第16話:事案指定 第88号「天落変異」(其の四)
【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】
指定番号:第88号「天落変異」
指定区分:第二種隔離(遮断網破綻)
現場記録:調査部 第2セル / 第3セル 合同部隊
事象状況:宿主肉体損壊、第2世代幼生群の爆発的飛散
対処結果:SOPコード304(極低温物理遮断)失敗
汚染地域:N郡N村 開拓集落(第一種居住区)へ拡大
午前五時十分。
林道中継点。引き裂かれた佐伯の胸元から、破裂音が連続して夜気を切り裂いた。
防寒作業着の厚い生地と肋骨を内側から粉砕し、溢れ出してきたのは血でも肉でもなかった。
親指ほどの大きさの、半透明で白濁した無数の節足生命体。
その数は、優に数百を超えていた。
「――ギ、チチチチチッ!」
高圧ノズルから気体が噴き出すような金属摩擦音が、雪の森に反響する。
「炭酸ガス全開! ネットを固定しろ!」
第2セル班長の怒号が飛ぶ。
二門のキャニスターから純白の液化二酸化炭素が一気に噴射され、
路面全体がマイナス七十八度の極低温ドライアイスの煙で覆われた。熱を奪い、
生体を凍結休眠へ叩き落とす標準手順。
だが、白煙の中で起きたのは、休眠ではなかった。
「……吸熱相転移、停止しません!」
分析官が端末の叫ぶようなアラートを見つめて叫んだ。
「幼生群の密度が高すぎる! 個体同士が触れ合って熱を奪い合い、
急速冷却のエネルギーを活動代謝へ転換しています!」
アラミドネットが、ギリギリと悲鳴を上げた。
数百匹の幼生が一斉に顎門を高速振動させ、鋼鉄の数倍の引張強度を誇る特殊繊維を、
まるで紙屑のように噛み千切っていく。
ネットを食い破った無数の白い影が、雪面へ雪崩れ落ちた。
「後退! スーツに触れさせるな!」
第3セル班長が短く叫び、後退のハンドサインを出した。
雪の上へ着地した幼生たちは、尺取り虫のように節を伸縮させ、信じがたい速度で斜面を滑走し始めた。
雪の表面から蒸発する微小な地熱すらも吸熱し、幼生が通過した跡の雪は、
ガラスのように青黒く凍りついていく。
前衛にいた第2セルの分析官の長靴に、跳躍した一匹が取り付いた。
瞬間、バキッ、と硬質な破壊音が響く。
極寒冷地用の耐寒ラバーブーツが、幼生が接触した接点から一瞬で過冷却状態に陥り、
陶器のように粉々に砕け散った。
「ぐっ……!」
「足を引け!」
班長が分析官の襟首を掴んで強引に引き倒し、即座に携帯用の高圧窒素ボンベを噴射して
幼生を吹き飛ばした。
靴底を失った分析官の足先は、靴下越しに重度の凍傷を起こし、皮膚が白磁のように凍りついていた。
「佐伯の肉体、完全壊死!」
雪の上に残された佐伯の残骸――防寒作業着の抜け殻は、内臓と骨の芯まで吸熱され尽くし、
乾いた灰のような粉末となって風に吹き散らされていた。
そして、解き放たれた数百の幼生群は、一つの巨大な「白い帯」となって林道を下り始めていた。
進行ベクトルは南南西。
雪を削り、木々を凍らせながら、時速三十キロを超える速度で斜面を滑落していく。
「SOPコード304、完全失敗」
第2セル班長は即座に端末の非常キーを押し込み、本庁作戦室の直通回線を開いた。
「第2セルより作戦室。事案指定第88号、宿主の肉体が崩壊。第2世代幼生群が推定五百以上、
林道沿いに飛散した。現用資材による物理遮断は不可能。
……対象はこれより三分以内に、麓のN村開拓集落へ突入する」
『――作戦室受領。状況はフェーズ3へ移行した。
合同セルは集落の手前五百メートルに停止線を再設定し、外郭を監視せよ。
……これより、最終手段の承認手続きに入る』
午前五時二十五分。
N郡N村、開拓集落。
針葉樹林の切れ間に広がる平坦地に、十数軒のトタン屋根の民家と、木造の牛舎が点在していた。
東の空がわずかに白み始めていたが、山間の集落はまだ深い霧と凍てつく静寂の中にある。
酪農を営む菅野(かんの・68歳)は、防寒ヤッケに長靴を履き、
納屋からプラスチックのスコップを持ち出した。
毎朝五時半の牛の給餌と搾乳。氷点下十五度の冷気に身震いしながら、
母屋の裏手にある牛舎へと雪を踏みしめて歩く。
「……今朝はやけに静かだな」
菅野は白い息を吐きながら呟いた。
いつもなら、足音を聞きつけたホルスタインたちが鼻息を荒くし、
カウベルを鈍く鳴らしているはずだった。
だが、牛舎からは物音一つ聞こえない。
それどころか、牛舎のトタン屋根から下がる無数のツララが、
カチカチと不自然に小刻みな振動を繰り返していた。
カラカラ、と乾いた音を立てて木製の引き戸を開けた。
その瞬間、牛舎の中から押し寄せてきた空気に、菅野は息を詰まらせた。
牛の体温と発酵飼料の匂いで温まっているはずの屋内が、
業務用の冷凍倉庫よりも遥かに冷え切っていた。
吐き出した呼気どころか、眼球の表面がパリパリと凍りつくような刺突的な冷気。
「おい……どうした、ハナ……」
菅野は手探りで壁の蛍光灯のスイッチを入れた。
ジジ、と鈍い放電音とともに点灯した薄暗い光の下で、菅野の膝が崩れ落ちた。
牛舎の土間。
繋ぎ杭に固定されていた三頭の乳牛が、コンクリートの床に横倒しになっていた。
体重六百キロを超える巨体が、まるで水分をすべて抜き取られた乾物のように、平たく収縮していた。
白黒の毛皮は茶褐色に変色して骨にへばりつき、大きく開かれた眼窩の奥には、
親指ほどの丸い穴がぽっかりと口を開けていた。
血は一滴も流れていない。
床一面に、青白く濁った氷の結晶が、幾何学模様のように広がっていた。
「ひ……っ、なんだ、これ……!?」
ガサリ、と頭上の梁の上で音がした。
菅野が恐る恐る視線を上げると、乾燥した干し草が積まれた二階のキャットウォークから、
無数の「白い影」がこちらを見下ろしていた。
半透明の節足の身体。
死んだ牛たちの体温と血液を吸い尽くし、親指大だった幼生たちは、
すでに猫ほどの大きさにまで膨張していた。
チチチチチッ――!
