70.笛吹きの悪夢
東地区大通り。深夜のアッチェラードの店の二階で、動く人影があった。
「あ~あ。アッチェルのやつ、準備万端だと思って寝やがって。やっぱり思い出さなかったんだな」
人影は、食器棚の前に脚立を持ってくると、最上段の食器の奥を探った。
「せっかくある程度は使えるってのに……、お、あったぞ」
その人物が手にしたのは、アンティークのダガーであった。さやに植物の浮き彫り模様のついた、短いもろ刃の剣である。
「ここに隠したことすら忘れてるんじゃねえか? まあ、荷物の中に入れておいてやるか」
その人物は、うーん、と伸びをした。
「久々に俺の出番があるかもな」
翌朝アッチェルが目を覚ましたとき、ひどく寝覚めが悪かった。
悪夢を見たのだ。
「またあの夢か……」
父や母が生きている、という設定の夢はあきるほど見ている。
それは悪夢でも何でもない。
現時点で実は生きていた、という設定では、「なーんだ、本当は生きていたんだ!」と嬉しい気持ちで、不思議に疑いもしない。
もしくは、子供の頃の自分という設定で当たり前のように生きていたりする。
目を覚ましたときに、やっぱりいないということに気付いて、しばし呆然とするが、それにももう慣れた。
父はともかく、母が亡くなってから7年も経つのに、未だに母がまだ生きている、という夢を見ることに自分でも驚く。
普段の生活の中でそんなに思い出さないのに、夢にはたびたび出てくる。
そのことはレーカにも話していない。どう受け止めていいか困ると思うからだ。
画家のラジャブじいさんが言っていたように「風は万能」なので、時間という風が心の傷も風化させていってくれるのを待つしかないのかもしれない。
そういうわけで、父や母が生きている、という設定はいいとして、悪夢だったのは、そこに“笛吹き”が出てきたからだ。
この“笛吹き”はたまにアッチェルの夢の中に登場した。
頭からフードをかぶり、道化師のような格好をした笛吹きが、笛を吹きながら先頭を踊るように歩いていく。
その後ろを子供たちがついていく。
「アッチェルも行こうよ、すごく楽しそうだよ。面白いものを見せてくれるって!」
アッチェルの学校の友達がアッチェルを誘う。
アッチェルはそんなに行きたいとは思わないが、他の子供たちは何かに取り憑かれたかのように目をきらきらさせて、わき目も振らずに笛吹きに付いていく。
「待って、父さんと母さんに行くって言ってこなきゃ」
「そんなことしてたら、行っちゃうよ。早く追いかけないと、行っちゃうよ!」
笛吹きは城門を出て行く。
門兵は、指名手配者でなければ門を出る者をとがめることは無いが、さすがに大勢の子供を引き連れて門を出ようとする笛吹きを制止しようと呼び止める。
だが、その門兵に子供たちが笑いながら掴みかかる。
「うわ、やめろ、いったいどうしたんだ!?」
無邪気な様子の王都の子供たちに門兵は手荒なこともできず、振り払おうとするが、人数が多い。
そうしているうちに、笛吹きや他の子供たちは遠ざかっていく。
アッチェルは友達に聞く。
「ねえ、どこに行くの? みんなどうしちゃったの? 怖いよ」
(笛吹きを止めなくちゃ、笛吹きを止めなくちゃ)
アッチェルが走って行って、後ろから笛吹きのフードをつかんで脱がせると、炎のように真っ赤な髪がこぼれ落ちた。
笛吹きは驚いて振り返り、金色の目を見開いて、アッチェルに手を伸ばす。
「あーーーーーー!!」
アッチェルは叫んで目が覚めた。
今までも笛吹きの夢を見たが、城門のところで目が覚めることが多かった。今回は初めて笛吹きと対峙した。
昨日、屋根裏部屋の本の中で見た、“新月の民”を思い出した。ヴァルナ地方には“新月の民”と呼ばれる少数民族の村が点在している。
赤い髪と小柄な体が特徴で、独自の文化を持っている。彼らは先祖に魔物の血を引くと言われている。
