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幕間:事案指定 第83号外達「冷海侵蝕」

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:第83号外達「冷海侵蝕」

指定区分:第二種隔離 ──> 第一種放棄(強制破砕処置)

初期覚知:第一管区海上保安本部(海難アラート)

現地臨場:第七準備室 北部方面支部 調査班(員数2名)

偽装名義:水産庁 漁業取締本部 特殊海洋環境調査官(外部向け)

協力機関:第一管区海上保安本部 根室海上保安部 巡視船

現場位置:H道根室沖 北東24海里(オホーツク海海域)


午後十一時四十分。

オホーツク海の波濤は、夜の闇に溶け込む重油のように黒くうねっていた。


海上保安庁の三五〇トン型巡視船『かむい』の船橋で、

第二小隊長の神崎(かんざき)三席海上保安正は、

手すりにしがみつきながら荒波の先を睨みつけていた。

時化の海面を切り裂くサーチライトの白い光条の先――波間に浮き沈みしているのは、

錆びついた円筒形の巨大な海洋観測ブイだった。


直径約四メートル。国籍を示すマーキングは削り取られ、アンテナ支柱は不自然にへし折れている。

三日前に漂流が確認され、ロシア側の海洋観測機器と見られていたが、

夕刻になって周辺海域の海水温が異常降下を起こし、

近隣の漁船が無線の故障と乗組員の錯乱を相次いで通報してきた。


「神崎保安正、水産庁の調査官が甲板に出ました」


航海士の声に、神崎は舌打ちを噛み殺した。


根室港を出港する直前、海上保安庁警備救難部からの緊急公電一本で乗り込んできた二名の男。

胸元に『水産庁』の腕章を巻いていたが、名乗りもしなければ手帳の提示すらしなかった。

年齢は四十前後の先任と、三十前後の後任。二人とも感情の削ぎ落とされた眼配せで、

民間の海洋調査では決して使われない耐衝撃コンテナや、

高圧エアタンク、未知の薬剤シリンダーを搭載作業甲板に運び込んでいた。


後部甲板へ降りると、二人はすでに極寒冷地用のネオプレン製ドライスーツに身を包んでいた。

吹きつける氷点下の潮風の中、先任調査官が神崎を一瞥する。


「巡視船はこれ以上近づけるな。風上五百メートルで機関を微速維持。作業艇を降ろす」


「待ってください」


神崎は荒れる海を指差した。


「波高は三メートルを超えています。あのブイに接舷するのは危険すぎる。

海保の潜水班を出動させるべきだ」


「断る。これは海洋資源の汚染調査だ。一般職員の接触は許可できない」


先任は短く撥ねつけ、携帯端末の暗号画面を操作した。


「後任、SOPコード411――高圧アルカリ中和剤および減圧吸引機材を準備。

表層の繊維組織を削ぎ取り、コアを物理切断する」


「了解」


有無を言わせぬ所作だった。

二人はクレーンで降ろされた強化ゴムボートへ乗り移り、漆黒のうねりの中へと進んでいった。


サーチライトの光の中で、ゴムボートが観測ブイのキャットウォークへ接舷した。


神崎は船橋から双眼鏡を覗き込み、息を呑んだ。

ブイの金属表面に、びっしりと何かが張り付いていた。

フジツボや海藻ではない。青黒く濁った、無数の細い毛髪のような「繊維状生体」。

それが氷点下の海水に洗われながら、生き物のように規則的な収縮を繰り返し、

ブイの喫水線下から海底へ向けて太い束となって伸びていた。


「……おい、あれは何だ」


操舵手の震える声が響く。


ブイの上に登った先任調査官が、背負い式の噴霧器から白濁した液体を吹きかけた。

ジュウッ、と海上で激しい沸騰音が上がり、濃密な白煙が立ち込める。

繊維組織が焼けただれ、千切れた破片が海面に散った。


その瞬間だった。


海が、鳴いた。


低周波の重金属をすり潰すような不気味な軋み音が、巡視船の鋼鉄の船底を直接激しく震わせた。

海水温計のデジタル表示が、恐ろしい速度でカウントダウンを始める。


[外気海水温度:マイナス1.8℃ ──> マイナス7.4℃ ──> マイナス18.2℃]


「海水が……凍ってないのに、マイナス十八度!?」


機関士の悲鳴が船橋に響いた。


ブイの周囲数十メートルの海面が一瞬で粘性を帯び、ガラスのような半透明のゲル状へと変質した。

海底数千メートルの深海から、ブイのテザーワイヤーを伝って「本体」が逆流してきたのだ。


バシャアンッ――!


