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第20話:事案指定 第89号「呼吸停止域」(其の一)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:事案指定 第89号

事案仮称:「呼吸停止域」

指定区分:第二種隔離

初期覚知:N県警察本部 刑事部鑑識課(変死事案報告コード302)

現地臨場:本庁調査部 第3セル(調査官1名、分析官2名)

実力部隊:保安執行部 第2班(後方待機)

外郭支援:国土交通省 中部地方整備局、N県警察本部

偽装名義:厚生労働省 労働基準局 安全衛生部 労働衛生専門調査官

現場位置:N県木曽郡 山間部 一般国道改築事業 導水路付替トンネル坑口


午前二時十五分。

木曽山脈の谷間を縫う国道工事現場は、霧雨と大型投光器の無機質な白い光に包まれていた。


山腹を貫くはずだった未開通トンネルの坑口前。泥濘の広場には、赤色灯を無言で回すパトカー三台と、地元消防本部の救急車が横付けされていた。

張られた規制線の内側で、N県木曽署の刑事課長・大滝(おおたき)警部は、

吐き出す煙草の煙とともに深く眉根を寄せていた。


「大滝課長、鑑識から速報が出ました」


駆け寄ってきた鑑識係の巡査部長が、雨に濡れたクリップボードを差し出す。


「死亡したのは先端掘削を担当していた下請けの作業員二名。外傷なし、頭部打撲なし。

現場監督は『発破後のズリ搬出中に突然バタバタと倒れた』と証言しています」


「酸欠か? 地層からメタンか一酸化炭素でも噴き出したか」


「それが……おかしいんです」


鑑識係は声を潜め、坑口の奥を指差した。


「坑内のガス検知器は、酸素濃度二〇・九パーセントを示しています。一酸化炭素、硫化水素、

可燃性ガス、すべて検出限界以下。空気は完全に正常です」


「……何だと?」


「それだけじゃありません。遺体の口腔内です」


鑑識係の手元の写真用タブレットに、現場で撮影されたマクロ画像が表示された。

大滝は思わず息を呑んだ。

仰向けに倒れた作業員の開いた口の中――舌と咽頭粘膜の表面が、

まるで冷凍庫の霜のように白く結晶化していた。

ただの凍結ではない。口から漏れ出た喀出物は、ガラスの微粒子のように脆く砕け、

常温の空気の中で蒸発もせず異様な鈍い光を放っている。


「坑内温度は十四度です。水たまり一つ凍っていません。なのに、二名の気道と肺組織だけが、

マイナス六十度以下の過冷却を受けたかのように、細胞レベルで破砕されている。

……検死を担当した当直医が頭を抱えています。

『死因は急性呼吸不全だが、現代医学ではあり得ない組織所見だ』と」


大滝は奥歯を噛み締めた。

現場の換気設備は正常、有毒ガスなし、気温十四度で肺胞のみの瞬間凍結。

こんな不可解な検視調書を検察庁に回せるはずがない。事件か、事故か、

それとも何らかの新型の産業廃棄物による未曾有の中毒か。


「消防の特別救助隊に坑内を再捜索させろ。何が漏れているのか突き止めんことには――」


大滝が命じかけたその時、現場の空気が不自然に張り詰めた。


山道を上がってきた二台の黒塗りの大型ワゴン車が、警察の検問線を速度を緩めることなく通過し、

規制線の直前で滑るように停車したのだ。

品川ナンバー。サイレンも赤色灯もない。

フロントガラスの内側には、黒地に白文字で『公用』とだけ印字されたプラスチックの標識が

掲げられていた。


ドアが開き、作業用の上着を羽織った男たちが無言で降りてきた。

先頭を歩く五十がらみの男の胸元には、紺色に白文字の腕章が巻かれている。

――『厚生労働省』。


「おい、あんたたち! ここは警察の規制線内だ、立ち入りは――」


制止しようとした若い制服警官の前に、先頭の男が無表情のまま黒革の手帳を突きつけた。


『厚生労働省 労働基準局 安全衛生部 労働衛生専門調査官』

