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第18話:走水の異端児(幕間①)

【防衛大学校 訓練部学生課 記録抜粋】

件名:第4学年対象 特殊環境意思決定適性検査(定期スクリーニング)実施報告

受検対象:本科第7X期生(全専攻)

名目:過酷環境下における幹部自衛官候補者のストレス耐性および多重認知処理評価

実施場所:本部庁舎 地下情報処理演習室

備考:本検査データの一部は、内閣官房との包括的覚書に基づき別系統へ暗号化転送


東京湾を見下ろす横須賀・走水(はしりみず)の丘。

海から吹き上げる冷たい潮風が、

防衛大学校のグラウンドに立つ学生たちの外套の裾を激しく煽っていた。


「――気を付け、捧げ銃(つつ)!」


学生隊長の号令が木霊し、数百本の六四式小銃が一糸乱れぬ金属音を立てて掲げられる。

冷え切った銃身の感触を掌に感じながら、第4学年の如月怜奈(きさらぎ・れいな / 22歳)は、

瞬き一つせず前方の水平線を見つめていた。


周囲の同期たちの横顔には、数ヶ月後に迫った卒業と、

幹部候補生学校への入校を控えた気迫が満ちている。

陸上、海上、航空。各自が志望する職種へ進み、部隊を率いる指揮官となる日を夢見て、

日々の過酷な訓練を耐え抜いてきた仲間たちだった。


だが、怜奈の胸の内には、冷たい隙間風のような迷いが渦巻いていた。


(……私は、本当にこの道でいいのだろうか)


成績は常に上位だった。

座学の安全保障論でも、野外戦技の射撃でも、教官から苦言を呈されたことはない。

周囲からは「優秀な陸上要員になる」と太鼓判を押されていた。

だが、実弾を撃ち、戦術教範を頭に叩き込めば込むほど、怜奈の心は奇妙なほど冷え切っていった。

他国の軍隊と対峙し、人を率いて武力を行使する――その未来の自分の姿が、

どうしてもリアリティを持って結像しない。自分はこの組織の中で、周囲と調和しているように見えて、どこか致命的に異なる歯車なのではないかという漠然とした違和感が、

年次を重ねるごとに膨らんでいた。


(オカルトや怪談を笑い飛ばしてきたのも、ただ単に自分が鈍感なだけだと思っていた……)


