第19話:幕間②
【内閣官房 総合危機管理統括庁 内部規程抜粋】
文書番号:庁秘第04号
件名:新規任用要員の登録および身分抹消措置について
配属先:保安執行部 特命実働班(特殊適性枠)
処置区分:第一種身分秘匿(戸籍抹消、および防衛省公式記録の改ざん完了)
支給品:規格作業装具一式、個人認識番号票(チタン製)
外部呼称:なし(対外折衝権限なし / 現場展開時の識別は無線符番のみ)
東京都千代田区、K町。
官庁街の喧騒からわずかに外れた裏通りに、昭和四十年代に建てられたと思しき、
無機質な七階建てのオフィスビルが佇んでいた。
ひび割れた外壁の看板には、色褪せたフォントで
『財団法人 総合都市開発研究所』とだけ記されている。通りを行き交うサラリーマンの誰もが、
視線を向けることすらなく素通りしていく、ありふれた雑居ビルだった。
コートの襟を立てた如月怜奈は、防大の制服を脱ぎ、
私服の簡素なスーツに身を包んでそのエントランスをくぐった。
守衛所には老人が一人、新聞を広げて座っているだけだった。
怜奈が無言で、横須賀で手渡された黒いアクリル製のカードキーをセンサーにかざすと、
カチリと電子錠が外れ、奥のエレベーターホールへの自動ドアが開いた。
エレベーターの操作盤には、地下二階までのボタンしかない。
だが、壁面のキーシリンダーにカードキーを差し込み、右へ九十度回した瞬間、
操作盤の最下部に刻印のない隠しインジケーターが赤く点灯した。
重い油圧の唸りとともに、箱は地上から遠ざかり、地下四階へと沈降していった。
チーン、という乾いたベルの音とともに扉が開いた。
目の前に広がっていたのは、外観からは想像もつかないほど広大な、
白銀色の蛍光灯に照らされた地下フロアだった。
冷房の効きすぎたサーバールームのような冷気と、消毒液の匂いが鼻を突く。
すれ違う人間は数名いたが、誰もが作業着やノーネクタイのワイシャツ姿で、怜奈に一瞥もくれず、
黙々と書類バインダーや電子端末を抱えて歩き去っていく。一切の私語がない。
「如月怜奈だな」
正面の受付デスクから、四十代半ばの痩身の男が歩み寄ってきた。
グレーのスラックスに黒のナイロンベスト。胸元には名札の代わりに、
ただバーコードと五桁の英数字が印字されたIDカードが下がっている。
「受入手続きを担当する総務部の者だ。ついて来なさい」
男は名乗ることもなく踵を返し、怜奈を連れて地下通路を歩き始めた。
案内されたのは、鉄扉で仕切られた無機質な処分室だった。中央のスチール製作業台の上に、
灰色のトレイが置かれている。
「まず、私物をすべて出せ」
男の指示に従い、怜奈はポケットからスマートフォン、防衛大学校の学生証、財布、運転免許証、
腕時計をトレイの上に置いた。
男は手際よく学生証と免許証を取り上げると、卓上の小型シュレッダーに差し込んだ。
バリバリと硬質プラスチックが粉砕される乾いた音が響く。
スマートフォンは専用の加圧器に挟み込まれ、基盤ごと無残に押し潰された。
「本日付で、如月怜奈という人間は『家庭の事情による任官辞退、および民間企業への就職』として
処理された。君のこれまでの戸籍、年金記録、学籍データは、
すべて内閣官房直属の管理サーバーへ隔離・凍結される。
地上において、君という人間は法的に存在しない」
男はロッカーを開け、棚から畳まれた黒塗りの難燃作業服と、
紐の通された薄いチタン製のプレートを取り出した。
自衛隊の認識票に似ていたが、氏名も血液型も刻まれていない。
ただ『7-EXE-019』という記号だけが深く刻印されていた。
「君の配属先は、保安執行部――実働部隊の特殊枠だ。現場で指揮を執る調査官のように、
他省庁の偽装身分証を使い分けて警察や自治体と交渉することすらない。
君が表の社会に出て名乗りを上げる機会は二度とない」
男はチタンプレートを怜奈の手のひらに落とした。
「首にかけろ。君の認識記号は019だ。……二度と、自分の名前を思い出すな」
「……了解」
怜奈は冷たい金属板を首に掛け、衣服の内側へ収めた。
男は怜奈を促し、フロアのさらに奥、実働部隊の待機区画へ通じる長い地下通路へと歩を進めた。
廊下の壁面には、古びたファイリングキャビネットが延々と並んでいる。
「歩きながら聞け。君がこれから属する組織の概要だ」
男は前を向いたまま、抑揚のない事務的な声で語り始めた。
「組織の正式名称は、内閣官房 総合危機管理統括庁 第7準備室。……発足の源流は明治初期、
新政府の内務省内に設置された『異形改方』に遡る。
江戸期以前から各地に存在していた伝承、怪異、理外の変異を、近代国家の枠組みに
回収・秘匿するための治安組織だった」
怜奈は男の背中を見つめながら、静かに歩調を合わせた。
「戦後、GHQの占領政策によって公的には解体されたが、当時の内務官僚の手によって、
GHQの監視が及ばない公団組織や復興建設の機構内部へ、
その機能と人員が巧妙に移管・温存された。
