第1話(前編):事案指定 第84号「常世浸食」
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:第84号「常世浸食」
発生場所:N県T署管内 旧M隧道付近
指定区分:第四種保全
初動対応:N県警 T警察署 地域課
霧の深い夜だった。
N県警T署地域課の巡査、三宅は、パトカーの助手席で白く濁るフロントガラスを
見つめていた。
赤色灯の鈍い回転光が、濡れたアスファルトを等間隔で赤く染めている。
国道旧道――十数年前に新トンネルが開通してから、
地図上からも半ば忘れ去られた廃道同然のルートだ。
その奥に口を開ける「旧M隧道」の手前で、
ハザードランプを点滅させたまま停車している大型トラックがある、
との通報が入ったのは二十分前だった。
「おい、三宅。行くぞ」
運転席の先輩巡査・五十嵐が、重い腰を上げた。
勤続二十年のベテランで、制服を着崩した、常に気だるげな男だ。
「事故ですかね。こんな旧道に入り込むなんて、カーナビの誤作動でしょうか」
「タチの悪い仮眠だろ。手早くノックして切符切って戻るぞ。山奥の夜勤は骨の髄まで冷える」
五十嵐が大型のマグライトを片手にパトカーを降りる。
三宅もクリップボードとペンを抱えて後に続いた。
外気は異様なほど湿り気を帯びていた。山特有の草木の匂いではない。
どこか生臭い、ドブ川の底の泥をすくい上げたような悪臭が鼻腔を突く。
放置された大型トラックは、闇の中に沈黙していた。
エンジンは切れているはずなのに、キャビン内の計器類だけが不規則に明滅を繰り返している。
カチ、カチ、カチ――。
リレーが焼き切れる寸前のような、乾いた機械音が湿った空気の中で響いていた。
「……運転手さん。警察です」
五十嵐がトラックの運転席側のステップに足をかけ、マグライトの光をサイドウィンドウに向けた。
「聞こえますか。こんなところで停車されちゃ困るんだよ――」
五十嵐の言葉が、唐突に途切れた。
「五十嵐さん?」
返事はない。
五十嵐はステップに乗ったまま、まるで全身を凍りつかせたかのように硬直していた。
彼が握るマグライトの光軸が、小刻みに、激しく震え始める。
三宅は不審に思い、足元に気をつけながらステップの脇へと歩み寄った。
五十嵐の肩越しに、ライトが照らし出すキャビンの中を覗き込む。
「え……」
息が止まった。
キャビンのフロントガラスは、内側から完全に塗りつぶされていた。
ペンキやスプレーではない。
ぬらぬらと生温かい湯気を立てる、粘度の高い「黒い泥」だ。
泥はガラスの裏側に分厚くへばりつき、生き物のように蠢きながら、
ゆっくりと人の顔の輪郭を形作っていた。
口に当たる亀裂が、音もなくパクパクと開閉を繰り返している。
運転席に、人の姿はなかった。
ただ、シートの上に広がる黒い泥の溜まりから、千切れた作業着の袖と、
すでに白骨化した指先だけが突き出ていた。
「ひっ……!」
五十嵐の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
その瞬間だった。
窓ガラスのわずか数ミリの隙間から、勢いよく噴き出した黒い泥の触手が、五十嵐の手首に巻き付いた。
「うわああああああっ!?」
五十嵐の巨体が、軽々と宙に浮いた。
「五十嵐さん!」
三宅は咄嗟に五十嵐の腰の帯革に飛びついた。
だが、引きずり込む力は、まるで産業用重機のワイヤーのように無機質で、圧倒的だった。
人間が出せる力ではない。
ミシミシ、ボキボキと、骨が圧壊する鈍い音が響く。
頑丈な体格を誇る五十嵐の体が、開くはずのない窓の細い隙間に向かって、
無理やり押し潰されながら吸い込まれていく。
「離せ! 腕を……腕を引け三宅ェェェッ!」
「五十嵐さん! 掴まってください! 掴まって――」
ブツン、と革の千切れる音がした。
五十嵐の警察手帳と無線機がアスファルトに弾け飛ぶ。