「笛吹きは新月の民だったのかな……。笛吹きの夢をよく見るけど、あれって私の想像じゃなくて、本当にあったことなのかな……?」
笛吹きの悪夢は何かの象徴なのかと思って、誰かに話すことも無かった。
本当にあったことなのだろうか。アッチェルが忘れているだけなのかもしれない。
「エスプリ様なら知っているかもしれない。聞いてみよう……」
悪夢のショックから覚めやらず、アッチェルはしばし呆然としているが、今日は旅立ちの日だということを思い出す。日の出前。悪夢を見たおかげで、寝坊せずに起きることができた。
「出かける支度をしないと……!」
父も母もいない、ということにもすぐ気づく。一人なのだ。
こんな気持ちで、昨日の出来事を思い出すと、なんだか恋だのキスだの浮かれていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
あの、キスされそうになったかもしれない、という思い出を、私の人生で唯一の甘い思い出にして、この先ずっと生きていくことになるかもしれない、と思う。
あれを大切な思い出にして、封印して、フェルとは数週間離れているうちに、フェルの変な態度もきっと元に戻って、何も無かったように暮らしていくんだろう。
きっぱりと、気持ちを切り替えて、私は強く生きていこう。
私は敬愛する父の名を継いだ、アッチェラードなのだから。
自分でコントロールできないような心に振り回されたくない。
忘れよう、忘れよう。思い出しても気持ちを乱されないようになるときまで、忘れよう。
(……同じようにして、本当に忘れてしまったことが他にもある気がする。
笛吹きのことだろうか……? 笛吹きは実在したんだろうか……?)
アッチェルは簡単にパンと水で朝食を済ませると、荷物を肩に背負って店を出る。
真夜中に荷物に追加されたダガーには気づいていない。
店を出ると、こんな明け方にも関わらず、朝靄の中で人が待っていたのでぎょっとした。
「アッチェラードさん、お早う。良かったわ。お会いすることができて」
それは、昨日店に来てくれた、常連客の上品な老婦人だった。
「旅に出るならお薬が必要だと思って。昨日夕方に持ってきたのだけど、いらっしゃらなかったから。お会いできて良かったわ」
そう言って、にっこりと笑う。その笑顔から、若かった頃はたいそう美しい人だったに違いないと思う。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言ったが、動揺を抑えきれない。なぜこんな明け方に店の前で待ち構えてまで薬を渡そうとするのだろう。単にものすごく親切な人なのだろうか。
……いや、異様だ。
「私はお城で魔法薬剤師をしているのよ。だから、魔法薬を持っているの。これが傷を治す薬、これが状態回復薬、これが……」
小瓶や袋に入っている薬の説明をしてくれるが、頭に入ってこない。だが、すべてにラベルが貼られているため、間違えずには済みそうだ。
「あなたは魔法薬剤師だったんですね。昔からよく店に来ていただいて。父とお話されているのを時々見かけました」
「そうなのよ。今だから話してしまうけれど、あなたの記憶が一部欠けていることについて、お父様からご相談を受けていたの」
突然さらっとそんなことを言われて、アッチェルは体が固まってしまう。
「無理に思い出す必要はなくて、忘れたままで生きていければそれで問題はないの。でも、思い出したいと思ったときに、思い出せるようにしてもらえないか、とお父様が仰っていたわ。そんな薬はないものかと」
「あなたは、私が何を忘れているかご存知なのですか?」
「ええ。でもそれはあなたが自分で思い出さなければ意味のないこと。今、伝えることはできるけれど、ただ言葉で伝えただけではあなたの重荷になるかもしれない。
忘れたままなら忘れたままでもいいのよ。ただ、あなたの記憶と一緒に、あなたの力も忘れてしまっているの。