……冷戦期を経て、昭和末期から相次いだ原因不明の広域複合事案を受け、
内閣直属の危機管理部門の影として再編されたのが、現在の第七準備室だ」
「目的は……怪異の殲滅ですか」
「違う」
男は即座に、平然と否定した。
「我々の任務は、事象の完全な解明でも、ましてや英雄的な殲滅でもない。
規格化された標準対処手順(SOP)に従い、被害を最小限に遮断し、
現代社会の法と日常の帳尻を合わせることだ。科学で説明できない現象を、科学の装いで覆い隠し、
ただ淡々と日常を継続させる。……実働部隊の役目は、調査官が下したSOP指示を、
現場の最前線で物理的に執行することだけだ」
その時だった。
中央作戦室と保安待機区画を分かつメイン通路の左手、照明の届かない薄暗い窪みの奥に、
怜奈の視線が吸い寄せられた。
そこには、他の部屋とは明らかに構造の異なる、一枚の扉があった。
銘板も部屋番号もない。周囲のコンクリート壁に溶け込むような、塗装の剥げ落ちた、
分厚い鋼鉄の一枚扉。
電子ロックのテンキーすら存在しなかった。
扉の脇の壁面には、小さなアクリルの台座が固定されていた。
その透明な台座の上に、一本の無骨な黒いサインペンが、
まるで儀式用の祭具のように静かに置かれている。
そしてペンの真横には、上下に並んだ、二つの無機質な鍵穴(シリンダー錠)だけが口を開けていた。
最新の電子管理が行き届くこの地下施設の中で、そこだけが異常なほどアナログで、
奇妙な静けさを放っていた。
怜奈は無意識に足を緩め、その扉を見つめた。
「あの扉は……?」
怜奈の問いに、先を歩いていた案内役の男は、振り返りもせず、歩幅すら乱さなかった。
扉の方角へ一瞥もくれることなく、前方の冷たい通路を見据えたまま、
乾いた声で吐き捨てるように言った。
「さあな。配電図面にも『特定管理区画』としか書かれていない。施錠解除の権限が誰にあるのかも、我々には知らされていない」
「…………」
「見るな。立ち止まるな。……我々の業務とは、一切関係のない場所だ」
案内人の声には、秘密を隠すような気配すらなく、ただ徹底した職務上の無関心と、
触れてはならない境界に対する官僚的な線引きだけが滲んでいた。
怜奈は静かに視線を前へ戻し、男の背中を追って足早に歩き出した。
通路の最奥。二重の重い耐圧気密扉の前に到着した。
扉の横のプレートには、ただ『保安執行部 特命実働区画』とだけ印字されている。
男が壁面のカードリーダーに認証を通すと、プシュー、と重い空気圧が抜ける音が響き、
分厚い鋼鉄の扉がゆっくりとスライドした。
扉の向こうは、外光の完全に遮断された、広大な訓練用ケージと
重資材コンテナが立ち並ぶ薄暗い空間だった。
無標識の防護服に身を包んだ複数の影が、無言のまま資材の点検を繰り返している。
「入れ」
男は扉の脇に立ち、怜奈へ向けて冷徹に告げた。
「ここがお前の現場だ。……資材の規格、隔離手順、生体防護資材の展開方法。すべてを体に叩き込め。出動がかかるその瞬間まで、ここから出ることは許されない」
怜奈は一度だけ立ち止まり、自分が歩いてきた地下通路を振り返った。
地上へと続くエレベーターの光は、もうどこにも見えなかった。
横須賀の海風も、防大の芝生の匂いも、遠い前世の記憶のように急速に薄れていく。
自らの意志で選んだ、名もなき闇の底。
彼女は振り返るのをやめ、胸元のチタンプレートを強く握りしめると、
無言のまま気密扉の奥へと足を踏み入れた。
ゴオン、と重い金属音が響き、背後の扉が完全に密閉された。
――こうして、如月怜奈という一人の人間の記録は、地上から完全に消滅した。
残されたのは、ただ規格化された一つの記号、019。
組織の巨大な歯車の中に噛み合わされた、替えの利かない、
しかし決して名前を呼ばれることのない、無機質なひとつの部品だった。
【用語解説:組織の系譜と特定管理区画】
異形改方
明治初期、廃藩置県と近代警察制度の創設に伴い、
旧幕府の隠密網や各地の寺社管理機構を再編して内務省内に設置された極秘治安組織。
近代化を推進する国家方針に基づき、非合理な怪異や土着の異変を公的記録から
消去・隠蔽する任務を担った。第二次世界大戦後のGHQ占領下で解体されたが、
その記録と対処ノウハウは公団や省庁の地下組織へ継承され、現在の第七準備室の礎となった。
保安執行部 特命実働班(特殊適性枠)
通常の警察・自衛隊からの出向者で構成される一般実働班とは異なり、
極めて稀有な生体適性(怪異忌避、空間歪曲耐性等)を持つ要員のみで編成される秘匿実動枠。
対外的な公務員身分すら与えられず、識別はすべて登録記号(符番)のみで管理される。
特定管理区画(施錠区画)
地下施設の最深部に位置する無表記の区画。現行の行政機構および第七準備室の指揮系統下にある
一般職員・調査官・実働部隊には一切の管理・アクセス権限が付与されておらず、
施設の設備図面においても用途・構造は完全に空白となっている。




