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第15話:事案指定 第88号「天落変異」(其の三)

【内閣官房 第七準備室 事案記録抜粋】

指定番号:第88号「天落変異」(事案正式統合)

指定区分:第三種遮断(特定隔離事態)

現場合同:調査部 第2セル(物理分析班) / 調査部 第3セル(生体鑑識班)

現場位置:N郡国有林 第4林班 林道中継点(標高620m地点)

対象:宿主(森林組合作業員・佐伯 / 24歳)

現着時刻:午前四時五十分


午前四時五十分。

夜明け前の針葉樹林は、藍色の濃密な朝霧に沈んでいた。


第3セルの特殊検査車はヘッドライトを消灯し、赤外線暗視カメラの映像だけを頼りに、

緩やかな下り勾配の未舗装路を進んでいた。

フロントガラスの向こう、雪泥の路面には、

右足のつま先が真横を向いた異様な引きずり痕が途切れることなく続いている。

踏み荒らされた足跡の縁から微小な水分が蒸発し、路面一面に青白い霜の結晶が帯状に広がっていた。


「――前方斜面、降下音。味方識別ビーコン反応あり」


助手席の分析官が、手元の耐衝撃型タフパッドの画面を叩いた。


林道の山側、トドマツの急斜面を裂いて、雪煙とともに三つの黒い影が滑り降りてきた。

山頂のクレーターで物理測定を終え、吸熱痕跡を直下降で追尾してきた第2セルだった。


先頭の第2セル班長が雪を払いながら検査車の助手席側へ歩み寄り、胸元の端末をかざした。

車内の第3セル班長も無言で自班の端末を差し向け、ミリ波近接通信の同期ボタンを押す。


チ、チ、チ、と短い暗号通信音が鳴り、両者の画面に二つの質量分析スペクトルが並んで展開された。


[戦術データリンク:検体自動クロスチェック]

第2セル採証(クレーター底面・凍結岩盤残渣)

×

第3セル採証(詰所遺体・眼窩穿孔凍結残渣)


・分子主骨格:非地球性アモルファス有機ケイ素複合体

・アミノ酸配列:右旋性ペプチド鎖

・相関度:99.87%(完全合致)