顔写真の横には、精密な公印と『特命第〇七号』という無機質なスタンプが押されている。


「木曽署の責任者は誰だ」


調査官の男は、名乗りもせず、低く平板な声で言った。


「私が刑事課長の大滝だ。厚労省の労働基準局が何の用だ。

ここは業務上過失致死の疑いで警察が現場検証を行っている最中だ」


調査官は大滝の抗議に目もくれず、背後の随行員に短く合図を送った。

随行員が小型の衛星通信端末を操作し、

大滝の胸ポケットの警察無線が即座にけたたましい優先受信音を鳴らした。

同時に、大滝の公用携帯電話が激しく震える。


画面には『県警本部 警務部長』の文字。


「……大滝です」


『大滝か。今すぐ現場検証を全面中止しろ』


受話器の向こうから響いたのは、普段は現場に直接口を挟むことのない本部の警務部長の、

切迫した低い声だった。


『今、東京から現場に到着した調査官に、現場の全指揮権を委譲しろ。

現場検証の立ち会い要員は直ちに坑口から二百メートル後方へ退避。

これまでに作成した実況見分調書、鑑識写真、採取データはすべて調査官へ引き渡せ』


「部長、しかし遺体の所見が極めて異常です! 不審死として我々が捜査を――」


『これは行政調査ではない。国家公安委員会および内閣官房との包括協定に基づく特命事案だ。

……余計な書類を残すな。警察手帳を閉じて、指示に従え』


ツーツーと無情な通話終了音が響いた。

大滝は受話器を耳から離し、目の前の男を凝視した。

男の表情には、勝ち誇った色も、警察を見下す気配すらもない。ただ冷徹に、

定められた公務の手続きをこなしているだけの、乾いた官僚の眼差しだった。


「状況を理解していただけたようだな、大滝警部」


調査官は手帳を懐に収めると、淡々と事務的な宣告を下した。


「本件は労働安全衛生法第九十一条に基づく特定有害環境災害として、

厚生労働省本省が直接調査・収拾を専掌する。警察の介入権限は現時刻をもって停止された。

署員を全員、あの白線の外へ下げなさい」


「……あの作業員たちは、何で死んだんだ」


大滝の問いに、調査官は答えなかった。

ただ背後の二名の随行員――分析官たちへ向けて、抑揚のない指示を飛ばした。


「分析班、移動測定ユニットを展開。坑口より深度五十メートル地点までドローン型観測プローブを

進入させろ。……外気吸引ポンプの作動は厳禁。光学スペクトルと熱線走査のみで環境をスキャンしろ」


「了解」


分析官たちが手早くワゴン車の後部を開け、警察の鑑識機材とは比較にならない、

防塵・防爆仕様の重厚な電子計測ポッドを運び出し始めた。


大滝は拳を握りしめながら、部下たちへ退避の合図を送らざるを得なかった。

警察の黄色い規制線は引き千切られ、代わりに『厚生労働省 立入禁止区域』と印字された

無地の黒いテープが坑口周辺に張り巡らされていく。


雨煙に霞む暗黒の坑口。

その奥から、空気の流れすらないはずの静寂の中、

かすかに――氷を砕くような、微小なパチパチという軋み音が、

谷底の夜気へ向けて静かに漏れ出していた。

【用語解説:労働衛生偽装介入と指揮権接収】


労働安全衛生法第九十一条に基づく臨場偽装

重篤な特異事象がトンネル工事、鉱山、化学工場などのインフラ開発現場で発生した際、

第七準備室が最も頻繁に用いる偽装介入プロトコル。

労働基準局の「労働衛生専門調査官」という公的枠組みを適用することで、

警察の刑事訴訟法に基づく捜査権行使を「労働災害の行政調査優先」の名目で合法的に一時停止させ、

現場の指揮権を無血で接収・排除する。


生体局所結晶化

事案指定第89号における特異現象の初期徴候。

大気中に毒性物質や急激な温度変化が観測されないにもかかわらず、

侵食域に進入した生物の呼気呼吸器官(口腔・喉頭・肺胞等)のみが不可逆的な極低温破壊を起こし、

ガラス状に硬化・破砕される現象。

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