海中から、人間の胴体ほどもある太い黒い繊維の束が、巨大な触手のように何十本も噴き上がった。

ゲル化した海水を割り、繊維の先端が針のように鋭利に硬化して、

ブイの上の先任調査官の防寒ドライスーツを貫通した。


「――が、ッ」


先任調査官の喉から、短い空気が漏れた。

右肩から胸部へ突き刺さった繊維の表面を、青白い生体発光が高速で脈動する。

人体内の水分と生体電流が一瞬で奪い去られ、先任の露出した顔面が、

見る間にミイラのように茶褐色に干からびていく。

そして――。


バキバキと関節が逆方向に砕ける音を立てながら、

先任調査官の肉体は、自らの意思を失った人形のように、

黒い繊維に引きずられて暗黒の海中へと没していった。

海面に立ち上ったのは、血ではなく、白く凍りついた体液の膜だけだった。


「先任……!」


ボートの上にいた後任調査官が叫び、腰の信号拳銃をブイへ向けて発砲した。

マグネシウムの赤い閃光が繊維を焼く。だが、傷口からはさらに夥しい数の黒い糸が噴き出し、

ボートの船底を突き破った。


「うわああああっ!」


後任の右腕に、無数の糸が巻き付いた。

ドライスーツの繊維を食い破り、皮膚の下の血管へ直接潜り込んでいく。

後任は即座にナイフを抜き、自らの右腕ごと切り落とそうとしたが、

侵食の速度が遥かに上回っていた。

首筋から顎にかけて、皮膚の下に黒い血管のような幾何学模様が浮き上がり、

急速に眼球が白濁していく。


後任調査官は最後の力を振り絞り、左手で胸元の衛星通信機を掴み取ると、血を吐きながら叫んだ。


『――北部支部より本庁! 先任は完全喪失、我も侵食深度80%を超過!

対象は深海性超伝導群体……現用SOPはすべて無効!