もしあなたが旅の途中で、誰かのために自分の力を役立てたい。そのためなら、つらい記憶を思い出すことも構わない。そう思ったら、この薬を使って、思い出してちょうだい」
そう言って、老婦人は小瓶をアッチェルに差し出した。
「それはつらい記憶なのですか?」
「……ええ。つらい記憶だから、あなたは自分を守るために、それを忘れたのよ」
「でも、それと一緒に力も無くしてしまったのですね。それはどんな力なのですか?」
「……まあ、一種の、戦闘中に仲間を助けることができる力、といったところかしら」
「教えてはいただけないのですか?」
「むやみに喋って、それがきっかけになって思い出してしまうといけないから、今は話せないわ。思い出すことが必要にならなければ、ずっとそのままでもいいのよ。あなたの心が、思い出さない方がいいと判断して忘れた記憶ですもの」
ふと、この人に聞いてみようかと思った。
「それは、“笛吹き”に関係していますか?」
笛吹きという言葉が出たとたん、老婦人はさっと青ざめて胸の前で魔除けのポーズを取った。
やはり、笛吹きは何か忌まわしいものに違いない。
「昔から、ときどき夢に笛吹きが出てくるんです」
「そう……。そうなのね。当たっているわ。関係している。でも、私は、関係している、としか、今は答えられない。笛吹きのことは、あなたは完全に忘れてしまっているけれど、他の人にとっても忘れたい、思い出したくない事件だったわ……」
では、その事件にショックを受けて、その事件付近の記憶が無くなってしまった、ということなのだろう。
「それがどんな事件だったのか、教えていただけませんか?」
「あなたは、思い出したくなければ、人に聞かない方がいいわ。つらいことを思い出してもいいから、力を取り戻したいと思ったときにだけ、人に尋ねてみたり、薬を飲んでみたりするといいわ。
あなたのお父様も、あえてあなたにその事件について話さなかったし、この王都に住む人も誰も思い出したくないと思って、その事件について話す人もいないわ。ちょうど流行り病で人が大勢亡くなった時期のことで、それも含めて、あの頃のことはみんな忘れたいのよ」
アッチェルの母も、王妃も、重鎮のリール公爵もその流行り病で亡くなったと聞いている。
レーカの一家が王都に店を持ったのは、その後の6年前のことなので、レーカは笛吹きを知らないだろう。今思えば、流行り病で多くの人が亡くなり、空き家が増えたので都に店を持つことができたのかもしれない。
アッチェルは母が亡くなったので学校へ行かなくなり、店の手伝いをするようになっていたので、それ以降、学校の友達には会っていない。レーカが王都に来て、一番の友達になってくれてとても嬉しく思ったものだった。
それにしても、思い出したくないなら聞くなと言われても、自分が昔から夢にたびたび見ていた笛吹きが実在し、実際にあった事件と言われると好奇心がうずき、エスプリに会ったらすぐにでも聞いてしまいたいような衝動にかられる。
しかし、記憶を無くすほどのトラウマ体験をしたのだとすると、思い出すのが怖い気もする。
すべてを知らない方が楽だったのかもしれない。旅にも出ず、特にその力とやらも使う機会もなく、平穏に何も思い出さずに暮らしていた方が楽だったのかもしれない。
寝た子を起こされた気分だ。
フェルと推測をしたように、たとえば黒魔女の館に強大な魔物が待っているとして、もしそうであれば黒魔女の館に着く前にこの薬を飲む必要がある。
何が待っているにしても、黒魔女の館が旅の目的地で、相当の危険をダルセニオンが覚悟しているらしいことはフェルの話から明らかなので、自分はこの旅の目的地に着くまでのどこかで、この薬を飲むのだろう。
だから、その覚悟はしておかないといけない。
思いがけず、一つ重荷を背負ってしまった。