【判定:同一実体由来】

事案指定第88号「天落変異」へ正式統合

対処区分:第四種保全 ──> 第三種遮断へ格上げ


液晶の青白い光が、二人の班長の防護マスクを照らし出す。

口頭での状況確認は不要だった。詰所での変死体検視、安藤の体内での幼生増殖、

そして通常火気の無効化(サーマル・オーバーロードの必要性)に関する生体データは、

すでに登坂中の検査車から第2セルの端末へリアルタイムで同期されていた。


「クレーターの吸熱相転移データと完全に噛み合っている」


第2セル班長が、低く乾いた声で言った。


「奴は大気圏突入の高熱を吸収して相殺し、過冷却状態で着弾した。

いま動いているのは、地熱と作業員の体温を吸って休眠から覚醒した親個体だ」


「現在、佐伯の体内で第2世代の幼生群を孵化させている」


第3セル班長が車から降り立ち、後部ハッチを開けた。

「通常火炎は幼生の孵化を爆発的に加速させる。現場の装備で数千度の極超高熱は出せない。

……SOPコード304でいく」


「了解。極低温物理遮断パッケージを展開」


二つのセル、計六名の調査員が無言の連係で動いた。

火器による破壊ではなく、環境遮断によって生体を強制的に再休眠させるための現用資材が、

アルミコンテナから次々と引き出される。


高張力アラミド繊維製の拘束ネット射出器。

周囲の熱伝導を遮断する多層真空断熱ブランケット。

そして、対象の周囲から気化熱を奪い局所的な超低温を作り出す、二酸化炭素急速パージキャニスター。


「集落まで残り一・八キロ」


第2セル班長が、暗視ゴーグルの倍率を上げた。

「日の出まで三十五分。村人が外に出る前に、この林道上で捕捉し、密閉ドラムへ押し込む。……散開」


車両のエンジンは停止された。

六名の調査員は足音を殺し、林道両脇の木立と雪だまりに身を隠しながら、

隊列を扇状に広げて前進した。


風が止んでいた。

標高六百メートル付近の林道は、音の一切が吸い込まれたかのような静寂に支配されている。

カーブを曲がるごとに、空気の肌触りが明確に変質していった。

鼻腔の粘膜がピリピリと痛むほどの異常な冷気。

吐き出した呼気が白く濁る暇もなく、微細な氷粒となって地面へ落ちる。


「……前方に視認」


前衛の分析官がハンドサインを出した。


霧の帳の向こう、およそ八十メートル先の雪道。

一人の男が、山を下る方角へ背を向けて立ち尽くしていた。


紺色の防寒作業着に、泥まみれの作業ズボン。森林組合の作業員・佐伯だった。


ズザッ、ズザッ――。

男は緩慢な動作で、右足を引きずりながら一歩を踏み出した。

右足の関節は外側へ九十度ねじれ、腱が断裂しているはずの足首が、

骨の軋む音を響かせながら凍った雪を削り取っている。


第2セル班長が赤外線サーモグラフィのスコープを覗き込んだ。

ファインダーの向こうで、異様な熱分布が描出される。

佐伯の全身は、外気温以下のマイナス十数度を示す青黒い輪郭として沈んでいた。

生命活動を停止した死体そのものの温度。

だが――防寒作業着の下、腹部から胸部にかけての中央部だけが、

無数の米粒大の熱点となって煮え立つように赤黒く明滅していた。


幼生たちの爆発的な細胞分裂熱。

宿主の肉体から水分と熱を吸い尽くしながら、その体内で無数の生命が孵化の瞬間を待っている。


「防寒作業着の背面を見ろ」


通信機の内蔵マイクに、第3セルの分析官の押し殺した声が乗った。


厚手の防寒着が、内側から不規則にボコボコと波打っていた。

まるで皮膚の下に無数のムカデが潜り込み、肉を喰い破りながら蠢いているかのように、

布地が激しく隆起を繰り返している。

襟元からは、黄色く濁った体液と白濁した分泌液が、凍結した泡となって吹き零れていた。


「包囲完了。射程四十」


左右の茂みから、二門のネットランチャーが佐伯の背中へ照準を固定した。


「照射用意。……撃て」


パシュッ、と圧縮ガスが炸裂する鈍い破裂音が二重に響いた。

展開した二張りのアラミドネットが空中を飛翔し、佐伯の頭上から雪煙とともに被さり、

その肉体を路面へと縫い止めた。


間髪を入れず、両脇から駆け寄った隊員が二酸化炭素パージキャニスターのバルブを開放する。

シューッという激しい噴射音とともに、純白の冷煙がネットの上から浴びせられ、

路面の雪が一瞬でドライアイスの層へと凍りついた。熱の供給路を断ち、強制休眠へ誘導する標準手順。


佐伯の肉体は前のめりに倒れ伏し、動かなくなった。


「拘束完了。真空ブランケットを展開――」


分析官が銀色のシートを広げて駆け寄った、その刹那だった。


バキッ、ギリリッ――!


凍りついた樹氷がへし折れるような、硬質な破壊音が足元から響いた。

ネットの下に押し倒されていた佐伯の体が、前を向いたまま、突如として不自然に硬直した。


そして――首だけが。

頸椎がボキボキと鈍い音を立てて砕け散りながら、人間の骨格構造を完全に無視して、

真後ろへ――百八十度、滑らかに回転した。


パシッ、と皮膚が引き裂ける乾いた音がした。

振り返った佐伯の顔面は、すでに人間の原形を失っていた。


右目はすでに眼球を失い、ぽっかりと開いた眼窩の奥から、白く濁った節足動物の脚のような組織が、

昆虫の触角めいてチロチロと外気を探るように蠢いていた。

そして、唯一残された左目の角膜は白濁して引き裂かれ、血の気を失った唇が耳元まで裂け、

黄色い歯列が剥き出しになっていた。


「――キ、ギギッ」


喉の奥から漏れ出たのは、人間の呼吸音ではなかった。

超高圧の蒸気が細いノズルから噴き出すような、金属的な空気の摩擦音。


次の瞬間、佐伯の胸元の防寒作業着が、内側からの猛烈な圧力によってバリバリと弾け飛んだ。


破れた布地と皮膚の裂け目から溢れ出してきたのは、内臓ではなかった。

親指ほどの大きさの、半透明で白濁した無数の幼生群。

凍てつく外気に触れた瞬間、幼生たちは金属性の甲高い鳴き声を上げながら、

アラミドネットの網目を喰い破るように一斉に蠢き始めた。

【用語解説:対処資材とデータ統合】

SOPコード304(極低温物理遮断手順)

吸熱・過冷却特性を持つ特異実体に対する標準対処要領。

中途半端な熱源(火炎・テルミット)が逆効果となる対象に対し、

二酸化炭素等の急速気化資材を用いて周囲の熱量を完全に奪い去り、

生体を強制的な活動停止(超低温休眠状態)へ誘導した上で、

多層真空断熱ブランケットおよび気密ドラムによって物理隔離を行う。


事案正式統合(電子的データクロスチェック)

初期対応において「関連疑い」として別個に収集されていた物証(物理的残渣、生体分泌液等)の

質量分析スペクトルやアミノ酸配列が、

現場端末間のミリ波データリンクによって完全一致(99%以上)した瞬間に発令される組織手続き。

これにより事案番号が一本化され、現場指揮権および対処基準が

上位の「第三種遮断(実力排除・隔離)」へ引き上げられる。

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