同期たちが「夜間演習の山林で不気味な気配を感じた」と噂し合っていた時も、

怜奈には何も感じられなかった。

肝試しで誰もが怯える廃墟に行っても、

ただ冷たい風が吹いているだけの殺風景な空間にしか見えなかった。

自分には霊感や第六感といった情緒的なものは一切なく、徹底して無機質な人間なのだと、

そう割り切って生きてきたはずだった。


「如月学生、姿勢官服よし。視線前へ」


巡回してきた教官の低く鋭い声に、怜奈は静かに息を整えた。

進路調査票の第一志望欄には、迷った末に「陸上自衛隊・普通科」と書いた。

だが、提出したその瞬間から、胸の奥の重苦しい靄は晴れないままだった。


午後二時十五分。

訓練を終え、本部庁舎の教官室で装具の手入れをしていた怜奈は、

中隊指導教官から唐突に声をかけられた。


「如月、作業を止めろ。直ちに身だしなみを整えて、本館の学校長室へ出頭」


「……学校長室、ですか?」


怜奈が目を丸くすると、普段は些細な気の緩みも許さない厳格な三佐の教官が、

戸惑いを隠せない面持ちで短く頷いた。


「理由は聞かされていない。ただ、今すぐ来いとの命だ。……失礼のないようにしろよ」


本館最上階。重厚な木目調の扉の前に立った怜奈は、深呼吸を一つ落とし、

背筋を伸ばしてドアをノックした。


「失礼します。第4学年、如月怜奈学生。出頭いたしました」


「入れ」


重い扉を押し開け、執務室の中央へ歩み出た瞬間、怜奈の息が止まりかけた。


部屋の空気が、異常なまでに張り詰めていた。

元防衛事務次官である学校長、そして陸将補の副校長。この防衛大学校の頂点に君臨する二人が、

応接セットの脇に直立不動の姿勢で控えていたのだ。


そして、中央の革張りソファにゆったりと腰掛けていたのは、仕立ての良い濃紺のスーツを着た、

五十がらみの見知らぬ男だった。

バッジも階級章もなく、顔立ちには官僚特有の感情の起伏が一切ない。背後には、

無表情な黒服の男がアタッシュケースを抱えて影のように立っている。


「如月学生だな」


スーツの男が、静かな声で言った。


「学校長、副校長。席を外していただきたい」


「――はっ」

二人の最高幹部が、一切の躊躇もなく直角の敬礼を交わし、足早に部屋を出ていった。

カチリ、と扉が閉まる音がやけに大きく響いた。


「座りなさい、如月学生」


男が手元で対面のソファを指し示した。


「自分は学生です。立位のままで――」


「これは自衛隊の命令系統の場ではない。座りなさい」


穏やかだが、反論を許さない重みがあった。

怜奈は居住まいを正し、ソファの端へ浅く腰掛けた。


男はアタッシュケースから、表紙に何も印字されていない薄いファイルを一冊取り出し、

ガラステーブルの上に滑らせた。


「内閣官房の者だ。……先週、君たち4学年全員が受検した『特殊環境意思決定適性検査』を

覚えているかね」


「はい。密閉空間における多重タスク処理と、過負荷ストレス耐性の測定試験です」


「表向きはな」


男はファイルを指先でめくった。


「あれは、防衛省の定例評価とは別に、我々が毎年、

全国の防衛大生を対象に行っている独自の適性スクリーニングだ。モニターに投影された幾何学ノイズ、低周波パルス……あれらは、通常の人間であれば無意識に脳波が乱れ、

軽度の動悸や嘔吐感といった拒絶反応を示すように設計されている」


男は怜奈の顔をまっすぐに見据えた。


「だが、君の測定データだけが、完全な平坦値――一切の動揺を示さなかった。それどころか、

君が着席していた検査端末の周辺だけ、監視サーバーの電磁ノイズが急激に減衰し、

異常な空間安定を記録した」


「……空間の、安定?」


怜奈は眉をひそめた。何を言われているのか、まったく理解が追いつかない。


「君は、自分が単に恐怖に強いだけだとか、オカルトの類に鈍感な現実主義者だと思っていただろう」


男の言葉に、怜奈の心臓が跳ねた。


「それは違う。君は鈍感なのではない。……『向こう側』が、君を嫌悪しているのだ」


「向こう側……?」


「我々の定義では『怪異忌避(アバージョン)』と呼んでいる」


男は淡々と、まるで気象観測のデータを読み上げるような調子で続けた。


「この国には、現代の法体系や科学の枠組みから零れ落ちた、

説明のつかない理外の事象が確かに存在する。それらは通常、人間の精神を侵し、肉体を破壊する。

……だが、君という生体は、彼らにとって極めて不快な『空白の拒絶域』を作り出す性質を持っている。君が近づくだけで、現象は本能的に間合いを取り、侵食の手を止めるのだ」


怜奈は言葉を失った。

突拍子もない話だった。映画か小説のような荒唐無稽な説明。

だが――幼少期から感じていたあの奇妙な無菌室のような静寂、

誰もが気味悪がる場所で自分だけが何も起きなかった記憶の数々が、

パズルのピースのように音を立てて噛み合っていく感覚があった。


「内閣官房総合危機管理統括庁――第7準備室」


男は名刺の代わりに、無地の公文書を提示した。


「それが我々の組織だ。公の組織図には存在しない。制服も、階級も、

国家記録の栄誉も一切与えられない。怪異と対峙し、

規格化された手順で淡々と帳尻を合わせるだけの、裏方の公務員だ。」


男は眼鏡のブリッジを押し上げ、怜奈を静かに見つめた。


「君が進路に深く迷っていることは、提出された書類とこれまでの身上調査から把握している。

……君のその資質は、自衛隊の戦車に乗っても、小銃を構えても何の意味もなさない。

だが、我々の現場においては、何十人もの調査員の命を繋ぎとめる、唯一無二の防壁になり得る」


「…………」


「誤解しないでほしいが、我々は君に強制するつもりは毛頭ない」


男は背もたれに体を預け、穏やかに首を横に振った。


「このスクリーニングは毎年行われている定例業務だ。君は数年に一度現れるかどうかの適合者として、通常の手順に則って選抜されたに過ぎない。この部屋を出て、通常通り陸上自衛隊へ進官し、

日の当たる場所で祖国を守る幹部自衛官となる道を、国家は完全に尊重する。

ここで席を立てば、今の話は他言無用の守秘義務だけで終わりだ」


静寂が部屋を満たした。

テーブルの上には、内閣官房への特例転籍を示す一枚の受諾書と、一本のペンが置かれている。


強制ではない。

提案であり、自分自身の人生の選択。


怜奈は自分の掌を見つめた。

ずっと抱えていた違和感の正体。

なぜ自分が周囲の自衛官志望の仲間たちと同じ熱量を持てなかったのか。

なぜ自分だけが、世界の端の冷たい静寂に取り残されているような感覚を抱き続けてきたのか。


(……このために、あったのかもしれない)


恐怖がないと言えば嘘になる。

名前も栄誉も捨て、未知の危険と向き合う公務員。

だが、その不条理な場所こそが、自分がずっと探していた

「自分の輪郭がぴったりと嵌まる場所」なのではないかという、抗いがたい予感があった。


怜奈は顔を上げ、迷いの消えた瞳で男を見据えた。


「……一つだけ、質問させてください」


「なんだね」


「その組織で、私は……誰かの盾になれますか」


男はわずかに目元を緩め、初めて人間味のある頷きを返した。


「ああ。君が現場に立っているだけで、救われる命が確実にある」


怜奈は静かに息を吸い込み、テーブルのペンを取り上げた。

迷うことなく、受諾書の署名欄に自らの名前を走らせる。


――如月 怜奈。


書き終えた書類を差し出すと、男はそれを丁寧にアタッシュケースへ収め、静かに立ち上がった。


「手続きは我々の方で進める。防衛大学校は『家庭の事情による任官辞退』として処理される。

……如月怜奈という名前で公に呼ばれるのは、この部屋を出るまでだと思いなさい」

【用語解説:定期スクリーニングと特例任官】


定期スクリーニング(防衛大潜在適性調査)

第七準備室が内閣官房および防衛省の密約に基づき、

防衛大学校の学生を対象に毎年実施している潜在的特異体質者の発掘枠組み。

一般のストレス耐性試験を装いながら、特異電磁パルスや低周波振動への生体反応を測定する。

適合者が見出された場合でも、徴募や強制は一切行われず、

本人の完全な自由意志に基づく「もう一つの進路」として提示される。


第四の任官(辞退偽装転籍)

自衛官としての任官を辞退した形式をとり、公式記録上は「一般企業等への民間就職」として

処理された上で、第七準備室へ国家公務員一般職(行政職)として採用される手続き。

以降、本人の人事記録や身分証明は本室の管理下に置かれ、

外部に対する公的な身分は各事案に応じた偽装名義(他省庁の専門官等)が用いられる。

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