第一種放棄を具申……海保の巡視船に、今すぐ砲撃させろ……!』


ガガッ、と通信が途絶した。

後任調査官の肉体はボートの上で硬直したまま動かなくなった。


そして、ブイから伸びる巨大な繊維の束が、ゲル化した海面を滑るように、巡視船『かむい』の船首へ向けて蠢き始めた。

黒い糸の先端が船首の外板に接触した瞬間、キリキリと鋼鉄が軋み、喫水線付近の塗装が一瞬で白く凍りついてひび割れる。


「船長! 船体が過冷却を起こしています! このまま張り付かれたら竜骨が割れて沈みます!」


機関士の悲鳴が上がる中、船橋の非常無線スピーカーから、冷徹な機械音声が割り込んだ。


『――巡視船『かむい』へ緊急通達。海上保安庁法第二十条、

ならびに刑法第三十七条(緊急避難)の成立を確認した。

本件射撃に伴う一切の法的責任は内閣官房が担保する。

……本船沈没を回避するため、漂流ブイおよび周辺水域を直ちに物理破砕せよ。

機関砲の全弾射撃、および搭載爆雷の投下を許可する』


「なっ……!?」


神崎はマイクをひったくるように叫んだ。


「ふざけるな! まだボートの上に調査官がいるんだぞ! 味方を撃てというのか!」


『――調査官の侵食深度はすでに不可逆領域にある。本船の全乗組員十二名の生命保持を最優先せよ。

繰り返す、直ちに撃破しろ』


「できません! 我々は海上保安官だ、人命救助が――」


「神崎、どけッ!」


背後から神崎を突き飛ばしたのは、白髪交じりの船長だった。

その顔面は蒼白に引きつり、額から脂汗が滝のように流れていた。

フロントガラスの向こう、ボートの上で動かなくなった後任調査官の体表から、

すでに無数の黒い触手が噴き上がり、こちらを見つめるように蠢いている。

そして、船底からはバキバキと鋼鉄の外板が砕ける破滅的な破壊音が響き始めていた。


「……全砲員、機関砲連動解除」


船長は喉の奥から絞り出すように、引き攣れた声で命じた。

拳が白くなるほど強くマイクを握りしめている。


「目標……前方漂流ブイ、および……ゴムボート。撃てぇッ!」


「船長ッ!!」


神崎の絶叫をかき消して、船首の二〇ミリ機関砲が火を噴いた。

曳光弾の赤い奔流が夜のオホーツク海を切り裂き、観測ブイと、

後任調査官の乗ったゴムボートを木っ端微塵に粉砕していく。

続けて投下された二発の爆雷が海中で炸裂し、黒い水柱とともに、

深海から伸びていた繊維の束を根こそぎ引き千切った。

船首の二〇ミリ多銃身機関砲が火を噴いた。

曳光弾の赤い奔流が夜のオホーツク海を切り裂き、

観測ブイと、後任調査官の遺体が乗ったゴムボートを粉々に粉砕する。

続けざまに投下された二発の対潜爆雷が水深五十メートルで炸裂し、

巨大な水柱とともに、深海から伸びていた黒い繊維の束を衝撃波で根こそぎ引き千切った。


午前一時五十分。

根室港の第3埠頭。


帰港した巡視船『かむい』の甲板は、立ち入り禁止の黄色い規制テープで封鎖されていた。

海水の採取サンプルと、機関砲の空薬莢が散乱する甲板の上で、神崎ら乗組員十二名は、

無言のまま整列させられていた。


タラップから降りてきたのは、黒いコートを着た二名の男。

東京の本庁から深夜便の自衛隊機で急遽派遣されてきた、第七準備室の保安要員だった。


「ご苦労だった、保安正」


男は名乗りもせず、手にした黒いアタッシュケースを開けた。

中には、銀色の円筒形器具――医療用高圧無針注射器(ジェットインジェクター)が並んでいた。


「……あの水産庁の二人は、一体何だったんですか」


神崎は唇を噛み締め、震える拳を握りしめた。


「一人は海に沈み、もう一人は我々が撃った……! 彼らは国のために死んだんじゃないのか!

あの海にいた化け物は、一体――」


「貴官らは国境警備の任務を果たした。それだけで十分だ」


男は無表情のまま、神崎の首筋へ無針注射器を押し当てた。


シュッ――。

炭酸ガスの短い噴射音。

冷たい薬液が頸動脈へ浸透し、神崎の視界が急速にぼやけていく。


「……な、に……を……」


膝折れて甲板へ崩れ落ちる神崎の耳元で、男たちの乾いた通報音声が遠のいていった。


「逆行性健忘剤、第一小隊へ投与完了。

漂流船への威嚇射撃および波浪によるボート転覆事故として調書を上書きする。

……それから、本庁へ打電」


[発信:根室現地班 ──> 霞が関作戦室]

事案指定第83号外達「冷海侵蝕」、強制破砕により結了。

被害:北部方面支部 実働調査官2名(殉職1、海中喪失1)。

北部支部の実働機能、完全壊滅。


【緊急措置具申】

北部支部の管区防衛を維持するため、

本庁調査部第1セルより、先任調査官2名を北部支部へ緊急転籍させることを承認されたし。

――これに伴い、本庁実働セルの即応予備枠はゼロとなる。

夜明け前の冷たい埠頭に、名もなき公務員たちの乗った黒塗りのワゴン車が、

赤色灯も点けずに静かに滑り出していった。

【用語解説:強制破砕と人的ローテーション】


第一種放棄(強制破砕処置)

現場に展開した調査官が殉職または侵食され、

現行SOPによる隔離が不可能と判断された場合の緊急プロトコル。

事象の封じ込めを断念し、協力機関(自衛隊・海保)の通常重火器や爆薬を用いて

対象および現場調査員ごと物理破砕し、

事象を強制終了させる。公的記録には「演習中の爆破処理」または「海難事故」として隠蔽される。


本庁からの緊急転籍(セルの再編)

地方支部(北部・西部等)において調査官の殉職等による重大な欠員が生じた際、

即応力を維持するため、本庁(東京)の熟練調査官を地方へ恒久転籍させる人事措置。

これにより地方拠点の破綻は防がれるものの、本庁実働部隊のバックアップ要員が枯渇し、

通常採用枠における新規人員の実戦投入前倒しを余儀なくされる。

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