第21話:事案指定 第89号「呼吸停止域」(其の二)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:事案指定 第89号
事案仮称:「呼吸停止域」
事象分類:第四種熱力学的侵食 / 生体活動共鳴型
観測担当:本庁調査部 第3セル 分析班
参考記録:明治四十二年 足尾銅山通気坑変異記録(異形改方引継文書 甲第108号)
午前三時四十分。
坑口前に設営された灰色の移動観測車の中は、数十台のラックマウント型アナライザが放つ排熱と、計器の電子音に満たされていた。
車外の雨音は遮音パネルによって完全に遮断され、冷え切った空調の風だけが狭い車内を循環している。
「深度二百八十メートル、切羽(先端部)手前二十メートルにプローブ進入完了」
ヘッドセットを装着した分析官が、トラックボールを操作しながら抑揚のない声で報告を上げた。
大型モニターに、四輪の自律型観測クローラーが送り返してくる暗視カメラの映像が映し出される。
湿った剥き出しの岩肌と、吹き付けコンクリートの境界。発破作業の中断によって
散乱したズリ(岩屑)の山を越えた先に、掘削機が貫通させてしまった断層の裂け目が口を開けていた。
人一人が這って入れる程度の、不規則な黒い亀裂だった。
「環境測定値を出せ」
背後に直立していた調査官が低く命じた。
「酸素濃度二〇・九パーセント、気圧一〇一三ヘクトパスカル、坑内気温十四・二度。有毒ガス、
放射線、電磁界の異常歪曲、すべて検出限界以下。
……大気の成分比率自体は、この観測車内と完全に同一です」
もう一人の分析官が、波形モニターの数値を指先でスクロールしながら首を傾げた。
「だが、作業員二名の気道と肺組織は完全に破砕されていた。自然現象ではない」
調査官の視線は鋭く画面の一点を見据えていた。
「第二段階の生体接触試験を行う。実験体を進入させろ」
「了解。キャリアモジュールを開放します」
モニターの中で、クローラーの背面に積載されていた耐圧アクリルケージのハッチが
遠隔操作で開かれた。
中から現れたのは、三匹の近交系ラットだった。
一匹目のラットには小型の遠隔バイタルセンサーが装着されており、
ケージから這い出て切羽の土工板の上を歩き始めた。
最初の十秒間、異変は起きなかった。
ラットは周囲を警戒するように鼻先を動かし、断層の亀裂へ向けて数歩前進した。
その時、心電図と呼吸波形のモニターが、小さく跳ね上がった。
『――換気量増大、一分間に百二十回。心拍数四百二十』
「呼吸数、上がります」
直後だった。
モニターの映像が一瞬、霧がかかったように白く滲んだ。
ラットの胸部が大きく上下し、肺いっぱいに空気を吸い込んだその刹那、
パキリという乾いた破砕音が車内のスピーカーから明瞭に響いた。
熱赤外線カメラの画面上で、ラットの体内温度を示す赤と黄色のグラデーションが、
心臓と肺を中心として一瞬で絶対零度に近い濃紺へと反転した。
ラットは痙攣すら起こさなかった。
吸い込んだ外気が気道を通った瞬間、口腔から肺胞に至る呼吸器官の全水分がガラス状に結晶化し、
胸郭が内側から砕け散って固まったのだ。
倒れ伏したラットの開いた口から、白い結晶粉末がサラサラと土の上にこぼれ落ちる。
車内に重い静寂が落ちた。
「周囲温度は変化なし。……十四・二度のままです」
分析官が息を呑んだ。
「坑内の空気が冷えているのではありません。ラットの体温が周囲に奪われた形跡もない。
ただ……『空気を吸い込んで吐き出す』という呼吸の機械的動作そのものに反応して、
体内の特定部位のエントロピーだけが瞬時にゼロへ固定されています」
「二匹目を走らせろ」
調査官の声は平坦だった。
「二匹目には気管挿管を施し、筋弛緩剤で自発呼吸を停止させてあります。
人工換気装置により、完全密閉循環で体内に純酸素を送り込んでいます」
二匹目のラットがアームで床に降ろされた。
