する。
彼らの呼気が外部大気と接触する確率は、理論上ゼロだった。
隊員たちの胸元には小型の小型パルスオキシメーターが装着され、
有線中継ケーブルを通じて後方の移動観測車へバイタルサインがリアルタイムで伝送されている。
『執行01より移動観測車。坑口より深度百五十メートルを通過。全系、気密維持』
インカムから流れる班長・執行01の声は、合成音声のように平坦だった。
「観測車、了解」
車内のマイクを握る調査官は、モニターに並ぶ四つの心拍波形を凝視していた。
執行01:72。執行02:68。執行03:74。執行04:71。
全員が特殊部隊出身であり、極限状況下における呼吸統制訓練を完了している。
規定上限値である85を大きく下回っていた。
「分析班、切羽周辺の空間エントロピー変動は」
「依然として安定。……ただし、断層の亀裂周辺において、極めて微弱な気圧の微動を検知。
何かを待つように、静止しています」
分析官が端末のキーを叩きながら返答する。
坑道内。
四本のヘルメットライトが、散乱する破砕岩と未整備の泥濘を白く照らし出していた。
足音すら吸音ソールによって殺され、ただ隊員自身の耳の奥で、
閉鎖回路を流れる酸素の微かな循環音だけが規則正しく鳴り響いている。
深度二百八十メートル。
掘削の最前線――切羽に到達した。
投光器の光の輪の中に、作業着姿で倒れ伏したままの作業員二名の遺体が浮かび上がる。
二人の口元からは、氷の結晶のような白い粉末が地面へこぼれ落ち、
砕けた胸郭が異様な薄さで潰れていた。
だが、執行班の誰も遺体に視線を留めない。感情の揺らぎは心拍数の上昇を招く。
彼らにとって遺体は、ただ現場に放置された障害物の一つに過ぎなかった。
『目標の断層亀裂を確認。幅四十センチ、縦約一・二メートル』
執行01が亀裂の直前に膝をついた。
暗黒の裂け目の奥から、風はないはずなのに、皮膚の表面を撫でるような不可解な圧迫感が漂っていた。温度計は十四度を示している。しかし、その裂け目の空間だけが、
まるで周囲の熱の概念そのものを呑み込む空白地帯のように口を開けていた。
『圧送ユニット展開。アンカー打設を開始する』
執行02と03が、携行してきた高圧樹脂注入機を素早く地面へ固定した。
二液混合式の急結性無機高分子樹脂。注入後四十秒で岩盤と同等以上の硬度へ硬化し、
空気の流通を分子レベルで遮断する特殊建材だ。
太い注入ノズルが、断層の亀裂深部へ慎重に差し込まれる。
金属と岩が擦れ合う微かな振動が、坑道内に響いた。
その瞬間だった。
『――ッ』
ノズルを支えていた執行04が、わずかに身じろぎした。
亀裂の奥、光の届かない漆黒の深淵から、何かが音もなく蠢いた。
姿は見えない。影すら結ばない。
ただ、ノズルの先端に触れていた岩肌が、パチパチと微小な音を立てて白く濁り始めたのだ。
常温のまま、物質が結晶化していく連鎖。
観測車のモニター上で、執行04のバイタルゲージが跳ね上がった。
心拍数:76――81――84。
「心拍数アラート」
分析官が鋭く声を上げた。
「04の換気量、毎分十一・八リットルへ急増! 上限値まであと〇・二リットル!」
「落ち着かせろ」
調査官がマイクへ低く命じた。
「04、視線を外せ。亀裂を見るな。ノズルから手を離すな。息を吐き切ってから四秒静止しろ」
坑道内。
執行01が、04の肩を無言で強く掴んだ。
手勢による制止。
防護マスクの奥で、04の呼吸が荒れかけていた。
心拍数が85を超え、呼吸圧が一定の閾値を突破すれば、密閉スーツのわずかな圧力勾配を検知して、
あの「熱を奪う理外の力」がスーツの排気回路を逆流して体積ごと肺を破砕する。
恐怖を感じること自体が、即座に死を意味する領域。
04はバイザーの中で固く目を閉じ、訓練された手順通りに肺胞の空気を絞り出すように
細く吸着剤へと送り込んだ。
一秒、二秒、三秒。
……心拍数:83――79――74。
モニターの警告ランプが、黄色から緑へと戻る。
『……圧送準備、完了』
インカムから、01の無機質な報告が入る。
「即時注入を開始せよ」
調査官が決断を下した。
『バルブ開放』
高圧ポンプが低く唸りを上げ、灰色のペースト状樹脂が亀裂の奥へ向けて猛烈な圧力で圧入された。
一分間に二百リットル。
樹脂は亀裂の空洞を瞬く間に埋め尽くし、奥の闇を押し返していく。
その時、注入ノズルの周囲で、激しい空間の軋みが発生した。
樹脂の表面が激しく発熱し、同時に周囲の大気が一瞬にして超低温の霜を吹き上げるという、
熱力学を無視した二極の変異が火花のように散る。
亀裂の奥から、まるで窒息しかけた生物がもがくような、重い空気の震えが壁面を伝ってきた。
だが、執行班員たちは微動だにしなかった。
四名全員がノズルを岩盤に押し当て、全身の体重を預けて逆流を防ぐ。
樹脂は化学反応を起こし、灰色の塊から石のように硬い漆黒の遮断壁へと重合していく。
三十秒。四十秒。五十秒。
カチリ、とノズルの先端が硬化した樹脂に噛み込まれ、注入圧計の針が振り切れた。
完全硬化。
断層の亀裂は、数十センチの厚みを持つ特殊樹脂によって完全に塞がれ、
鏡のように滑らかな黒い壁面へと変貌していた。
パチパチと鳴っていた岩肌の霜が、周囲の常温の空気に触れて静かに解け落ちていく。
「……車載プローブ、反応消失を確認」
分析官が深く息を吐き出した。
「断層奥の気圧脈動、ゼロ。エントロピーの強制喪失現象、完全に停止しました」
車内のスピーカーから、01の静かな呼気音だけが返ってきた。
『こちら執行01。亀裂の一次閉塞を完了。資材を撤収し、第二次コンクリート圧送の準備へ移行する』
「了解。直ちに後方へ下がれ」
調査官は通信を切ると、即座に手元の公用電話を取り上げた。
呼び出し先は、地上で待機させている国土交通省の地方整備局担当官だった。
「調査部第3セルだ。第一段階の遮断は完了した。……直ちに生コン車四台を坑口へ進入させろ。
トンネル設計の変更手続きと、現場の永久埋戻し作業を開始する」
【用語解説:急結性無機高分子樹脂とバイタルコントロール】
急結性無機高分子樹脂(SOP遮断資材)
局所的な空間変異や未知の気体・エネルギー流出を物理的に遮断するために第七準備室が配備している
特殊硬化剤。主剤と硬化剤の混合後数十秒で高硬度セラミック状に重合し、
耐火・耐熱・耐薬品性に加え、分子間隙の極めて小さい完全密閉障壁を急速形成する。
バイタルコントロール(自律神経統制)
保安執行部の実動要員に課される必須技能。心拍数、血圧、
呼吸数などの自律神経系パラメーターを極限の心理的負荷下においても意識的に抑制・安定させる技術。事象の多くが生体の精神的興奮や生理的反応(代謝亢進、発汗、呼気圧上昇)を
トリガーとして活性化するため、感情を排除した機械的行動が隊員の生存条件となる。