甲高い鳴き声が、牛舎のトタン屋根を震わせた。
梁の上にいた数十匹が一斉に体を震わせ、床の菅野へ向けて、雨あられのように飛び降りてきた。
「うわああああああああっ!」
菅野はスコップを振り回したが、空を切った。
長靴を履いた足首に、冷たい氷の塊のような衝撃が食らいつく。
瞬間、激痛すら感じる間もなく、右足の感覚が消えた。
血管の中を液体窒素が逆流していくような、圧倒的な熱量の喪失。
菅野は牛舎の床へ倒れ伏し、這い出ようと手を伸ばした。
だが、その背中へ、首筋へ、開いた口の中へ、白く蠢く無数の影が雪崩のように潜り込んでいった。
午前五時三十五分。
集落を見下ろす林道の手前五百メートル。
第2セルと第3セルの二台の調査車両が、エンジンをアイドリングさせたまま雪堤に停車していた。
双眼鏡を覗き込んでいた第3セル班長の手が、静かに止まる。
暗視モニターに映し出されたN村開拓集落。
最初の牛舎から、隣の農家へ。
煙突から煙を上げていた民家の窓が、内側から青白い霜で覆われ、
吹き消されるように熱源反応が消失していく。
そして――。
民家の玄関から、関節を不自然にねじ曲げた「村人たち」が、
緩慢な足取りで雪道へと歩み出てきていた。
その腹部は、防寒着の上からでもわかるほど異様に膨張し、煮え立つような生殖熱の斑点を宿していた。
「集落全域へ侵入完了。……宿主の二次感染、すでに十名以上」
第3セル班長の声は、酷く乾いていた。
「増殖速度が指数関数的に跳ね上がっている。集落の住民六十名がすべて殻にされれば、
幼生の数は数万を超える。……この谷から溢れ出せば、二時間で道央の幹線道路へ到達するわ」
車載の衛星暗号通信機から、重いノイズとともにトーン音が鳴り響いた。
東京・内閣官房第七準備室、作戦室統括官からの直接下令だった。
『――現地全ユニットへ通達。事案指定第88号「天落変異」、対処フェーズを最終段階へ移行する』
受話器の向こうの声には、一切の躊躇も感情も含まれていなかった。
『通常SOPによる物理隔離は完全に破綻した。感染源の道内拡散を阻止するため、
内閣総理大臣特命に基づく「第四種焦土プロトコル」を発令する』
第2セル班長が通信機を握り直した。
「……第四種焦土。極超高熱による熱兵器投下か」
『そうだ。吸熱限界を超過させるサーマル・オーバーロード兵器を積んだ、無標識戦術機が一機、
すでに三沢沖より現場上空へ進入中だ。集落の住民の救出・隔離は一切行わない。
村ごと、全熱量を叩き込んで消去する』
統括官の冷徹な宣告が、凍てつく車内に響いた。
『現地部隊は直ちに最低退避限界線――林道入口の警察封鎖線まで後退せよ。猶予は十五分。
……間に合わねば、貴官らもろとも消滅する』
【用語解説:集団吸熱連鎖と焦土プロトコル】
集団吸熱連鎖
外宇宙吸熱生体の幼生群が密集した際に見せる異常代謝。個体数が一定密度を超えた場合、
周囲の環境熱や急速冷却材(ドライアイス等)の熱エネルギーを相互に整流・中継し、
単体時を遥かに超える効率で運動エネルギーへ変換する。
この状態に達した群れに対し、現用の物理拘束・化学冷却資材は一切の効果を失う。
第四種焦土プロトコル(特例熱線消去)
第七準備室が策定する最終対処要領の一つ。
特異生体や怪異の自己増殖・侵食が通常SOPの封じ込め能力を完全に突破し、
広域汚染が不可逆と判断された場合にのみ発令される。
主権国家としての公的記録に残らない無標識航空機を用い、
燃料気化または極超高温熱兵器を投下して対象地域を住民・生態系ごと不可逆的に焼灼・滅菌する。