次の瞬間、五十嵐の体は頭部から泥の奥へと一気に引きずり込まれ、キャビンの中へと消えた。
静寂が戻った。
フロントガラスの裏側で、黒い泥が新たな輪郭を盛り上がらせていく。
それは紛れもなく、数秒前まで隣にいた五十嵐の顔だった。
泥の顔が、五十嵐の濁った声で、窓の内側から囁いた。
『――さむい、みやけ。さむい、さむい――』
「ああ……あああッ!」
三宅は腰を抜かし、濡れたアスファルトを爪が剥がれるほど掻きむしりながら、
無我夢中でパトカーへと這い戻った。
運転席に転がり込み、震える手でドアをロックする。
ダッシュボードの無線機の受話器を引っこ抜き、血が滲む親指で送信スイッチを押し込んだ。
「ほ、本部! 茅野署〇四! 応答してください! 緊急事態です!」
『――こちら本部、茅野〇四、落ち着いて送信せよ』
「旧M隧道です! トラックの運転手がいません! 五十嵐巡査部長が……何かに喰われました! 泥です! 泥の化け物が人間を飲み込んで――」
錯乱する三宅の叫びを遮るように、無線機のスピーカーから、
耳を刺すような高周波の電子音が鳴り響いた。
――ピィィィィィン。
『――音声認識アルゴリズム作動。雑音を遮断します。周波数を秘匿通信線へ強制移行』
機械的な、感情の抜けた女性の合成音声だった。
同時に、パトカーの車載データ端末がバチバチと火花を散らすように明滅した。
通常の地図画面が乱れ、漆黒の背景に、見たこともない真紅の警告マークが浮かび上がる。
[ALERT:遮断語彙検知]
発信元:N県警 T04
照合コード:生体同化 / 泥状流体 / 現行法適用不能
管轄変更:内閣官房直接管理事案
全ローカルログを暗号化・消去中……完了
「な……んだ、これ……?」
パトカーの端末が、勝手に警察本部のネットワークから切り離されていく。
無線機の向こうから、今度は極めて低く、冷静な男の声が聞こえてきた。
県警本部の通信指令室の誰とも違う声だった。
『茅野〇四、三宅巡査』
「な、誰だ! 五十嵐さんが……早く応援を寄こせ!」
『内閣官房だ。その場で動くな』
男の声には、焦燥も恐怖も微塵も含まれていなかった。
『窓を閉め、施錠を維持し、外を見るな。お前の所属長(署長)には、
すでに直通ルートで後退通達が下りている。これより先、現場は本府の直接管轄となる』
「なにを言ってるんだ!? 目の前で人が――」
『繰り返す。警察(お前たち)の手に負える事象ではない。本件は事前に当室の観測下にあった事象だ。外周待機中の先遣班が三分後に接触する。それまで車内を密閉し、絶対に外を見るな』
ツツツ……と通話が一方的に切断された。
パトカーの外では、カチ、カチとトラックのリレーが焼き切れる音と、
湿った土が蠢くような不気味な水音だけが続いていた。
三宅は息を殺し、震える手で拳銃のホルスターに手を掛けたまま、計器盤の時計を見つめ続けた。
一秒が一時間のように感じられた。
二分と四十秒が過ぎた頃――。
旧道の霧の奥から、低く重いディーゼルエンジンの重低音が地響きとなって迫ってきた。
ツツツ……と通話が一方的に切断された。
霧の奥から、低く重いディーゼルエンジンの重低音が地響きとなって迫ってきた。
パトカーの赤色灯とは比較にならない、暴力的な光量のサーチライトが、
真っ白な霧の幕を縦一文字に切り裂く。
現れたのは、警察のパトカーでもレスキュー車両でもなかった。
艶消しの漆黒で塗装された、見上げるほど巨大な六輪の装甲車。
それに続く、窓という窓をすべて金属板で塞いだ大型バン。
赤色灯もサイレンもない。
車体には警察の旭日章も、自衛隊の桜星符もない。
ただ、車体側面に白く無機質な英数字の識別コードだけが刻まれていた。
――何者でもない、名前を持たない者たちが、霧の中から音もなく現れた。
【事案経過】
指定区分:第四種保全 ──> 第二種排除(変更手続中)
出動:内閣官房 総合危機管理統括庁 第七準備室