機械による強制換気を受けながら、ラットは亀裂の直前を通過した。
五秒、十秒、三十秒。
バイタルサインは正常値を維持し、凍結も生体破砕も一切発生しない。
「三匹目。二匹目と同じ密閉呼吸下で、人工換気の排気バルブだけを微量開放しろ」
分析官がコマンドを送信した。
クローラーの排気弁から、ラットの吐き出した微量の二酸化炭素と水蒸気が、
坑内の空気中へプシュと排出された。
――バキン。
弾けるような音が鳴り、排気バルブの金属ノズルごと、ラットの頭部が白銀の粉末となって四散した。
「……特定完了しました」
分析官が端末から顔を上げ、手元のタブレットに解析結果を固定した。
「あの亀裂の奥から滲み出しているのは、未知のガスでも電磁波でもありません。
この空間そのものが変異しています。生物が『周囲の空気を吸い、呼気として外部へ吐き出す』
という換気サイクルを成立させた瞬間、吐き出された呼気をトリガーとして、
吸入経路全体の熱エネルギーを強制奪取する排他性の領域です」
「明治四十二年の足尾の事案と同じだな」
調査官は胸の内ポケットから、暗号化された小型端末を取り出し、
内務省異形改方から引き継がれたマイクロフィルムの解読記録を呼び出した。
「足尾銅山通気坑変異記録、甲第108号『息呑みの間』。
……坑夫が息を吸い込むたびに胸を凍らせて即死したとある。
当時の記録官は、作業員に火消しの布を幾重にも巻かせ、
息を止めて這い進ませることで辛うじて坑口を崩落・封鎖した」
調査官は画面の数値を一瞥し、冷徹に事態を切り分けた。
「通常の防毒マスクや、消防の自給式空気呼吸器(SCBA)はすべて使用不可だ。
あれらは吸気こそボンベから供給するが、呼気は排気弁から外気へ放出する。
装着した隊員が息を吐いた瞬間、排気弁から気道へ逆流凍結が走り、即死する」
「では、突入には……」
「完全閉鎖循環式無排気呼吸装具(CCR)を使用する」
調査官は車載の通信マイクを手に取った。
接続先は、後方の大型コンテナ車で待機している実力部隊だった。
「本庁調査部第3セルより、保安執行部第2班へ通達。事案指定第89号に対するSOPを策定した。
コードは『SOP-89-アルファ』」
スピーカーの向こうから、実働部隊指揮官の抑揚のない応答が返る。
『保安第2班、受領準備よし』
「潜水・宇宙用の完全閉鎖循環式装具を着用。二酸化炭素はケミカルキャニスターで全量吸着、
呼気の外気放出を絶対値ゼロで維持しろ。……これより切羽奥の亀裂に対する、
急速硬化樹脂を用いた物理閉塞作業を実施する」
調査官はモニターに映る、無残に砕け散ったラットの残骸を見つめた。
「なお、本浸食は生体の代謝圧力――呼気圧の急上昇にも連動する恐れがある。
班員全員の心拍数を八十五以下に統制しろ。パニックを起こして息を荒らげた者は、
その場で防護服ごと内側から凍結破砕すると思え」
【用語解説:呼気共鳴型侵食と完全無排気プロトコル】
呼気共鳴型侵食(熱力学的排他域)
大気成分や温度環境には一切の物理的異常が観測されないにもかかわらず、
生物の「外気吸入および呼気排出」という換気運動そのものを物理的導線として認識し、
呼吸器官の内部熱量を不可逆的に剥奪・凍結させる空間変異。外部への呼気放出が存在しない無機物、
あるいは完全密閉環境に対しては反応を示さない特性を持つ。
SOP-89-アルファ(完全閉鎖循環無排気突入プロトコル)
呼気共鳴型事象に対処するために策定された特殊対処要領。
外気とのガス交換を完全に遮断する閉鎖循環式呼吸器(Closed Circuit Rebreather)の着用を義務付け、二酸化炭素吸着剤による呼気内循環を徹底させる。
また、精神的動揺による心拍数・代謝圧の上昇がスーツの密閉限界を突破する危険性を防ぐため、
突入要員には厳格なバイタルコントロール(心拍数上限の維持)が課される。




