chapter1-2
その男は、内田真一と名乗った。勤めているのは近くの教育関係の本を多く手掛ける出版社で、年齢は詳しくは明かさなかったが、「あなたより年上ですよ」、とだけ言った。詳しい自分の身の上はそれ以上語らず、私もそれほど興味はなかった。聞いたところで自分とは明らかに違う上等な家庭で育ったことにため息をつくだけだろうし、映画の中の登場人物のように紳士なこの男に生活感を感じてしまうのも嫌だった。
内田のほうからは、私の出自や今の仕事について色々と聞いてきた。ときにはうんざりして話を濁すこともあったが、話して困らないような程度の内容は話した。特に、今の仕事に関してどれほど私が不満を抱いているか、会社に不快感を感じるような人間がどれだけいるか、などをよく聞いてきた。聞くたびに少し口の端をあげながらうんうん、と頷いた。そして、私と話をする口実だったはずの内田自身の仕事に対する不満は、たまにオマケ程度に話すだけだった。
どうしても胡散臭い感覚をぬぐえなかった。確かに、内田は外見も、一つ一つの仕草も、声も、どれをとっても申し分なく魅力的だったが、どうも信用できなかった。内田が私に近づいてきた口実が実際には違うのだとすると、やはり何かの勧誘か、もしくは奇跡的に私に好意があるかだったが、内田はどちらの気配も全く感じさせず、ただ魅力ある動きをしながら、事務的に私と話をした。こんな感覚は、今までになかった。
「少し、聞いていただきたいお話があります」
知り合って二週間ほどした日、いつもの公園で会った内田は私に急に話を切り出した。私は、ついにきたか、と思った。自分の信じる宗教の神の起こした奇跡についてとうとうと話すのだろうか。それとも自分の会社の成績が思わしくないと言い、どうか少しでいいから契約をしてくれないかとお願いしてくるのだろうかと私は考えた。
「ええ、いいですよ」
「少し長くなりますので、仕事に戻る時間になったら遠慮せず言ってください」
「ああ、ええ…」
そんなに長くなる話、いったいどういう話だろうかと思った。そして妙なのは、内田から「どうにか話を聞いてくれ」という必死さが感じられないことだった。今まで何度か出会った宗教の勧誘やキャッチセールスなどとは、雰囲気が違った。
「ある、男の話です。時間はそう、今から40年以上前でしょうか…」
突然男は物語を話し出した。40年以上前…昭和の時代だ。私が生まれる10年以上前。自然と、頭の中に描く世界はセピア色に染まった。
「男は20を少し超えたばかり。今よりもずいぶん大学の敷居が高かった時代、その時代の大学生です。それも、かなりの名門大学の学生です。しかし、そんな学問の府に所属していたにもかかわらず、男は学問に身を投じることはありませんでした。周囲の優秀な学生は多くが底の見えない学問の沼の中になにがあるのかを知りたがり、積極的に議論を交わしては沼へもぐりました。男も学問の奥深さ、その面白さ、そういったものに興味がなかったわけではありません。いや、むしろ周囲の学生以上に男の若く鋭敏な知のアンテナは学問への興味を示しました。それでも男が学問に身を投じなかったのは、差し迫る自らの人生の課題への対処のほうがずっと重要で、学問にかけている時間すら惜しかったからです」
私はその男を想像した。40年前の大学生、どんな格好をしていたのだろうか、あまり想像がつかなかった。ただ、内田のその表現から、利発そうに引き締まった口元と、自分の今すべきことを正面にしっかりととらえる、力強い光を蓄えた瞳が頭に浮かんだ。
「差し迫った課題というのは、男の将来のことです。将来についてというのは年頃の男ならば、いえ、女性でも、誰でもそれなりに考えるものです。しかし、男は多くの若者が抱くようなあいまいな将来ではなく、ごく間近に迫ったリアリティのあるものとして、将来をはっきりと目の前にとらえ、そして格闘していたのです」
(続く)




